2009年 7月 のアーカイブ

明解PISA大事典:PISAの発問と指導、評価「PISAの悲劇」

2009年 7月 10日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第10回 PISAの悲劇

 PISAは嫌われている。けっこう嫌われている。

 理由はさまざま。だが、PISAというと「世界はこうなっている。だから日本もこうすべきだ」という論法が見え隠れするあたりが大きいように思う。

 この論法は日本政府の常套手段だった。正確には外務省の常套手段だった。長くて重たい伝統をもった日本はそうそう簡単には変わらない。だから外圧を使って変えようというのである。これは日本人の同調性を利用した部分もある。日本人の習性からして、「みんながそうしていますよ。そうしていないのは日本人だけですよ」と言われると不安でたまらなくなるからだ。

 だが、最近は外圧も通用しなくなりつつある。それどころか「ここは日本だ」という感情的な反発を招きやすい。PISAに対しても同様の反発がいまだに消えない。

 PISAというと「国際的に通用する能力」というような文脈で語られることが多いが、これは得策ではないと思う。どこの国の人にしても基本的には国内的に生きているのであって、国際的に生きているのではない。国際的に通用する能力など必要ないのである。だから、PISAで求められている能力についても、その能力が今後は国内的に必要になることを力説すべきなのだ(*)

 PISAがいきなり測定から始まったことも不幸であった。本来ならば、まず指導があって、それから測定というのがスジだろう。誰だって習っていないことについて、いきなりテストをやられたら文句のひとつも言いたくなる。子どもならば確実に「まだ習ってませ~ん」と文句を言う。

 PISAがいきなり測定から始まったにもかかわらず、いわゆる「PISA型読解力」なるものの指導が奨励されたことも不幸であった。熱心な先生たちは、公開されたPISAのサンプル問題から、その背景にある指導法を推理しなければならなくなったのである。(さらにいえば、公開されたサンプル問題が欧米型の読解問題としては出来の悪いものばかりだったことも不幸であった。もしかすると出来が悪かったからこそ、サンプルとして外部に放出されてしまったのかもしれない⇒第14回「PISAサンプル問題を評価する」へ)

 当然のことながら、指導のための発問と測定のための発問は違う。また、指導は発問だけで成り立っているわけでもない。PISAのサンプル問題から指導法を推理するのは至難のわざであったに違いない。ほとんど不可能であったに違いない。

 この連載でも繰り返し述べてきたように、PISAの読解力は欧米型の読解教育を基盤にしている。だから、その指導法を知りたければ、サンプル問題を参考にするよりも、むしろ欧米型の指導法を参考にしたほうが早道だろう。もちろん日本と欧米とは違うのだから、欧米の指導法をそのまま取り入れても仕方がない。あくまでも参考にするのである。

 前回まで3回にわたってPISAの発問について説明してきたが(情報の取り出し解釈熟考と評価)、あれも基本的には測定のための発問についての説明であった。今後は具体的な指導法について、欧米での指導事例などを紹介しつつ説明していくことにしようと思う。

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(*)このあたりについて詳しくは拙著『ニッポンには対話がない』(平田オリザ氏との共著/三省堂 2008年)を参照されたい。

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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

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【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。金曜日に掲載しています。

漢字の現在:珍しい字との再会方法

2009年 7月 9日 木曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第42回 珍しい字との再会方法

 小さいころから皆と違ったことを好む、変わった子供であった私は、漢字に関心を抱いてしまってからは、気になることが増えはじめた。

 それだけに、漢字に関して、目にとまった面白い情報であっても、「こんなものは保存しておく必要がない」と、否定的な判断を下し、読み捨ててしまったものがいくつもあった。今となっては、それらの情報となかなか再会しがたく、悔いの残ることである。

 それでも、それらの記載と再び巡り会える奇跡が稀に起こる。

 数字の区切り方で、かつて新聞で、アラビア数字の表記法について、「10,000」のような3桁区切りでは日本人にとっては読み取りづらい、「1,0000」のように4桁区切りにしないと日本語にはふさわしくないとし、3桁区切りに合わせた新しい単位を表す語を設けようといった主張を含む投書を読んだ。それに応えた投書のやりとりもあり、それらには新しい単位として「サウザンド」「ミリオン」「ビリオン」などに漢字を当てて、「千」「万」「億」などに準じた新たな単位として「美」などの漢字による語を作ろう、というような言説が現れていた。

