サイバン語と日常語の間―法廷用語言い換えコトハジメ

「ミヒツノコイ」って、聞いてわかりますか?

2008年5月11日

3年ほど前になるが、市民講座で裁判員制度について話をする時に、ちょっとお時間をいただいて、参加者の方を対象にいくつかの法廷用語のディクテーション(書き取り)をさせていただいた。参加者は、40歳から80歳ぐらいの漢字に強い世代である。紛らわしいものを選んだので、当然のことながら、誤答も多かったが、「ミヒツノコイ」(未必の故意)の出来は最悪であった。まず、「ミヒツノコイ」に関しては、参加者から復唱を何度も求められ、復唱しても、会場からは書く物音が聞こえてこない。静寂そのもの。おもむろにカタカタと音がして、出された用紙の「ミヒツノコイ」の箇所には、「密室の恋」「密室の行為」、あとは無記入のものばかり。

「未必」という語は、日常でまったく使わないかと言えば、必ずしもそうでもない。「未必の戦争」、それこそ、「未必の恋」という使用例も見たことがある。意味合いとして「そうなると期待されているのに、必ずしもそうならない」という意味で使われている。一般的な使用というより、書き手本人の思いを伝えるような場面でよく見られる。そして、それは、法廷用語の「未必」とも異なる意味合いの言葉である。

『やさしく読み解く裁判員のための法廷用語ハンドブック』『裁判員時代の法廷用語』では、「未必の故意(殺意)」として、「必ず殺してやろうと思ったわけではないが、死んでしまうならそれも仕方がないと思って……した」と解説している。「故意」は、「犯罪を犯す意思」で、犯罪全般を指すため「殺意」より広い意味の言葉であるが、裁判員の参加する裁判では、殺人等の重大刑事事件を扱うため、「未必の故意」が「未必の殺意」と同義で使われる場面も多い。

市民にとって「殺意」は、「人を殺そうとする心」程度で十分であるが、法律家は、「殺意」を、死ぬことを認めているか否かから、「故意」と「過失」に区分する。次に、「故意」を、殺してやろうという「故意」の「確定的殺意」、死んでもかまわない「故意」の「未必の殺意」へと分ける。市民は、まず、「殺意」という一つの概念をこのように細かく分類することに驚いてしまう。このように、市民の漠然とした「殺意」の概念と、司法の微妙に細分化された「種々の殺意」との間には大きな隔たりがある。法律の世界では、人を死なせてしまっても、傷害致死なら3年以上の有期懲役、殺人ならば5年以上の有期懲役から無期懲役や死刑までという幅広い量刑がある。このため、まず、「殺意」の有罪認定をしなければならない。「殺意」が認定されれば、次に、「殺意」を細分化して考えなければならない。「未必の故意」は、まさに、ある法律の概念に付けられた符丁なのである。

筆者プロフィール

大河原 眞美 ( おおかわら・まみ)

高崎経済大学教授・地域政策学部長。シドニー大学法言語学博士。日弁連裁判員制度実施本部法廷用語の日常語化に関するプロジェクトチーム外部学識委員。わかりやすい司法プロジェクト座長。家事調停委員。現代のアメリカで18世紀の生活様式を堅持しているアーミッシュが、ドイツ語と英語を併用しているという言語使用の実態に関心をもち、社会言語学の研究を始めているうちに、現地でアーミッシュの馬車等の訴訟を目のあたりにすることになった。これが契機となり、裁判に関心を持つようになり、今では、裁判も面白いが、裁判で使われる言葉はもっと面白いと、法言語学の観点から研究を行っている。

編集部から

来年から始まる裁判員制度。重大な刑事裁判に一般市民が裁判員として参加し、判決を下す制度です(⇒「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」)。
もし突然裁判員になったら……さまざまな不安が想像されます。自分以外にもっとふさわしい人がいるじゃないか、とは言っていられません。
不安な要素の一つとして、法廷で使われることばがわからなかったら、裁判の内容がわからなかったり、正しい判断ができないのではないか、ということが挙げられると思います。
日本弁護士連合会では「法廷用語の日常語化に関するプロジェクト」を発足、「これまで法律家だけが使ってきたことば、法廷でしか使われないことばを見直し、市民のみなさんが安心して参加できる法廷を作ろう」と、検討が重ねられてきました。
その報告書とともに、法律家向けに『裁判員時代の法廷用語』、一般の方向けに『やさしく読み解く裁判員のための法廷用語ハンドブック』の2冊が刊行されました。
ぜひこれを皆さまにご紹介したいと思い、このたびプロジェクトチームの方々からご寄稿いただいております。次回は引き続き大河原先生からです。