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「コンサイス日本地名事典」について

監修のことば(1974年、初版)

「寝物語」が地名であると聞いて,驚かされる人は多かろう。 古い中山道沿いの「むら」で,溝一つへだてて東側が岐阜県,西側が滋賀県となる。 かつて奥州に落ちのびる義経を追ってきた静御前が,美濃・近江が隣り合うこの里で,変装した義経の家臣とめぐり合い,その境遇を語り明かしたという。 地図を片手にこのあたりを歩いて,寝物語の由来に感動する人もあれば,近くに通じるハイウェイを車で飛ばしながら関が原に思いをはせ, 近世史の幕開けとなった激烈な戦闘シーンを想定する人もいよう。 ある土地の名称について,人の思いはさまざまである。

地名は人間の思想と感情を盛りこんだ器であり,生活史の一端を物語る貴重な文化遺産である。 それは空間と時間の接点に生まれたものであり,いずれは朽ち果てる運命にある。 時の流れは急速で,古い地名が消え,新しい地名がつくられていく。 これらを系統的に記録し,そのいわれをたずねる地名事典の編修は,一種の文化事業といっても過言ではなかろう。

できる限り多くの思い出をよびおこしてくれる事典,ハンディでレジャーや旅行の助けになる事典,内容の正確な事典,とりわけ読んで楽しい事典であることを, わたしたちは編修上のモットーとしてきた。

情報化社会にあっては,はんらんする情報を整理する基準の一つに「どこで」があり,それには地名事典が大いに役だつであろう。 わたしたちは,各地域の事情に詳しい専門家に執筆をお願いし,さらに専門的観点から海洋・港湾に関する項目は坂戸直輝氏に, 鉄道関係は青木栄一氏に,河川関係は新巻 孚氏に,山・峠関係は徳久球雄氏に,鉱山・住宅団地などの経済開発関係は河本哲三氏に, 文学関係は都竹通年雄氏に,それぞれ校閲していただいた。 このようにして,ようやく自信がもてる地名事典を世に送り出すに至った。

基礎カードの作製から数えて,9年の歳月が経過した。 思えば長い道のりであった。本書の出版にあたって,わたしたちに協力を惜しまれなかった執筆者各位,各種の情報を提供してくださった方々, 三省堂出版部の鈴木耕治氏,直接の担当者であった小原大喜男氏,のちに加わられた増田正司氏ほかのみなさんに対し,深く感謝する次第である。

1974年 晩秋

谷岡武雄・山口恵一郎