 読みながら、「へえ」と関心は持ったが、切り抜くこともメモをとることもせず、読み流してしまった。時が流れ、やがて漢字や国字を専門とするようになり、「あれはいったい何という字だったのか。もし当て字ではなく造字だったとすれば……」などと、気に掛かりだした。

 子供ながらに、何かの根拠を持った規範意識が働いて、情報を選別していたのだが、それが仇となる。大学に入り、早稲田の7号館、今はない図書室で、それを求めて数学関連の書籍をあてどなくめくっていたとき、何冊めかでふとその情報に行き当たった。その新聞記事がきちんと引用された箇所が目に飛び込んできた。人けのないその部屋を出て、図書館で縮刷版に当たり、ついにそれに辿り着けたのだった。記憶の底のそれよりも短い文章ではあったが、「美」などの当て字が確かにあった(内容などは、また見つからなくなっているため不詳)。

 「イ+考く」。「働く」をこのように書くべきだという話を何かの新聞の広告欄で目にしたこともあった。これは、個人文字、位相文字の好例なのだが、子供の私はむしろ「フン」という目で見て、その貴重な実例をあえて拾おうとはしなかった。これも、国字を専門とするようになり、「働」自体も国字であるだけに、何で見かけたのか、その後も雑誌などで追いかけたが、見つからずにいた。

 都内の女子大学に就職してから、JIS漢字の幽霊文字調査を目的として、国立国語研究所を訪ね、新聞の切り抜きデータベースを親切かつ手厚く見せていただいていたことがあった。確かその時だったか、そこにこの字についての記録が残っていることを見かけた。そこで、その日か後日になってからか、実際に切り抜きで確認させてもらったところ、少年時に見た、まさにその記事が保管されていた。当時の研究所と同じく東京都の区部で、届いた新聞を眺めていたことが幸いし、ちょうど保存対象となっていたという可能性もある。

 年少時特有のいわれのない規範意識に加え、記憶力への過信があったことも反省すべきである。こういう想い出の中の珍しい字との奇遇ともいえる再会のためには、アナログ的な手法では限界を感じることが多い。しかし、それらを探し求める過程で、思わぬ字との新たな出逢いも、また決まって起こるもので、もどかしいながら楽しいものであった。時間がたくさんあったころの苦しみと特権であった。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「都」が変化する意義」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

『三省堂国語辞典』のすすめ その75

2009年 7月 8日 水曜日 筆者: 飯間 浩明

こんなん、串カツと違うで。

「串カツ」と書いた店の張り紙
【どんな料理か?】

 「串カツを食べに行きましょう」と言われたら、どんな料理を思い浮かべますか。大阪の人ならば、「二度漬け禁止」で有名な、あの串カツのことだと思うでしょう。

 大阪では、至る所に「串カツ」の看板が出ています。こういった店では、肉や魚介、野菜などを串に刺して揚げたものを、容器にたっぷり入ったソースに、どぼん、と漬けて食べます。ソースの容器は客たちが共用するので、食べかけの串をもう一度漬けては不衛生です。そこで「二度漬け禁止」がルールになったというわけです。

 『三省堂国語辞典』の主幹だった見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)は、「串カツ」の用例を多く採集しています。その1つによれば、1950年代の大阪・梅田の地下道でも、現在のような串カツの食べ方をしていたことが分かります(『週刊読売』1963.10.6 p.28)。

東京の串カツの写真
【東京の「串カツ」】

 ところが、このような串カツは大阪ならではのもので、東京などで「串カツ」といえば、それは単に、豚肉とネギを交互に串に刺して揚げたものを言います。ふつうのスーパーでも売っているものです。多くの辞書には、この意味の串カツしか載っていません。

 東京にも、大阪の串カツに相当する料理があり、それは「串揚げ」と言います。豚肉に限らず、魚介や野菜なども串に刺して揚げるところは、大阪の串カツに似ています。ただ、ソースにどぼんと漬けるのでなく、小皿の塩やたれをつけて食べるものです。

 大阪の串カツの店が大衆的なのに比べて、東京の串揚げの店はやや上品です。「京風串揚げ」と謳(うた)う店が多いことからすると、京都から伝わったものかもしれません。見坊カードには、〈〔串揚げは〕もともと関西生まれで、ちかごろは東京でもかなりふえてきたが〉(『東京新聞』夕刊 1965.4.30 p.2)という記事があります。

串揚げの写真
【東京の「串揚げ」】

 別のカードでは、漫画家・宮尾しげを(東京生まれ、1902-1982)が、子どものころ、肉とネギだけの安い「串カツ」を〈ソースの入れ物にダブリとつけてたべるものが蔵前の通りの夜店で売られていた〉と語っています(『東京新聞』1967.12.29 p.5)。今の大阪の串カツのような食べ方であり、串カツの歴史の複雑さをうかがわせます。

