漢字の現在

第27回 「口」の形

筆者:
2008年12月11日

どのくらい前からのことだろう、「口」の形が気になっている。

この連載の話であるから、誰かの唇ということではなく、言うまでもなく「口」という漢字の形についてである。それは、甲骨文字のサイと読まれるというそのことでもなく、筆跡によって書き手の性格が分かるというあのことでもない。若年層によって手で書かれた筆跡を見るにつけ、これは……と思ってしまうのである。

口

毎年、社会人や学生が手で書いた文字を読んでいる。1000人くらいの直筆である。文章の内容を読み取ると同時に、その表記や漢字の用法、字形なども気に掛かる。彼らのワープロやメールでの文章との差異も様々なレベルで見て取れる。そうして見出せた「動き」は、フィードバックして当人たちと一緒に考えてみるよう努めているが、その動向は多彩すぎてなかなか追いつけない。

さて、手書きの文字には、点画を記す順番として「筆順」というものが存在する。書き順と呼ばれるようになってきたそれは、手書きでは必ず線条的に生じるものであり、それについては絶対にして唯一の規則があると一般に信じられている。しかし、文部省(文科省)からは、「筆順指導の手びき」という緩やかな指導法が、半世紀も前に一旦示されたくらいで、現在に至るまで日本では国家が示す基準は存在していない。漢字にはいくつもの「神話」があるが、この筆順信仰もその一つであろう。

筆順は、歴史を遡ると、甲骨文字の時代には確固たるものはなかったようだ。それは、楷書や行書などが形成された頃、右ききの人が点画を「正しく」、形を「美しく」整えつつ、腕・手・指に「無理なく」書けるようにと、自然に一定の流れが生まれていったことによるものだった。書字の運動として見れば、概して経済的なものであったといえる。行書のように速く書く場合と筆順を一致させようとすることもあった。ただし、まとまった画数をもつ個々の字においては、筆順が厳密に確定することはなかった(中国では現在、国家によって規定がなされているが、日本の「手びき」とは異なるものも多い)。

無論、書道(中国では「書法」と呼ぶ)の流派によっては個々の字の筆順が固定を見たこともあったが、実用、教育、芸術、学術など文字を書く目的によっても、それは揺れ動いた。例えば、中国の明代の規範的な字書に「運筆」として示された「川」の筆順は、中央の縦線から書くべしとされているなど、現在では受け容れにくいものとなっている。

筆順が自分の習って覚えたものと違っている人を見付けると、その人の人格までも疑う、という話をよく聞く。なるほど支離滅裂な筆順は、「教養」の欠落を感じさせかねない。しかし、それだけを根拠にそのような判断を下す人のほうが、その人から本来得られるであろう何かを失ってしまう、そういう可能性もある。

学生が板書をしたり、ノートを取る際に、「口」を「|」の後に「コ」と書くのだが、その「コ」の筆順が変わってきた。「コ」を1筆で書き上げることが少なくないのだ。とりわけ女子にその傾向が強いように感じられる。これが、字を書く過程だけのことならば咎めることはないのだろう。しかし、書き上がった形が違和感をもたらしうるものとなっているため、近頃気になっているのである。書かれた字から筆順を当ててみると、「何で分かるんですか?」と驚かれる。できあがった形にそれが反映するから気付くわけで、つまり、伝統的に用いられてきた筆順を用いて書くと、もっともらしい形に書ける、という傾向はあるようだ。

伝統的な筆法では、漢字に「冂」のように「はね」まではあったが、そのまま左へと伸びていき、左の縦線まで達する書き方は通常行われなかった(*1)。そうした、楷書ではほとんどなかった筆法は、「己」(前回参照)にさらに顕著である。「コ」がやはり1筆で書かれるばかりか、数字の「5」を左右逆にしたように書かれることが増えている。きちんとした字が求められるような場面でも、そうした変わった「己」の姿が現れるのだ。

そのような新たな「筆法」は「凸」「凹」の字に極まる。これらは昔から色々な筆順で書かれたものだったが、昨今、左上辺りから融通無碍に曲折しグルリと一筆書きされることが多く行われている。筆法の大原則である「左から右へ」はおろか、「上から下へ」ということさえも打ち破る。その結果、楷書としてはありえなかったモコモコな形状、漢字らしからぬクニャクニャとした結構に仕上がるのである。

こうした筆順は、毛筆では起こりにくく、硬筆らしい筆順ともいえそうだ。作家が原稿用紙にペンで速書きした字や、かつての丸文字などにもこうした傾向は現れていた。これらの筆法の流行によって、漢字の画数の数え方にも影響が出てきた。画数が分かりにくくなってきているようなのだ。3画であるはずの「己」を2画、漢和辞典などでは5画とされている「凸」「凹」を一筆書きしたりしながらも3画から最大で8画(凸と凹とで違う画数と意識する者もある)などと数えられている。

筆順の指導は、現状では基準も明確でないためか、国語の時間に受けた記憶がない、とも聞く。せめて先の大原則とそれに従わないと字形が不自然なものとなることだけは、生徒たちに早めに浸透させておくと良いのであろう。

【注】

  1. 漢字にも、ごく例外的に、下から上へ引く「|」や、「淵」の中の「Lを左右逆にした形」を一筆で記す(べきとされる)ようなこともあった。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。