文字サイズ変更
「時代別 国語大辞典」について

『室町時代編』「あとがき」

『時代別国語大辞典』、その室町時代編の最終巻(第五巻)をここに刊行する。

 『時代別国語大辞典』の企画以来、六十年の、太平洋戦争による中断の時期を経て再開後も半世紀に垂んとする歳月が、既に閲している。この歳月をいとおしみながら懐古する、経過報告を兼ねた「あとがき」に代えて、この辞典編修のスタンスを明確にしておくことも、室町時代編完結に際して意義あることと考える。実は、この辞典についての発言を公にしたことがある。雑誌『日本語学』の「日本の大型辞書」という特集においてである(一九九四年六月号)が、その記述を参照しながら、この辞典編修のスタンス乃至はポリシーとでも言うべきものを明らかにしておきたいのである。ただし、人あって問うかも知れない、第一巻の、「序」と「室町時代語への小径」の記述で、それは十分ではないかと。しかしながら、辞典、しかもそれが大型辞書であるなら、単なるスケールの大きさの問題にとどまるだけでなく、それに見合ったポリシーが必要であると信ずるからである。


 奈良・平安・鎌倉・室町・江戸の五つの時代に区切って発足した『時代別国語大辞典』の、上代編に続いて室町時代編が刊行されたことーー現在のところ、恐らくはこれら二編で『時代別国語大辞典』の幕も引かれそうなのであるがーーは幸いであった。古代語から近代語へ変遷するさなかにあって、室町時代語は、日本語の近代化への推移を記述する上で極めて重要な位置を占めるはずの性格を有しているからである。室町期から織豊期に及ぶ約二百年間のことばの実態の解明を目的とする室町時代編は、公家・武家・庶民など異なる階層の人々の間に行われたことばの全体像をとらえ、かつ個々の語彙のありようを映し出すものでなければならない。「行われたことば」という以上、対象となった語彙は、室町時代に独特の語に限定せず、広範囲の分野にわたる、当代に成立の文献に見られる全てのことばである。しかしながら、文献資料の多種多様さとそこに用いられたことばの性格の複雑さゆえ、室町時代語全般を視野に収めた組織的にして体系的な研究がなされて来たと言い難い現段階に鑑み、「一応全分野にわたり語彙を大観し得るように蒐集採択究明することが主眼となる」(第一巻巻頭「刊行に際して」)のであった。この基礎作業のために、多くの時間と労力とが献げられた。

 基礎作業としての語彙カード蒐集段階から、問われているのは、編修委員会の、当該時代語観ということばで代表される見識である。

 当該時代語への見通しを欠いた、無定見な語彙カード蒐集は、賽の河原の石積みでしかない。上代編が、今日においても、研究者にとって、空前の、そして、恐らくは絶後であろう、座右の書として刊行時(一九六七年刊)の輝きを些かも失っていない所以も、その見識という点にあると言ってよい。『時代別国語大辞典』を構成する各時代の当該語研究の到達度を云々する以前に、問題にされなければならないのは、この見識に関わることなのであった。

 「多種多様の文献資料」と言った場合、常に問題となり、今後の課題ともなるのは、その純粋性と資料性とのからまり、確かめであろう。研究者の識見があって初めて文献は資料となるのであって、「善本」の全てが全て資料となるわけでもない。そして、資料性との関わりにおいて、「多種多様」と言うけれども、それぞれが、資料として対等の位置を占めるわけでもあるまい。それぞれの文献の、当代における重みをどのように認定するかということも、やはり見識に関わり、依然として課題であり続けるであろう。

 多くの文献から蒐集されたことばの語義・用法の解明に当って、その成立条件を精確に把握した上で組織化して、ことばに迫るーーといった作業手順は、事々しく言い立てるまでもなく、室町時代編に限ったものであり得ない。ただ、資料からみた室町時代語観は、第一巻で「室町時代語への小径」に述べられているけれども、その中にあって、当代を特色づけ、かつ右に述べた作業手順を効果的にする、従って、その援用が室町時代編の特色となるはずの、抄物と外国資料とについて言及しておこう。

 高度の学問・文化の担い手であった五山僧や公家の手になる、和漢古典の註釈、いわゆる抄物については、その研究史をも視野に入れたところの、簡にして要を得た、編修委員の一人である大塚光信氏の論述がある(岩波講座日本語10)。そこでは、抄物それ自体の性格、註釈として、口語抄と並べて文語抄について言及され、漢籍の抄物だけでなく、文語抄しか持たなかった国書、物語・和歌などの註釈抄が取り上げられている。この観点に立脚して、『庭訓往来』・『御成敗式目』、『源氏物語』・『太平記』や謡曲などの抄物をも重要視した。当代の、この種の文語抄を集めた『藻塩草』を参照することが多かったのも同様の理由からであった。

