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「日英類義語表現辞典」について

『日英類義語表現辞典』

中村保男

(「ぶっくれっと」132号、「自著自讃」より)

「類義語」という言葉は、語学関係の本にはよく出てくるのに、いわゆる学校文法書で類義語をおもて立って扱っているものはなく、学校英文法をすべて網羅しているという文法書の索引にすら「類義語」は載っていない。ということは、類義語は学校英文法の埓外にある、ということなのか。
 ついでだが、慣用句も同じように無視されている。そもそも「言語とはidiomなり」という定義すらあるのに、個々の慣用句を慣用句として教えずに現実の英語が教えられるものだろうか。
 そういう盲点が現在の英語学習・教育法には多すぎる。たとえば品詞という概念さえつかめていない大学生が多いのに、初めて品詞を教えるのに「単語をその文法的な働きにしたがって分類したもの」というような、雲をつかむような定義だけでは形式主義もいいところで、実際的な方法としては、「この語の品詞は何か」「動詞である」といった問答形式をとるか、定義ふうに説明するにしても、もっと分かりやすい表現を工夫する余地があるのでは? たとえば「一つ一つの語が全体の中で部分として果たしているある役割の呼称。例・skyの品詞は名詞」とか。
 右はお恥かしいくらい不完全な試例なのだが、少なくとも原語parts of speechのpartを活かした説明である。そこでだが、「部分」を意味するものとしてのpartの類義語だけをあげるのが類義語辞典の定石であるのにたいして、本書では「役割」という意味でのpartの類義語をも比較の対象としたばかりか、なぜ「部分」は「役割」と結びつくのかを意味論的に考察したうえ、この両義の関係を歴史的にも明らかにしておいた。
 多くの語が多義であり、しかも母国語使用者たちはその多義を殆んど一義的に捉えている以上、語の主要な一義だけではなく、第二義、第三義にもわたって類義語を洗い出すことも、類義語辞典の仕事であるはずで、類義を多義の問題とからめて扱ったところに本書の第一の特色がある。
 ところで、今の英語教育の最大の欠陥は、英作文軽視である。本当に英語を知り、使えるようになる唯一の道は英作文法に通じることであり、そこで必要な武器の一つは類義語の知識なのだ。先日も、家内の通っている英語教室で「〈食べる〉と言う時はeatでは品がないのでhaveを使え、と教わってきた」と主張する生徒に米国人教師は「eatが最も適切な場合もある」と、一面的理解のあぶなさを諭したという。
 別の授業ではpersonalとprivateの使い分けが問題になったそうだ。なるほど、これは難しい。一応「個人的な」と「私的な」と訳し分けられるが、両方とも「私事」と訳せるpersonal affairsとprivate mattersは完全に同義なのか。とすれば、前者と後者の違いは時代の推移による頻度の変化だけなのか。
 そう言えば、personalityが次第にindividualityを押しのけ、informationの前でknowledgeの影が薄くなっているといった昨今の時代的変化現象にも本書は注目し、そういう個所では文明批評、社会時評的な論議も辞さなかった。その点、本書は辞典の体裁を借りた評論でもあり、読む辞典の性格を帯びている。

 以上の二点だけでも、“自讃”すれば本書が異色の類義語辞典であるゆえんなのだが、それよりも大きな特色は、bilingualistic synonymsという新しい概念を発見したことにある。thinkとfeelは英語としては類義語ではないが、「思う」という日本語を仲介とすれば、まさしく類義語となる。こうしてthinkとfeelなどを新しい光で照らし出すこの「日英語間自由往復通行」方式は、語義だけを扱う多くの類書と違って、類義的な英語を日本語にどう訳し分けるかという訳語の問題をも本書が重視した点に最も著しく現れている。
 なお、派生語にも注目した結果、簡単に言えば、ある名詞には存在しない形容詞形の役目を他の名詞の形容詞形が果している例を幾つか発見できたのも本書執筆の一つの収穫である。

(なかむら・やすお 英語文学徒・翻訳家)