明解PISA大事典

第13回 キー・コンピテンシー PISA学コトハジメ 其ノ弐

筆者:
2009年7月31日

PISAで求められている学力のことをコンピテンシーという。コンピテンシーとは「個人の人生にわたる根源的な学習の力」とされている(1)

急激で予測不能な変化をする社会においては、過去に積み上げた知識や経験だけでは必ずしもやっていけない。必要に応じて新たな知識を取得し、それを“過去に積み上げた知識や経験と関連付けながら活用する能力”が重要だというのである。

この学力観の転換を、一般に「知識からコンピテンシーへ」の転換という。

ここでひとつ注意が必要なのは、この新たな学力観においても決して知識や経験の集積が軽視されているわけではないということ。“過去の知識の集積や経験だけ”では変化に対応できないといっているのである。知識や経験はあるにこしたことはない。ただ、それだけに頼っているようでは変化に対応できないというのだ。

急激で予測不能な変化をする社会においては、勉強は学校だけですればいいのではない。学校でいくら知識を集積しても、それは社会に出るころには役に立たなくなっているかもしれない。だから、社会に出てからも学び続けなければならないのである。そういう人間が世界中のどこの労働市場においても「人材」として通用する。これこそOECD(経済協力開発機構)の学力観、つまりPISAの学力観なのである。

いつでもどこでも「学び続ける人」になるためには、“主体的で自立的に学ぶ姿勢”が肝要である。だれかに命令されたから学ぶというようではダメなのだ。このあたりから「教師中心主義から学習者中心主義へ」というような発想が出てくる。教師が上から教えこみ、上から考えさせるのではなく、子どもが自ら進んで学び、自ら進んで考えるようにしなければならないというのである。

これがフィンランド教育においては実現しているのだといわれる。だからフィンランドはPISAで一等賞なのだという。だからフィンランドは教育の理想郷なのだという。

だが「理想郷」の現実は決して甘くない。

多くの先進国が直面している問題であるが、民主主義の進展は「統治能力の危機」(2)をもたらす。民主社会においては、だれにおもねることなくモノを言うことが重要である。だから民主主義が進展すれば、だれもが権威におもねることなくモノを言うようになるので、伝統的な権威はどんどん統治能力を失ってしまう。また、そういう社会においては、モノを言えば言うほど得になる傾向があるので、伝統的な道徳心をかなぐり捨ててモノを言う人々が出現する。特に伝統的権威に対して好き勝手に要求するようになる。

これは政治学の考えかたであるが、教育にもみごとにあてはまる。民主主義の進展にともない、学校や先生という伝統的権威が徐々に力を失っていく。それと同時に“モンスターペアレンツ”が出現して、学校や先生に好き勝手な要求を突きつける――これは決して日本だけの現象ではない。程度の差はあれ、多くの先進国に見られる現象なのである。

統治能力を失った伝統的権威が力を取り戻すためには、自らの権威の根拠を“言説化”しなければならない(3)。たとえば、国家であれば法律にしなければならないし、個人の関係においては契約を結んで“明文化”しなければならないのである。

学校においても同じこと。学校や先生が完全に権威性を失ったら、その“統治能力”を明文化された契約によって保障しなければならなくなるのである。これをラーニング・コントラクトといって、欧米の地域や学校によっては徐々に取り入れられ始めている(4)。教育の「理想郷」のはずのフィンランドにおいてさえ、さまざまな困難を抱えた地域や学校においてはラーニング・コントラクトを取り入れざるをえなくなっているのである。

ラーニング・コントラクトには先生や保護者や子どもの権利と義務が明文化されているので、考えようによっては便利な制度である。だが、悲しい制度でもある。先生が「みんな宿題をちゃんとやってこ~い」と言えば、子どもが「は~い」と答える風景が失われてしまうからだ。みんな“契約で義務付けられているから宿題をやってくる”ようになってしまうからだ。これもまた「社会の変化」として受け入れざるをえないということか。

また、PISAで求められている学力を支える「主体的で自立的な学び」と、「契約で義務付けられた学び」の間に論理的な整合性を見出すことも難しい。「契約で義務付けられた学び」とは、命令を発するのが「先生」から「契約書」にすりかわっただけのこと。それは決して「主体的で自立的な学び」とはいえないからだ。あるいは「主体的で自立的に“学びの契約”を結んだ」と解釈すべきなのか。

PISAの学力観は、困難に直面する各国の実情を踏まえて生み出されたものである。先進国の共通の悩みに対処するために考えだされたものである。フィンランドであろうが、どこであろうが、決して「理想郷」は存在しない。

* * *

(1)「コンピテンシー」について詳しくは『キー・コンピテンシー―国際標準の学力をめざして』ドミニク・S・ライチェン、ローラ・H・サルガニク編著/立田慶裕監訳/明石書店 2006年

(2)「統治能力の危機」について詳しくは『民主主義の統治能力―その危機の検討』サミュエル・P・ハンチントン、ミシェル・クロジェ、綿貫譲治著/日米欧委員会編/綿貫譲治監訳/サイマル出版会 1976年

(3)“言説化されない伝統”に権威性を認めない社会のことを「ポスト伝統社会」という。「ポスト伝統社会」について詳しくは『再帰的近代化―近代化における政治、伝統、美的原理』ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ著/松尾清文、小幡正敏、叶堂隆三訳/而立書房 1997年

(4)拙著『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』pp28-31/清宮普美代氏との共著/三省堂 2009年

筆者プロフィール

北川 達夫 ( きたがわ・たつお)

教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

編集部から

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