 『三国』の第六版では、「串カツ」は豚肉とネギの串刺し、「串揚げ」は肉・魚・貝・野菜などの串刺しと定義しました。さらに、関西で言う「串カツ」は、ここで言う串揚げのことだとも示しました。現代における使い分けをすっきり説明したつもりです。

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◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」

筆者プロフィール

【飯間先生の新刊『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』】飯間浩明(いいま・ひろあき)
 早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
 早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)

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【編集部から】
生活にぴったり寄りそう現代語辞典として定評のある『三省堂国語辞典 第六版』が発売され、「【サンコク】メディアでの紹介」の記事にある通り、各方面で取り上げていただいております。その魅力をもっとお伝えしたい、そういう思いから、編集委員の飯間先生に「『三省堂国語辞典』のすすめ」というテーマで書いていただいております。

「四字熟語と太宰」(その4)

2009年 7月 7日 火曜日 筆者: 円満字 二郎

事実の重みの前には

 太宰の最晩年のエッセイに、『如是我聞』という作品がある。
 太宰が最も嫌悪した、“既成の権威”なるもの。『如是我聞』には、死を決意した彼が、この“既成の権威”に対して抱いたどうにも収まりようのない反抗心が、なりふり構わずにつづられている。太宰のエッセイとしては最もよく知られたものであり、いい意味でも悪い意味でも、太宰文学を代表する作品ともいえるだろう。
 しかも、タイトルそのものが四字熟語であるとくれば、『太宰治の四字熟語辞典』としては、取り上げぬわけにはいくまい。
 しかし、構想を練り始めたかなり初期の段階で、この「辞典」の最後は、『人間失格』のタイトルそのものを“四字熟語”として取り上げようと決めていた。そのために作品の年代順に構成するとなると、『如是我聞』は『人間失格』の直前に来る。タイトル=四字熟語というタイプのものが続くのは、構成上、あまりおもしろくない。
 ならば、『如是我聞』の本文中から、なにかを別のものを探すしかない。そう思って再読した結果、ひっかかったのは「三拝九拝」という四字熟語だった。

 『如是我聞』の中に、この四字熟語は2回、使われている。いずれも、“既成の権威”にこびへつらう評論家たちを、罵倒する文脈だ。1度目は、「レッテルつきの文豪の仕事ならば、文句もなく三拝九拝し、大いに宣伝これ努めてい」ると評論家たちを批判する。2度目は、「ある老大家の作品に三拝九拝し」ている評論家について、「奴隷根性も極まっていると思う」と容赦ない。
 太宰は天才なのだから、評論家たちのことなど気にせずに、ゆったりと構えていればいいのに。そんなふうに、思わないでもない。しかし、それはともかく、「三拝九拝」は何度もおじぎをすることであり、それが「三」「九」という具体的な数字で表されているところに特徴がある。3度ならともかく、実際に9度もおじぎするヤツは、そうはいまい。太宰のいつもの誇張表現である。
 しかし、『如是我聞』では、その大げさな感じがユーモラスな方向ではなく、どこかトゲトゲしい方向に進んでいるように、ぼくには感じられる。このエッセイを「胸のすくような名文」と呼ぶ人もいるが、ぼくはどうも好きになれない。もっとも、そのやぶれかぶれ具合にこそ、太宰の苦悩を見るべきなのだろうけれど……。

 この四字熟語について語るとすれば、とりあえずは語源を確認しておかねばならない。辞書類には確とした語源説は載っていないが、「三跪九拝」と関係がありそうだ。
 「三跪九拝」というのは、中国清朝の皇帝に対する礼「三跪九叩頭」のことだ。ひざまずいて、3回、額を地面に付ける。それを、3度くり返す。かつては、中華帝国の皇帝の前に出れば、だれであっても、この七面倒くさい礼法を守らねばならなかった。それをめぐって、イギリスのマカートニーや、日本の副島種臣といった“近代国家”の外交官たちがいろいろと苦労したのは、有名な話だ。
 つまり、「三拝九拝」は、歴史的事実なのだ。そこには、中華帝国の偉大さと、時代の流れに対応できぬ苦しみとが潜んでいる。それは、誇張などではないのだ。
 そのことに思い至ったとき、さすがの太宰の誇張表現も、急速に色褪せていくように感じられた。そうして、ぼくは『如是我聞』を取り上げることを、すっかり諦めてしまったのだった。