 平明な国語で解釈した、漢籍の口語抄が当時の話しことばに迫り得る好資料であることは改めて言うまでもないが、抄物をそのまま直ちに室町時代語の資料として扱うだけでなく、抄物の本来の機能である、註釈という本質にひきもどした上で、それを通して、種々の分野に亘る基本図書についての、当代人の受けとめ方、更には思考の態度まで把握しようとしたことも、特色の一つとしてよいであろう。現代人の感覚で室町時代語を分析・理解する以前に、引用する例そのものから、その時々の室町人の肉声をまず聞いてみようとしたのである。そのために、抄物は相応しいのであった。抄物の資料性は、口語抄か文語抄かといった使用言語の傾向で決定されてはなるまい。

 当代の学問・文化の影響下にあって成立したキリシタン文献の援用を、広義の抄物ーーローマ字とポルトガル語によるーー利用の一環と見ることも可能であろう。『時代別国語大辞典』が立案されて以来、土井忠生博士が室町時代編の編修代表に推戴されたのも、当代の語学研究に重要な役割を果たす、『日葡辞書』を初めロドリゲスの大小文典などの本質を見極めて、自家薬篭中のものとして駆使し、室町時代語研究をリードして来たという立場にあったことが関係しており、室町時代編が特にキリシタンの語学書に言及することを特色とするのは、至極当然のことなのである。この意味でも、キリシタン文献重視という基本姿勢は忘れてはならないことであり、この基本姿勢を一層強化させてもよいのではなかろうか。『時代別国語大辞典』の各編それぞれに、各時代独自のカラー乃至はイデオロギーが必要だからである。

 抄物で代表させる国内文献と、キリシタンの手になる「外国資料」でありながら、日本人が関与し、日本で成立した「国内資料」と見ることが出来るキリシタン文献とをつきあわせ、対照させることによって、両者の位置・関係が顕現してゆき、結果として、当代の文化のありようが浮かび上がって来そうに思われる。そして、このことが読む辞書への道を拓いてゆき、それを保証することになるであろう。

 文献資料の大部分は、所詮知識階級による、知識階級のためのものである。庶民のことばも、知識階級の手を通して、「いやしからざるやう」な形で文献にとどめられるから、ロドリゲスが、『日本大文典』で、

 話しことばのほんとうの日本語はミヤコでクゲや貴族の使うそれであって、彼等の間に正しく洗練された言い方が維持されており、これから遠ざかったもの全ては、粗野で不完全であると見なし得るということを注意しなけ  ればならない。しかして、優れた、上品なことばは昔のことばであるけれども、いずれも現代語では殆ど全くないからである。

と述べた、その「遠ざかった」ところの、庶民層の生のことばを発掘することが、大きな課題であった。その解答の一つが、やはり外国資料、『捷解新語』の活用である。

 キリシタンの平家物語の序(読誦の人に対して書す)が記されたその年(一五九二年)、壬辰の倭乱で囚われの身となり、日本に強制連行された朝鮮人、康遇聖の手になる『捷解新語』の日本語を、当代語の基層にあったものとして捉え、援用することがしばしばであった。康遇聖の日本語習得の経緯から、『捷解新語』は、当代の庶民層のことばの実態を知るために必須の文献であり、従って、キリシタンの排除しようとした「現代語」性を具体的に示し、キリシタン文献の問題性を告発し得るものだからである。また、キリシタン文献に先立つこと百年の朝鮮資料『伊路波』の平仮名書、当代の候体書簡文からの用例の採択も少なくなかった。

 このように、時代相を生き生きと反映した、キリシタンの対極の位置にあった外国資料をも用いることによって、室町時代語を、縦・横、上・下、様々の角度から照射し、室町の心のひだまでも浮びあがらせようとしたのである。

 述べてここに至れば、室町時代編の、最大の課題が、当代文化の結晶である文献への理解を一層深化させ、そのことを、どのように集約し表現するかということであったことが明確になって来るであろう。

 『時代別国語大辞典』の各編が有用であることは自明であるにしても、そのそれぞれがそのまま次の段階の歴史辞書の構成要素であり得るか、問題であろう。

 それにしても、大型辞書の大型でなければならない必然性は奈辺にあるのであろうか。量的な必要性から大型にならざるを得ない事例と共に、質的なそれによって大型になるーーそれが室町時代編であると主張し得る背景を述べてみた。


