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「ボディートーク 新装版 世界の身ぶり辞典」の内容より

訳者まえがき

デズモンド・モリスが,「ジェスチャーの百科事典をつくる」という目標について述べたのは1979年であった.「この仕事を進めるには特別の研究所を設立する必要があるが,まだそんなものはどこにも存在しない.言語学者は権威ある辞典をもっているが,ジェスチャーの研究者は研究のためのリファレンスさえ与えられていないのだ」(Morris et al.,Gestures,1979).そして1994年に自ら一つの答えとして提示したのが,本書の原著,BODYTALK・・A World Guide to Gesturesである.これは,世界各地の身ぶりを身体部位別に650項目以上も取り上げ,それらの意味,イラストを付した動作の説明,動物行動学からの進化論的知見や歴史的起源などの説明,そして観察された世界の70もの地域をまとめた画期的な「世界の身ぶり辞典」である.

デズモンド・モリスは日本でもおなじみの著名な動物行動学者である.オックスフォード大学から博士号を取得し,1956年にはロンドン動物園のテレビ・映画部門長に就任.とくに“Zoo Time”シリーズで一般に知られるようになった.1967年刊行のThe Naked Apeは動物観察の手法を人間観察に応用し,人間を体毛のないサルとして分析したもので,ベストセラーとして世界中に多くの読者をもつようになる.1973年から1981年までオックスフォード大学特別研究員として「ジェスチャー地図研究班」などを率い,1977年にはバードウォッチングをもじったManwatchingを,1979年にはGesturesを出版した.本書には著者の長年の観察や調査が盛り込まれているが,とくに人間の身体言語を研究してまとめた二冊の著書,ManwatchingとGesturesが基になっていると考えられる.

本書に出てくる次の用語は,Manwatchingの中で示されている身ぶりの分類方法である.

名残りジェスチャー:発生した時の状況が既に消失したのに生き残っているジェスチャー.できてから現代まで生き続けている歴史的名残りと,幼児期の身ぶりが大人になっても残っている私的名残りがある.
模倣ジェスチャー:人や物や動作をできるだけ正確にまねるジェスチャー.
象徴ジェスチャー:物や運動とは直接対応しない,抽象的な特性を示すジェスチャー.
混成ジェスチャー:二つの信号が合わさったジェスチャー.

モリスはこの他にも,偶発ジェスチャー,表出ジェスチャー,形式ジェスチャー,専門ジェスチャー,コードジェスチャー,多義ジェスチャー等のさまざまなジェスチャーのパターンを示しており,本書と重なる例も多々見られる.

Manwatchingが人間観察を基に書かれた書であるのに対し,Gesturesは,ジェスチャーに関する大規模なフィールド・ワークの結果をまとめた書である.ヨーロッパにおけるジェスチャー地図をつくるという目的を掲げたこの調査は,1975年から3年間にわたってヨーロッパの15の言語に及ぶ25か国の40地点で行なわれた.29名の調査者と通訳者が,1200名のインフォーマントに対し,各々40分もの詳細なインタビューを実施するという,大がかりなプロジェクトであった.Vサイン,親指立て,指十字など,調査対象とされた20のジェスチャーの調査結果は,本書の中の関連項目の記述のベースになっている.また,このプロジェクトは動物行動学に加え,言語学,歴史学,社会心理学等の分野の研究者との学際的な共同研究であることも大きな特徴で,その成果も本書の随所に見られる興味深い進化論的説明や歴史的起源の説明に生かされている.ジェスチャー地図に取り組んだことで,それぞれの身ぶりの分布が国境とは異なること,山脈があるなどの地理的要因や過去の植民地支配の影響などが身ぶりの伝播に大きく関わってきたことなどが明らかになった.この結果を受けて,本書の地域についての記述も,国単位で説明されているところもあるが,極めて限定された島や地方や部族などを挙げてあるものもある.「ジェスチャー境界線(gesture barrier)」や「ジェスチャーの通路(gestural corridor)」についても一部触れられており,興味深い.

身ぶり辞典としての特徴をまとめておこう.1)動作の項目数が650以上と今までに類を見ない,2)身体部位別に配列され,大きな分類項目だけでも80以上を数える,3)イラストが付され,動作の描写も詳しい.手を例にとれば,片手か両手か,手の向きや位置,動き方やそのスピード,音を伴うかどうかなどが詳細に述べられている,4)意味の記述も詳細で,同じ身ぶり,あるいは大変似ている身ぶりで意味が異なるものは,(1)(2)のように項目を分けて説明されている.5項目から7項目と細かく分類されているものも少なくない,5)背景には,進化論的な説明や歴史的起源の説明に加え,使われる状況がフォーマルかインフォーマルか,真剣に使われるのか冗談で用いられるのか,旅行者が訪れて誤解を生じやすい事例の説明,そして決まり文句の紹介など,非常に充実していて読みごたえがある,6)地域については,西欧はもとより,南米,北米,アラブ文化圏,アジア等,世界中の70もの地域の記述が見られる.

ただ本書にも「世界の身ぶり辞典」として未熟な点もある.それは充実しているヨーロッパ地域に比べ,その他の地域の情報が極めて限られていることである.アジア地域を見ると,インドネシア,マレーシア,ラオス,タイなど10か国ほどの身ぶりを扱ってはいるものの,その数も記述内容も充分とはいえない.日本の身ぶりも10以上扱っているが,「日本人の身ぶりの辞書」に関するプロジェクトを長年手がけている訳者にとっては,首を傾げる記述もある.しかし,このことを以て本書の価値が減じるものでは決してない.モリスの言葉を冒頭に引用したように,「身ぶり辞書の試み」はまだ始まったばかりである.充分な調査なしに簡易な写真やイラストに数行の説明をつけただけの出版物もある中で,長年にわたるモリスの人間観察と「ジェスチャー地図」のプロジェクトをベースとした本書の記述は群を抜いている.アジア地域の記述を充実させるのは,アジアの研究者の仕事といえよう.「世界の身ぶり辞典」として,一つの価値ある雛形を提示してくれた本書を基に,さらに世界の各地域での研究成果が積み重ねられることを期待する.

読者の方々には,引く辞書というよりは読む辞書として楽しんでいただければと考える.膨大な資料をコンパクトな辞書形式にまとめてあるため,説明がもっと欲しいと感じる箇所もあるが,一部については,邦訳もある上述のManwatchingとGesturesの記述を合わせて参考にしていただきたい.内容が世界の文化圏を扱っていることから,三省堂編集部を通して各言語の専門家に一部助言をいただけたこと,また欧米のジェスチャーについては,私の長年の友人であるケイトに解説をしてもらえたことが大きな助けとなった.博識なモリスの記述に対して訳者の至らない部分も多々あるが,読者の方々からいろいろご教示いただければ有り難い.原著は,4年前の夏に,ニュージャージー州サミットの小さな本屋で見つけたものである.その訳出を勧めてくださり,丁寧に原稿を読んでくださった編集部の柳百合さんに,最後に心からお礼を申し上げたい.

1999年 6月 20日

東山 安子