日本語社会 のぞきキャラくり

第40回 キャラクタは文章に、美術品に宿る

筆者:
2009年5月24日

前回、『老人』キャラまで発動させて確かめたのは、「キャラクタは人間の行動全般と結びつく」ということ、そしてその結果「キャラクタは行動の痕跡とも結びつく」ということである。このことを前回は「文字」について具体的に見たのであった。

さて、文字と同様、文章も「書く」という行動の痕跡である。では、キャラクタは文字と同様、やはり文章とも結びつくだろうか?

結びつくのである。こう書こう、ああ書こうという意図を感じさせない文章が高い評価を得るのは、珍しいことではない。次に挙げるのは志賀直哉の評伝の一節である。

 芥川がある時、
「志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」
 と、師の漱石に訊(たず)ねた。
「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああいう風に書けるんだろう。俺(おれ)もああいうのは書けない」
 漱石はそう答えたという。

[阿川弘之『志賀直哉の生活と芸術』1989年]

ここでは芥川龍之介と夏目漱石が「志賀直哉の文章はいい」と話しており、漱石は「文章を書こうと思わずに、思うまま書く」という、書く意図の欠如にその原因を求めている。

美術品一般についても漱石はこう書いている。

 印度(インド)の更紗(サラサ)とか、ペルシャの壁掛とか号するものが、一寸(ちょっと)間が抜けている所に価値がある如(ごと)く、この花毯もこせつかない所に趣がある。花毯ばかりではない、凡(すべ)て支那の器具は皆抜けている。どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものとほか取れない。見ているうちに、ぼおっとする所が尊(とう)とい。日本(にほん)は巾着切(きんちゃくき)りの態度で美術品を作る。

[夏目漱石『草枕』1906年]

中国の皆さん、怒ってこないで下さい。「抜けている」とか「馬鹿」とか言ってますけど、漱石先生は、あ、違った、『草枕』の主人公は、中国をけなしているんじゃないんです。ちょっと口は悪いですけど、褒めているんです。けなされているのは、まるでスリのように油断なく、すべてに気を配って作られる日本の美術品の方ですから。

あっ、日本の皆さん、怒ってこないで下さい。日本の美術品が全てそうだなんて、私も思ってません。漱石先生、いや、『草枕』の主人公がそう信じ込んでるだけですから、はい。

 

ともあれ、こうした美術品が「織る」「描く」「彫る」など、つまり「作る」という行動の痕跡であることは言うまでもないだろう。

賢明なる読者諸氏はすでにお分かりかもしれない。ずっと昔に書いたことを次回、ちと修正させていただく。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。