漢字の現在

第9回 「凹」の新展開

筆者:
2008年1月26日

気分が落ち込んだ時、若者たちを中心として、その精神状態を「へこむ」と軽く称することがある。物体が「くぼむ」という意味からだんだんと転化してきたものだ。その精神の落ち込みを「凹む」と表記することが、携帯(ケータイ)メールやインターネットなど電子メディアの台頭ともに、近年ことに多く見られるようになってきた。

携帯電話で出てくる「凹」

【携帯電話で出てくる「凹」】

それを用いているのは、やはり若年層が多いようである。学生たちによれば、ケータイでメールを打つ時に、「へこむ」と打って変換を押してみたら「凹む」と出てきたために、それで覚えて使うようになった、とか、友達から送られてきたメールに「気持ちが凹んだ」などと使われていて、それで覚えた、という。ケータイなどで漢字を習得する機会が生じているのだ。

むろん、「へこむ」には、かねてより屈服する、困惑するとか、派生語に「へこたれる」といった語があるように、これと近い意味があり、小説などでも「凹」の字が使われることはあった。「へこむ」は、そこそこ歴史のある訓読みであり、一部の国語辞書の類にも掲載されてきた。しかし、常用漢字表では公認されていない読み方である。「凹む」が流行する前に、そうした国語辞書などの表記を、かな漢字変換のための辞書に流し込ませることもあったのであろう。そういった背景が重なって、ここのところ「くぼむ」ではない「凹む」(へこむ)を目にする場所がだいぶ広まってきたようだ。

印象深い形をした「凹」は、かつては、「漢字ではなくて記号なのだ」などと言われることさえもあった。私は中学で、数学(図形)の女性教員に、「これは漢字ではなくて日本で作られたものだ」と聞かされた。ともあれ、その後、常用漢字に採用されたために、音・訓、さらにはクラスによっては画数や書き順(筆順)までも習うことがあるようで、さすがに記号とは思われなくなってきたようだ。

常用漢字では、「凹レンズ」「凹版」とか「凹凸」(オウトツ)などのほか、熟字訓として「凸凹」(でこぼこ)が認められている。いかにも対と一目で分かる「凸」が強く意識されるのであろう。そのため、「凹む」気分があるのだから、きっと対義語が何かあるはずだと思われるようだ。インターネット上でも、とりあえず「凸む」と打ち込んでみてから、さてこの読み方は、といろいろ試みられている。

この「凸」という字もまた、「凹」という字とともに中国から日本へと伝わってきてから、実は「つばくむ」「なかだか」「ふくらむ」など、様々な訓読みや用法を与えられてきた。今日に至るまで、それは続いている。その詳細は多岐にわたるので、またの機会に譲りたいが、そうした営為の一端と見ることができれば、これらの思いつきとも思える、またパソコンやケータイの機能的な影響による浅薄とさえ感じられかねない展開も、漢字の歴史の先端を担う意味をもっていると思えてくるのかもしれない。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。