 「『室町時代編』は、未完成である。……土井忠生という Haupt 亡きあと、その遺志をつぎ、いかに大成させるか、残された委員への課題は大きい」と、福島邦道氏に言われて(『国語と国文学』平成七年十一月号)ここに五年、漸く「大成」の日を迎えるところとなったが、「遺志」は Haupt一個人のそれでなく、編修委員会の総意、確固たる「見識」であったことは改めて説くまでもなかろう。従って、本辞典に関わる責任は、編修委員会に名を連ねた一人一人が均しく負うべきものであることも改めて言うまでもない。その中にあって、昭和三十年にこの業が再開・開始されて以来、土井代表を補佐し、資料の蒐集に始まりその整理と項目の執筆に、全力を尽くされたのは森田武博士であり、また藤原照等氏であったという。森田委員のもと、当時大学院学生であった山内洋一郎・蔵野嗣久委員なども加わって書き続けられた辞典原稿が三省堂に引き渡されたのは昭和四十年に入ってからであったと聞いている。それを礎稿として、第一巻が刊行されるまでになお二十年に近い歳月を必要としたのである。それから更に、最終巻に至るまで十五年、その間編修委員は、それぞれの立場で原稿の内容の充実を図ったのであるが、大塚光信委員は最後まで、校正刷を精査した上で、長年採集の貴重な語彙カードを提供し、用例補充に尽力された。方言に関わる記述は、編纂事務局を主宰する傍ら神鳥武彦委員が、文法項目・出典一覧については、土井洋一委員が、それぞれ原案を執筆された。また委員会の外にあって教示を吝しまれなかった方々の中から、特に小高恭氏のお名前をあげておきたい。第一巻刊行以来、辞書の記述について公私にわたって種々有益な助言をして来られた氏に、第四巻から『お湯殿の上の日記』に関する校閲をお願いすることにした。通読に難解な同日記からの仮名書きの用例が、氏によって確例として登載されるところとなったことを記して、感謝の念を捧げたい。小高氏の協力・参加は、本辞典のような特殊辞書編纂について、特にその編修委員会の編成、あるいは構成に大きな示唆を与える事例になるように思われる。これも、冒頭に述べた見識に関わることであった。

 編修委員会代表( Haupt)の土井博士は、私の記憶に誤りがなければ、平成の始め頃まで(辞典に即して言えば第三巻編修の途中まで)は編修会議を主宰していられた。蔵野委員は、

  晩年の先生は、辞典編修に全精力を傾けられ、それが志半ばになることを予感なさって、「後を頼む」とよくおっしゃっておられた。御著『吉利支丹語学の研究』以来、キリシタン資料の特質を成長性にあると見ておられるが、辞典編修の実務の中で、先生御自身、辞典編修に成長性の必要を実感せずにはおられなかったようである。万事慎重な先生が、「批判されるのは覚悟の上」と口になさるようになったのは、完全を求めつゝ完全はありえない辞典編修の宿命を確認する日々でもあったからであろう。

と追悼特集号(『国語学』第百八十二集)に記したが、「批判される」のは、全巻が完結しての話、全巻完結した現在、もはや「志半ば」ではない。Haupt の遺志は、成長性と共に脈々と今も流れているのである。

 室町時代編に関わる編修作業が軌道に乗り出したのは、上代編の刊行(昭和四十二年)以降のことである。爾来三十有余年、この間の、編修委員会の背後のあって協力された方々、執筆協力者、編集協力者、校正者のお名前を、事務局に保存されている記録類に拠って、以下に、年代順にあげることにしたい。

 三省堂にあっては、昭和四十年頃に始まる本格的な編修体制の確立に努められた長谷川昭二氏の存在を忘れることが出来ない。氏が第一巻の刊行を見ないまま長逝されたのは一大痛恨事であった。長谷川氏を承けて二十年、第一巻を刊行してからでも十五年、「未完の大辞典」という芳しからぬ称を回避しようと全巻の完結をひたすら目指して、社の内外の困難な状況の下、一日たりとて心の休まる時もなかったであろう編修専任の沓掛和子氏の労を特にねぎらいつつ、辞典完成の喜びを、多くの関係者と共に味わいたいと思う。

   2000年 11月 

安田 章

(執筆協力者)
藤原照等・角田一郎・松岡久人・中川徳之助・友久武文・永尾章曹・佐々木峻・松井利彦・小林千草・高見三郎・菅原範夫・大熊久子・小高恭
(編集協力者)
森田みを子・新谷美恵子・坂口由美子・岡本則子・明賀妙子・和津田葉子・日中喜久子・吉村順子・小田肇子・横山美知子・樫原良枝・磯田則子・林真理子・内藤恭子・畠山美恵子・長谷川玲子・吉成雅子・吉岡幸子・小湊知子・松井京子・多和田さちこ
(校正者)
亀岡紀子・前川彰子・中井一枝・佐藤盛男・岡田美和子・横山恵子・山本厚子