三省堂国語辞典のすすめ

その26 酒場に足踏み。入店しないの?

筆者:
2008年7月30日

 

推理小説の女王アガサ・クリスリティーは、メアリ・ウェストマコットの名でふつうの小説も書いています。その一編『春にして君を離れ』を読んでいると、次のくだりがありました。主人公の主婦ジョーンが、友人の夫に忠告しようとした、という記述です。

〈せめてもあまり頻繁に酒場に足踏みしないようになさったら、とジョーンは思わず口に出しかけて思いとどまった。〉(クリスリティー、中村妙子訳『春にして君を離れ』ハヤカワ文庫 1973年初版 p.128) 

【つい足踏みしたくなる…】
【つい足踏みしたくなる…】
【『春にして君を離れ』】
【『春にして君を離れ』】

「足踏みする」といえば、ふつうは「進まないで、その場で足を踏む」という意味です。ところが、ここでは「足を踏み入れる」という意味で使われています。入店しないのではなく、進んで入店するのです。この意味は、従来の『三省堂国語辞典』には載っていませんでした。また、分厚い辞書を含む多くの辞書にも載っていません。では、滅びた言い方かというと、1973年の翻訳で使われているのですから、そうとも言い切れません。

これと同時期か、またはやや古いと思われる例を、偶然、また翻訳で目にしました。

〈家主であるかれは、その後もとの家へは、ついぞ足踏みしたことがない。〉(ラフカディオ・ハーン、平井呈一訳『心』岩波文庫 1977年改版p.120。1964年の翻訳に基づく)

この言い方は、多くの人にとっては国語の教科書でおなじみだったと気づきました。芥川龍之介「羅生門」の冒頭部分にこうあります。

〈誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。〉(『羅生門・鼻』新潮文庫1985年改版 p.8。発表は1915年)

【あの名作にも(「羅生門」)】
【あの名作にも(「羅生門」)】

私が確認したかぎりでは、この意味の「足踏み」は、1960年代・70年代になっても使われています。『三国』の取り扱う現代語の範囲に入っているといえるでしょう。かくして、今回の第六版の「足踏み」には、以下の意味が加わりました。

〈3 足をふみ入れること。「酒場に―する」〉

「酒場に……」は、クリスティーの翻訳の例を踏まえたものです。ただ、否定形を肯定形に直してしまったのは反省しています。肯定形の例もありますが、「足踏みしない」と否定形になる例のほうが圧倒的に多いのです。そのことを例文で示すべきでした。

筆者プロフィール

飯間 浩明 ( いいま・ひろあき)

早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。 早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。

URL:ことばをめぐるひとりごと(//www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)

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