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「時代別 国語大辞典」について

『室町時代編』刊行の「序」

 本書は、三省堂の企画に係る時代別国語大辞典室町時代編に当り、室町時代語辞典として、室町期から織豊期に及ぶ約二百年間の言葉を取扱ったものである。

 日本語の発達変遷の全容を包括した歴史辞典に至る一過程として、上代・平安・鎌倉・室町・江戸・近代の六期に区分した時代別辞典の作成を当面の目標に置き、昭和十七年の暮、各期ともに一斉に編修を開始した。当初は短期間に成果を挙げようとすることに急であって、時代別辞典として備えるべき形態・内容等について、基本的な問題の検討を深化しないまま、統一的な見解に達したとは到底言えない状況下での作業であった。たまたま戦況の悪化による世態の急変に直面し、昭和二十年の前半を以て編纂事業全般を中断せざるをえなくなった。爾来十年余を経て漸く再開するに至ったのであるが、その間急速に進展した学界の諸情勢に即応して、室町時代語辞典の在り方も根本から考究しなおす必要に迫られた。

 時代別辞典として先ず決定しなければならない基本課題に、載録語の範囲の問題がある。すなわち、その時代独特の語に限定するか、その時代に行われた語全体を対象とするか、という選択であるが、室町時代編においては、後者を採ることをその方針と定めた。日本語の歴史において、古代から近代へ推移する過渡期に当り、古代語の継承と近代語の生成発展という二面が交錯して複雑な様相を呈しつつ、次第に近代語の輪郭を現わすに至るのが室町期である。古代語の伝統は識者階層の学術文芸に関する書き言葉を中心として保持され、前時代に萌した近代語は庶民階層の主として話し言葉の領域で徐々にその基盤が構成されていくといった両面があるとはいえ、それぞれが別個に存在したのではなく、相互に関連し、影響しあいながら変遷の過程を辿っていったのである。その複雑な言語の実態を個々の語について浮彫りにするのが室町時代編の使命である。この責を果すためには、室町時代語の全体像をとらえ、位相の如何を問わず室町時代に行われた言葉のすべてを解明しなければならないであろう。その実を達成するとなれば、長い時間をかけて多方面にわたる研究を蓄積する必要があることは言うを俟たない。

 一体、時代別辞典の編纂においては、各時代語の解明にあたって、その時代の個々の文献を直接の資料として、それぞれの性格に応じていかに使い分け、利用していくかが最大の要件となる。室町時代編に関しては、その前後の時代とは違って、外国資料、特にキリシタン資料が重要な役割を持っているという特色を有する。当代の日本人自身の手に成る自国語に関する記述が初歩的段階に止まっていたのに対して、織豊期に活躍したイエズス会士の残した語学書は、日本人の観察の及ばない面を補って余りある。それは、ヨーロッパ人の語学の水準に基づくものであり、布教上の必要から編まれた特殊な性格をもつものであっても、室町時代語を再構する上では不可欠の基礎資料となっている。時代別辞典の発足にあたって、われわれが室町時代編を担当するに至った経緯には、これらキリシタン文献を比較的容易に利用しうる立場にあったことが関係しており、本辞典でキリシタンの語学書に言及するところが多いのもその故であった。

 ところで、室町時代語を対象とする組織的・体系的語学研究は、現在においても未だ十分であるとは言い難い。この現状を踏まえるとき、当時代の文献を整備し、その用語を着実に追究することが急務である。

 時代別国語大辞典編修作業発足の当初は、三省堂の責任で古写本を初めとする文献資料の蒐集が行われたのであったが、社の編修事務中断以降は、編修委員各自がその任に当らねばならなかった。その時期はたまたま戦後の混乱期のさなかにあって、蔵書家の秘庫から典籍の流出が相次ぎ、われわれも希求する古書のごく一部ではあるが入手することができ、それを直接資料として用いることが可能となった。それとともに、公開された諸文庫の蔵本を複写して補充する方法をできるだけ採った。が、なお多くは校訂者の手を経た翻刻本に頼らざるをえなかった。幸いにも、室町期の文献資料の影印・翻刻も近来急速に進み、われわれの渇望を癒してくれつつある。

 一方、辞書編修の作業が具体化するにつれて、追求する内容はいっそう細密化していくのが常である。従って、対象とする分野の拡張をはかるとともに、利用文献のより厳密な批判を期するには、その書誌学的解明、関連文献の参照など、尽すべき手続きはますます増大する。しかし、それに対応するだけの文献資料自体の研究は随伴せず、また、より良い翻刻本を利用しての用例整備についても十分に果し得ていないのが現状である。

 ここにおいて、われわれは、室町時代語のもつ全体的な性格を想定したうえで、限られた使用文献について位置づけを行い、その適切な利用をはかっていくことを辞書編纂の基本態度としたのである。

 次いで手許の資料を活用する方法の確立が求められる。その中心にあるのが語釈決定の問題である。室町時代語における語義・用法の、前代から引継いだものと、次代へ変化していく過程とを解明するためには、多種多様の文献資料に依拠した分析の方法を徹底させなければならない。まず、語義・用法の成立条件を精確に把握することに努め、その上で、それらを単に羅列するのでなく、適宜まとめて組織化していくことによって、語の実態に迫ろうとしたのである。実際には、特殊な用例による偏った解釈を提示するにとどまった事例もあり、また、当時代語の複雑多岐にわたる様相・性格を反映させようとするあまりに適切な総合化の段階に及びえなかったこともあるかと危惧する。

 しかしながら、昭和十七年以降今日に至るまで、有形無形の御尽力をいただいた数多くの方々、並びに、今は亡き藤原照等氏をはじめとする編修員一同の協力と、出版社の誠意とが相俟って一応の成果を挙げることができたいま、この分野に鋤を入れ一礎石を据えたといえる段階にまで到達したものと考える。ここに漸く公刊のはこびとなり、広く学界の批正と指導を仰ぐこととなった。われわれの力不足の故の誤解や不備も少くないであろう。なお、当初全一冊にまとめることで発足した計画は、室町時代語研究の進展の結果、全四冊を予定せざるをえなくなった。今後とも続刊に全力を尽して取組んでいく所存である。

 この上は諸方面からの忌憚なき御批判と善意ある御教示を賜わって、向上の一路を辿ることができるようにと祈念してやまない。なお、本書の刊行が学界への一刺激剤となって、室町時代語研究に活力を与え、その進展を促す機縁ともなるならば、何よりの幸せである。

 最後に、終始細心の配慮をめぐらし、煩瑣な組版の労をいとわれなかった井村印刷所、並びに、三省堂印刷の方々に対し、心から感謝の意を表わし、刊行の喜びをともにしていただくよう望むものである。

   1985年 1月 

室町時代語辞典編修委員会
代表 土井 忠生
ほか14名