金田一京助博士記念賞

第35回金田一京助博士記念賞

笹原宏之氏『国字の位相と展開』

授賞理由

笹原宏之氏『国字の位相と展開』に対して

国字というものは中国における用法から外れたものと意識される傾向があったために、これまでは日本独自の用法として実証的・体系的に研究されることはほとんどなかった。笹原宏之氏の『国字の位相と展開』は、そのような国字の問題を通時的な変化、地理的な分布、社会的な慣習などの視点から考究し、詳密でかつ総合的な研究書の嚆矢と言えるものとして高く評価される。

本書はまず序章に「研究の目的と方針」を置く。

第一部「国字とは何か」では、ともすればこれまで曖昧なまま使われてきた国字という概念を江戸時代の白石等の研究にまで立ち戻って徹底的に検討し直すことから始めている。その結果、中国になかったということを出自・用法などから検討するだけでなく、関わりのありそうな例を渉猟し、異体字や佚存文字、暗合、衝突などの概念規定に基づいて、日本で作られた国字であるかどうかの判断をしている。実例の徹底的な分析に裏打ちされた国字研究の方法を進めている点で注目される。

第二部「国字の位相」は、国字研究に広く位相的な観点を取り入れたものである。個人文字は主として安藤昌益の例を検討している。地域文字は地名を中心に歴史、空間の両面から検証している。さらに、社会的に諸分野で用いられている文字の位相に及ぶ。語彙における位相の問題はこれまでにも大きく取り上げられてきたが、書名にも「国字の位相」が使われていることは著者の位相に対する思い入れの窺えるところであり、国字研究の中核に位相を置くことは新しい考え方と言えよう。

第三部「国字の展開」では、第二部を受けて、漢籍に典拠を欠く個人文字が、ある地域に使われる地域文字となり、さらに特定の社会に広まって位相文字となってゆくことを、字誌として示している。また、それらが一般語にも用いられ、中国や韓国などに受容されるに至った例をも示している。このような研究によって、文字研究における国字研究の意義が明らかになってきた。

最後に終章「国字研究の展望」を置いてまとめとしている。

以上述べてきたように、本書は国字の位相と展開を体系的に総合的に明らかにすることを試みたはじめての研究書と言えよう。検討の範囲が多方面にわたっているので、一つ一つの分野においてはなお検討すべき点はあろう。たとえば、「暗合」「衝突」などの用語も重要なものであり、今後も検証してゆく必要があろう。しかし、本書は総合的な国字研究書として十分に金田一京助博士記念賞に値するものと評価される。

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受賞の言葉

笹原宏之

笹原宏之氏近影このたびは、第35回金田一京助博士記念賞の栄誉にあずかり、身に余る光栄に存じますとともに、その重みを改めて実感致しております。

授賞の対象となりました小著『国字の位相と展開』は、国字すなわち日本製漢字の類に対し、その生成と歴史的変化、地理的・社会的分布などを把握するための研究をまとめたものです。思い返せば小学生の時に単純に面白いと思ったことが関心の始まりでしたが、早稲田大学で中国文学、同大学院で国語学(日本語学)を専攻し、学問の成果、殊に日本語学や中国語学の枠組みに触れることで、国字に対する問題意識が明確化しえたと思います。中でも日本語学で蓄積された文字表記、さらに語彙や音韻、方言などの方法論は、国字を含む漢字を研究する上で極めて有効かつ示唆に富むものでした。

ご指導いただいた先生方、特に杉本つとむ先生、秋永一枝先生、古屋昭弘先生のご講義は、古今の漢字、音韻、位相語や各地の方言など多岐にわたり、それらの分野のように国字を体系的にまとめてみたいとの願いを抱きました。さらに大学院では、辻村敏樹先生、野村雅昭先生より敬語や漢語についてもお教えいただき、その願いを実現すべく研究に踏み出すことができました。改めて先生方の学恩の深さを感じております。野村先生には、小著の基となった学位論文を成立させる上で、書名、内容、形式の各面にまで温かいご教導をいただきました。博士後期課程在学中から15年間に書いた論文の中から、国字に直接関連のある21 本を選ぶことから始めましたが、そこには国字の動態を未熟ながら必死に追いかけてきた跡がありました。体系性を保つようにとの漠然とした見通しをもって、国字、地域文字、位相文字、個人文字、暗合などの概念規定を行い、個々の字誌の記述などにおいて折々にテーマを設定してきましたが、古い小考などに表現、内容、用例そして考え方について補訂すべき部分があるなど、気付かされることも多々ありました。学位論文の審査における高梨信博先生、上野和昭先生、またこれまで査読などを通じてご教示下さった先生方にも、感謝し尽くせない思いでおります。

文字、とりわけ漢字は、言語のみならずあらゆる文化と結びつき、広く社会性を帯びるため、果てのない研究となりうるものです。一応の満足の得られるところまで突き詰めようとすると、無駄となる調査も多くなりがちで辛い時もありましたが、助けてくれる方や資料が現れては救われるというご縁に恵まれました。中国、韓国などを含めた資料の探索は物ぐさな私を時に苦しめましたが、その結果を用例として位置付け、文章を整理する一時はかけがいのないものでした。完成度を少しでも高められればと、版下を確定する最後の日まで調べ事は続きました。そのような環境を許して下さった周りの全ての方々に、心より感謝申し上げます。三省堂の方々には面倒な本を刊行していただき、お世話になりました。

今回の受賞は、日本の漢字の複雑な動態に対する研究に、光を当てて下さったものと心より感謝申し上げます。金田一京助先生のご功績や歴代の受賞者のお名前を拝見し、身の引き締まる思いでおります。国字をはじめとする日本の漢字については、明らかにしなければならない事象がまだ埋もれています。今後いっそう研究に精進し、それらを一つでも多く解明していかなくてはならない、と決意を新たにいたしております。

(ささはら・ひろゆき 早稲田大学教授)

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贈呈式

2007年12月16日 東京ドームホテル(東京都文京区)

第35回贈呈式写真