文字サイズ変更
「時代別 国語大辞典」について

『上代編』 刊行の言葉

 一国の国語辞書は、その国における言語文化の特質と水準を示すものである。英語の辞書に例をとるならば、英国のThe Oxford English Dictionary(1933)と米国のWebster's Third New International Dictionary of the English Language, Unabridged(1963)とは、現在までに英語辞書の到達した二つの頂点に立っているといってよかろう。前者が伝統を尊重する英国において長期間にわたり堅忍不抜の努力によって完成を見、後者が国勢の著しく伸展した米国において大規模の組織力を活用してりっぱに成功したことは当然の成果であって、これを実現せしめた出版界の自力はもとより、これを助けた読者層の関心と期待の強さに敬服せざるをえない。翻ってわが国の現状を顧みるとき、その多くは望むべくもないことはなんとも心寂しい次第である。

 一国の文化遺産としての言語は、過去におけるその国民の言語生活の蓄積の上に成り立つ。現在および将来における言語生活の指針は過去に対する反省検討によって導かれる。ゆえに一国の言語規範の確立に適正な指導力を発揮する。

 言語文化の高度にして複雑な歴史を有する日本はその独自性に即応した歴史辞書を持つべき使命を帯びている。特に日本語に対する根本的省察を迫られている今日、その必要性はいっそう高まるのみである。わが時代別国語大辞典はその要請にこたえんとするものである。一挙に全時代に通ずる歴史辞書を完成することの至難な情況下においては、時代別国語辞書の編纂がそこに至る一段階として最も有用かつ可能な方法と考えられるからである。この企画は辞書編纂に多くの実績を有する小社が中心となって昭和十六年に立てられ、新村出・藤井乙男・橋本進吉諸博士を監修者とし、吉沢義則博士の下に各時代の編修主任を置き、昭和十七年の暮、奈良・平安・鎌倉・室町・江戸の各時代一斉に発足をした。初め比較的短期間をもって完成する予定であったが、各時代の全語彙を網羅するたてまえからして、カード採録に多くの時間を費やし、ほとんど原稿作成の段階にはいらないうちに、戦局の激化に伴って、この種事業の継続は困難となり、昭和二十年春をもって中断するのやむなきに至った。

 戦後の混乱期を脱した昭和三十年に及んでようやく再開の運びとなり、翌三十一年に、まず、上代・平安・室町の三代から着手した。それまでの中絶期間は、わが国有史以来最大の変貌期に当たり、特に歴史研究の分野における新しい機運により、過去の文献資料があらためて見直されることになった。したがって、戦時中に採択された語彙カードの類も、よった本文の検討から出直す必要に迫られたものが少なくない。かくして、本文批評に始まり、索引の作成、語彙用例の調査採録の過程を積み重ねて、資料の整備に努めるとともに、その語彙資料を分析総合する方法にも創意工夫をこらすことに強い意欲をもって臨みその上に立って原稿の作成が進められた。

 わが社があえて本辞典の出版に微力を尽くしつつあるのは、学界教育界をはじめ社会全般に寄与する熱意と奉仕する誠意に燃えているにほかならない。もとより各時代の編修委員会は、日本語の歴史辞書の礎石を築く先駆者としての名誉にかけても、これらの辞書が時とともに成長することに責任を感じ、その使命を課せられていると考えるものである。それにつけても、日本の社会にかかる辞書の育成を助長する機運の強まることを心から念願してやまない。

三省堂編修所