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「西洋絵画作品名辞典」について

まえがき

 画家はひとりで生涯にどれ程の点数の作品を制作するものであろうか。人知れず消えてしまったものを含めれば、知られているものの数などは、知れたものなのかもしれない。

 「知れたもの」とはいうものの、世に出ている画家別の作品総目録(カタログ・レゾネ)の類を前にすれば、たじろぐのが普通であろう。それを承知で挑戦したのが、この『西洋絵画作品名辞典』である。

 本書の企画は、『クラシック音楽作品名辞典』(三省堂、1981年)の編集を担当した横山民子が、その完成をみた返す刀で、美術の領域でも「作品名辞典」ができないであろうかと、黒江光彦にもちかけたことから出発する。ちょうど『新潮世界美術辞典』(1985年)が完成し、15年間その編集にかかわって、辞書作りのなんたるかを会得したであろうと想像しての、黒江へのアプローチであった。

 思えば、新潮社の辞典がコピー機の汎用化の時代に作られたとすれば、本辞典はワードプロセッサ、パーソナル・コンピュータ時代の産物といってよかろう。最初の仲間として木村三郎に白羽の矢をたてたのは、彼がこれらの器材の美術研究・博物館学の領域における有用性にいちはやく興味をもっていることを黒江は識っており、検索を主体とする実作業に欠くべからざる能力のもち主として、横山からのアイデアを彼に伝え、鼓舞し、「この一つの辞典だけで、君の仕事は世に残るだろう」とさえ言いつのって、引き入れたのであった。

 はじめは「音楽作品名辞典」のように独力でやれるであろうかと問いかけたのであったが、のちに編集委員として、執筆もし、若い後輩たちの「まとめ役」としても活躍していただくことになった仲間が増えて、協同で、献身的にことに当っていただくこととなる。監修者としての任は、横山を木村に引き合わせることを思いつき、木村を中核として執筆陣を形成したときに終ったといっても過言ではない。

 何故に黒江が監修の座に就いているかといえば、この辞典の編集委員、執筆者、協力者が、昭和2桁の世代に属していて、そのトップに位置しているのが、昭和10年1月1日生まれの黒江であるからにすぎない。大それたとさえいえるかもしれない作品名辞典を、諸先達を差し置いて作ったことを大目にみていただけるとすれば、「昭和2桁」の力を結集してみようという暗黙の発意があったことを了としていただくほかはない。

 作品ひとつひとつが、美術研究や美術史研究の出発点であり、到達点であり、研究対象として、あるいは情報としてつねに特定されていなければならない。この世に創り出されたひとつの作品の生命・価値を、他のものとは違った独自の存在として認識すること―これが「作品名辞典」の存在理由であろう。日頃はアトリエで営々として作品の修復に取り組み、ひとつひとつの作品に新たな息吹きを吹き込んでいる黒江ができることとは、本辞典の仕事を通じても、どの作品をも大切に扱って欲しいと願うことであった。

 とはいうものの、膨大な数の作品をハンディーな辞典の中に収録するための工夫を要求されたことも事実である。画家それぞれの作品を並べるのに、必ずしも統一的なシステムを採らなかった。

 何らかの形で分類し、配列し、作品が孤立した存在ではなくて、ひとりの画家の芸術的展開を示す軌跡のごとき「群」や「順序」に還元して提示できないであろうかと、工夫を凝らすことが、執筆者への課題となった。執筆者ひとりひとりが、画家のひとりひとりと取り組むとき、そこにおのずと作品群の「くくり方」の独自性が生じてくる。

 全作品に目を通す過程から引き出される配列法の模索が、まだ若い執筆者たちにとっての創意工夫と勉強になったに相違ない。こうした分類法は、膨大な数の連作や同一主題の作品群を簡潔に整理するという便宜を提供すると同時に、画家の全体像を浮び上らせ、その作風をとらえる有効な手法でもあろう。あえて統一的な配列法を採らなかった真意を汲みとっていただければ、幸いである。

 本書を利用される方々も、ここに呈示された分類や区分にとらわれることなく、各自の問題意識の下に、各画家の作品体系を案出することも可能なはずである。そのための素材として本辞典が活用されれば幸いである。

 作品の題名と材質・寸法、所蔵を羅列する単純作業は、正確を期すという課題の下で、編集委員、執筆者、校閲者、資料提供者らに、多大の緊張を強いたことはいうまでもない。

 「昭和2桁」であればこそ、この労苦をいとわない献身と謙譲さを期待され、それゆえにこそそれに答えてもらえたと、世の人びとにいってもらえることを、監修者として念じたい気持でいっぱいである。

1994年 1月

監修者 黒江光彦