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「四字熟語と太宰」(その2)

2009年 6月 9日 火曜日 筆者: 円満字 二郎

過渡期の犠牲者

 四字熟語とはどんなものか? 漢字が4つ並んでいれば、四字熟語なのか?
 その定義は、なかなかむずかしい。たとえば、「自己」のあとに漢字2文字がくっついたことばは、たくさんある。「自己矛盾」「自己満足」「自己嫌悪」「自己否定」「自己崩壊」などなど。
 これらは四字熟語と呼べるのか? そう思えるものもあれば、そうは思えないものもある。その線引きをするのは、きわめて困難だ。
 太宰の作品の中にも、「自己○○」はたくさん出てくる。中でも出現回数が多いのは、「自己弁解」の15回、「自己嫌悪」の13回。自分を取り繕おうとしたり、ことさらに嫌ってみせたり。このこと自体、太宰の自意識のありようを物語るようで、おもしろい。
 では、自分を積極的に評価するような「自己○○」は、太宰は使わないのだろうか。そう思って見てみると、「自己満足」は1回しかない。「自己肯定」は5回あるけれど、批判的な文脈で用いられることが多いようだ。
 自信のなさと自信の強さとは、たいていの場合、表裏の関係にある。太宰だって、例外ではない。それにしては、「自己○○」については、バランスが悪い。
 そんなことを考えていて、「自己犠牲」ということばがあることに思い至った。いかにも太宰好みじゃないか! 勢い込んで調べてみたが、これもまた、2回しか使われていないのだ。

 そんなことがあってからしばらく経って、ふと、『斜陽』のラストシーンを思い出した。主人公のかず子は、デカダン生活を送る流行作家の上原とたった1度だけの不倫の関係を持って、望み通り、彼の子を宿す。彼女は、上原への手紙の中で、次のように書く。
 「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。」
 太平洋戦争の敗戦という古今未曾有の国難。それまで信じられてきた価値観が、すべて崩壊してしまった中で、しかし、「古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています」。だから、彼女は言うのだ。
 「犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。」
 偽善に充ち満ちた「古い道徳」に対して、「道徳革命」を挑むかず子。その完成のためには、「もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます」。
 彼女の言う「犠牲」は、「自己犠牲」ということばでイメージされるような、やわなものではない気がする。自己を犠牲にすることで、他者を幸福にしようというような、そんな甘いものではない気がする。
 死に物狂いの戦いの中で、傷つき、倒れ、「犠牲」となる。その行為、その過程そのものが目的となっているような、ギリギリした中での、自己中心的だと言いたくなるほどの「犠牲」の感覚。
 これまで、ぼくは『斜陽』を何回も読み返してきたが、そんなものを感じ取ったことはなかった。
 すぐれた文学作品は、ちょっとした「ことば」をきっかけにして、いろんな世界をかいま見せてくれる。だから、文学はおもしろいのである。

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【著者プロフィール】

円満字 二郎(えんまんじ・じろう)
1967年兵庫県生まれ。大学卒業後、出版社にて高校国語教科書や漢和辞典などの編集に従事。
現在は、フリーの編集者兼ライターとして多方面に活躍中。著書に、『大人のための漢字力養成講座』(ベスト新書)、『人名用漢字の戦後史』(岩波新書)、『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『心にしみる四字熟語』(光文社新書)、『漢和辞典に訊け!』(ちくま新書)がある。

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【編集部から】

本年は、太宰治の生誕100年にあたります。このたび刊行されました『太宰治の四字熟語辞典』は、実際に用いられた四字熟語の意味や背景を解説しながら、作品世界を自由に読み解く異色の太宰文学案内です。著者の円満字二郎さんに、執筆時のこぼれ話を隔週で連載していただきます。

2009年 6月 9日