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「時代別 国語大辞典」について

『時代別国語大辞典 室町時代編』を終わって

沓掛和子(国語辞書編集者)
(「ぶっくれっと」149号より)

 古びた南京錠をはずして板戸を開けると、しんと冷えきった空気の中に、古い本に 特有のかび臭い匂いが沈んでいた。

 ここは、広島、『時代別国語大辞典 室町時代編』の代表土井忠生先生の屋敷の土蔵横に作られた倉庫。路地を隔てて、この辞書用にたてられた八坪ほどの編修室が、母屋の玄関先に位置してある。

 この編修室が開かれてからはや三十年、2000年12月半ばに最終巻の第五巻が刊行されて、ようやくにして「室町時代編」の長い長い編修作業が終わったのである。そして、いま、後片付け、整理のために、編修室を訪れている。

 編修室から延長コードを引いて倉庫に明かりを入れると、奥まで細長くのびた内部の様子がぼっと浮かび上がる。

 右手の戸棚の上に天井近くまで横積みされているのは、戦前から戦後まもなくに発行された本、『大日本仏教全書』『国史大系』『茶道』などなど。その奥は、人ひとりがやっと通れる空隙を残しただけで、用例語彙カードを詰め込んだ段ボールの山で埋め尽くされている。そして、左手に大きな和だんすが二さお。腰に思い切り力を入れて重たい引き出しを開けると、中には昭和十六年この時代別辞書の仕事が開始されたころからの用例カードがぎっしりと詰まっていた。

 紙も豊かにはないころとて、教科書用の図帳などを裁断し、その裏を使って用例が書かれてある。一枚一枚取り出して黄ばんだカードの裏を返して見ると、当時の「よい子」の顔が笑っていたり、何の図版の一部か色とりどりの線があったりする。

 この用例カードは、もともと広島市内にあった広島文理大学の土井先生の研究室に集められていたものであった。太平洋戦争が激しくなり、その戦火が本土にまで及ぶにいたって、安全をはかって郊外の古江にある先生のお宅の土蔵に収められることとなった。その移送作業も、時局がら容易なことではなかったらしい。馬車をやとい、荷車を押して、けっこうな距離を辞書関係者数人の人力によって、ようやくここまで運び込んだのだという。

 果たして、昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾が投下されて、爆心地から程遠からぬ文理大学の研究室は全焼し、灰塵に帰したのであった。

 その時、編修委員の一人木原先生は、研究室に来ていられた。中国奥地の戦場で重傷を負われて復員なさった先生は、傷を癒した後、副手として土井先生の研究室に詰めて、室町編の辞書の仕事を手伝われていたのである。研究室は他の建物の陰になる位置にあって、直接の閃光や熱線はまぬがれたものの、爆風の衝撃で倒れた本棚の下敷きとなってしまい、頭や肩にけがをしながらやっとのことで自力で脱出し、早くも火の付いていた近くの橋を渡って逃げ帰られたという。

 その直後、研究室にも火が入り、そのすさまじい熱焔は、本棚に並んだ本を、そっくりもとのかたちを残したままの状態で焼き尽くしてしまったとか。後日研究室に行ったおり、一見本の体裁をしたその背に触れると、あっけなくほろほろと崩れて塵となってしまったと伺った。

 爆心地から四キロ以上離れた土蔵に収められていた用例カードも、爆風で粉々になった明かり取りの窓ガラスの破片をかぶっていたのだ。

「だから、カードを扱うと、細かな破片で気がつかないうちに指が切れていて、しかもその傷からの血はどういうわけかなかなか止まらなくて困ったものだよ」

と、御自身、自宅にあって被爆なさった土井先生はおっしゃっていられた。

 今、薄暗い光に照らし出されて、たんすの中に眠っているカードは、昭和六十年に第一巻の刊行が始まり今回の第五巻をもって終わる辞書の中に、実際に使われたものはあまり多くはない。戦争をもって中断していた編修作業が昭和三十年に再開されてから、特に昭和四十年以降は、資料の発見、復刻、翻刻が相次ぎ、新しい資料からの用例採取に追われることとなった。その結果、これらの新しい語彙カード――それは時代別用に特別に誂えた、白くなめらかな紙質のものであったが――が用例の主流を占めることとなったからである。そのカードも、適例として採用されずにふるい落とされた多くは、この山と積まれた段ボールの中に詰まっている。

 あらためてその量の多さに圧倒される。

 これらの一枚一枚は、若き日の編修委員の先生方、また、当時の学生たちの手で、こつこつと写し取られたものである。戦前、「時代別国語大辞典」という壮大なスケールの辞書刊行事業に心うたれ、その実現を目指した研究者たち、戦後、新たな資料の登場に、室町時代語研究の発展を予見し、一歩でも先へと願った学徒たち、彼らの真摯な思い・情熱がこれらのカードに籠められている。そして、そこに投入された膨大な労力と時間との集積……。長い編修作業の過程では、編修委員の先生方の間に不協和音が生じたり、会社の事情によるさまざまな困難があったりしたけれども、何としても完成まで、と後押ししてくれたのは、カードをとった先人たちひとりひとりの無言の声援であったのではないか。その声なき声を、静まり返った冷気のなかで、今はっきりと聞いている。採用されなかったカードではあるけれど、その一枚一枚が刊行された辞書を誇りをもって支えているのだと。

 室町時代編の完結にあたって「二十世紀の棹尾を飾る辞書」と銘打ったけれども、ここ十数年で、辞書の作り方にも急速にコンピュータ化の波が押し寄せている。採録例はフロッピーに収められ、索引化され、また、一方では、データーベースから切り取られた用例が採用される。そして、辞書そのものもコンピュータのなかに収められ、紙面から姿を消す日が来るのかもしれない。

 そういう意味でも、二十世紀の半ば以上にわたる年月が費やされたこの辞書は、二十世紀を体現した、人間の叡智を紡ぐ手作業から成る、絶後の大型辞書といえるのかもしれない。