ダサイ話でごめんなさい
2009年 1月 26日 月曜日 筆者: 新井 皓士クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(36)
太宰治(津島修治)が旧制弘前高校から東京帝大仏文科に入ったのは1930(昭和5)年、21歳のことだった。第一作品集『晩年』(1936)の冒頭に置かれた小説『葉』の標語に、「選ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」いうヴェルレエヌの一句――故郷金木郊外の芦ノ湖公園にある記念碑には、表に日本語、裏にフランス語でこの句が彫られている――が、少々思わせぶりに掲げられているし、晩年の傑作とされ人気の高い小説に『ヴィヨンの妻』がある。おまけに往時京大には「太宰」某という仏文教授が活躍し、津島在学時の弘前高校には「鈴木信太郎」という校長がいた、というと、家長(兄)の意に反し小説家をめざす太宰・津島の仏文科志願の条件はそろっているようだ。ところが当人は実はフランス語が不得手で、単に入学試験がなかったことが仏文科を選んだ理由というし、筆名も太宰教授にあやかるものではなく太宰府に由来するとか、鈴木校長は『ヴィヨン訳詩集』で名高い鈴木信太郎東大教授とは無縁で、公金使い込みを指弾され津島をふくむ学生達に追い落とされた別人であったとか、調べてみると案外な事情がこぼれ出る。
作品に限っても、「青い花」やら「ダス・ゲマイネ」(津軽語では「ダカラ駄目ナンダ」という意味もあるらしいが)、クライストやらゲーテやらオイレンベルクやら、玉石混交ながらドイツ文学関係の言及が意外なほど多く、辰野先生への敬意はともかくとして、大学の授業にはほとんど出なかった仏文中退者には、高校でたたきこまれた獨語・独文学の影響が尾をひいているといえるのかもしれない。その際たるものが「古伝説と、シルレルの詩から」と明示された『走れメロス』であろう。シラー(Friedrich Schiller)の7行1連、計20連から成る雄勁直截な譚詩『人質(Bürgschaft)』は、主人公ダーモンの行動をひたすら追い、人質となる友の名すら出さないが、太宰の翻案作品はメロディーを思わせる名のメロスを主人公とし、その刎頸の交友をセリヌンティウスとして、さらに幾つかの小説的脚色を加えた470行、8600字余り。補足脚色した主な部分の第一は「暴君」に関するもので、その「邪知暴虐」ぶりと「ちょっとおくれて来るがいい」という悪魔的ささやき、第二は妹の婚礼と花婿へのことば、そして第三は最後の場面で、一瞬「信実」に背く邪念を抱いた友人同士が互いに殴りあい和解することと、ほとんど真裸のメロスに少女がマントを捧げるオチの場面である。むろん古伝説をしらない日本の読者には遥かに理解しやすく感激しやすく快い微笑すら促すものになっている。ただし勇み足もあるにはある。太宰は頃をあえて「初夏」とした。これは河の氾濫を念頭に日本の梅雨時を想定したのであろうが、シラクサ(シシリー島)付近では6月から8月にかけてほとんど雨は降らない。
例の如く「国松文庫」を整理していたら、太宰の『富嶽百景』(昭和18年1月初版)が収まっていた。新潮社から「昭和名作選集」の第28巻として出たもので、表題作品のほか『女生徒』や『駆け込み訴へ』など中期の問題作と並んで『走れメロス』が収録されている。初版1万2千部、定価1円、太宰の検印はあるが、和書の常で国松先生の蔵書印はない。
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【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員
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【注】
国松文庫:『クラウン独和辞典』の礎を築かれた故国松孝二教授が一橋大学に寄贈された凡そ二万冊を収めている。
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【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。







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