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【著者プロフィール】

円満字 二郎(えんまんじ・じろう)
1967年兵庫県生まれ。大学卒業後、出版社にて高校国語教科書や漢和辞典などの編集に従事。
現在は、フリーの編集者兼ライターとして多方面に活躍中。著書に、『大人のための漢字力養成講座』(ベスト新書)、『人名用漢字の戦後史』(岩波新書)、『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『心にしみる四字熟語』(光文社新書)、『漢和辞典に訊け!』(ちくま新書)がある。

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【編集部から】

本年は、太宰治の生誕100年にあたります。このたび刊行されました『太宰治の四字熟語辞典』は、実際に用いられた四字熟語の意味や背景を解説しながら、作品世界を自由に読み解く異色の太宰文学案内です。著者の円満字二郎さんに、執筆時のこぼれ話を隔週で連載していただきます。

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(8)

2009年 7月 7日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(8) 初宮仕え~定子との出会い~

 清少納言が初めて出仕した年は、正暦(しょうりゃく)四年(993)だったと考えられています。『枕草子』には、それ以前の出来事を扱った章段もいくつかありますが、それはひとまず措(お)いて、まず、初出仕の日の事を記した章段から見ていきたいと思います。

 宮にはじめてまゐりたるころ、物のはづかしき事の数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々まゐりて、三尺の御几帳(みきちやう)のうしろに候ふに、絵など取り出でて見せさせたまふを、手にてもえさし出づまじうわりなし。

(中宮御所に初めて出仕したころ、何もかも恥ずかしいことだらけで、涙も落ちてしまいそうだったので、毎夜参上して、三尺のついたての後ろに控えていたところ、中宮様が絵などを取り出してお見せくださるのを、それに私は手さえも差し出すことが出来そうもない状態でどうしようもなくつらい。)

 定子サロンの看板女房として上流貴紳と互角に渡り合うことになる清少納言も、初宮仕えの時の緊張は相当なものでした。それまで他人と顔を合わせる事に慣れていなかった彼女は、顔を人に見られることが恥ずかしくて、毎日、夜にしか参上できない有様でした。うだつの上がらない中流貴族の生活から、今を時めく関白家、さらに宮廷という雲の上の世界に足を踏み入れたのですから無理もありません。身分制度のない現代社会では考えられないくらいの緊張、と同時に未知の上流界への憧れが清少納言の感覚を麻痺させてしまうのです。

 その清少納言を待ちかねていたのが中宮定子でした。有名な歌人清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘という事で興味を持っていたのでしょう。自分から清少納言に近づき直に声をかけてきます。そこには、権勢家の娘として生まれ、天皇妃となった定子の積極的で好奇心旺盛な姿が描かれています。

 この時、定子は17歳、清少納言はそれより10歳程年上だったと考えられます。しかし、極度の緊張のために定子の前では一言も発することができませんでした。顔も上げられない清少納言の目に止まったのは、定子が彼女の気を引こうとして絵を差し出した時に袖口からのぞいた手でした。
 うっすらとピンク色を帯びてつやめいている美しい指先。上流貴族の娘として大切に育てられ、今、中宮として宮廷に君臨している若々しい女主人の手…それが、清少納言の印象に残った定子の最初の記憶でした。

 定子の指先が色づいていたのは、その折の京都の寒さのせいだったとも考えられています。定子の前で数時間留められ、やっと退出を許されて緊張が解けた時、清少納言の目に映ったのは、庭に降り積もった白い物でした。ああ、雪が降っていたのかと気付き、そこで一時我に返ります。このあたりの描写はさすがです。

 さて、翌日は昼間から度々のお召しがあり、同室の先輩女房の忠告を受けて再び定子のもとに向かうことになりますが、その時、清少納言の目に入ったのは、火焼き屋(ひたきや=警備のために火を燃やす小屋)の上にまで降り積もった雪でした。一晩でかなりの量の雪が降り積もった様子から、季節は冬ではないかと考えられます。
定子の前に出ると、依然として緊張で凝り固まっている清少納言。そこに登場したのが大納言伊周(これちか)、すなわち定子の兄でした。次回に続きます。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

レター別の頁(ページ)数

2009年 7月 6日 月曜日 筆者: 信岡 資生

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(57)

辞書に引き慣れてくると、各頁の右欄外や辞書の腹に印刷されているアルファベットに頼ることなく、目指す単語の載っているあたりをさっと開くことができるようになる。参考までに『クラウン独和辞典 第4版』の、レターごとに占める頁数を調べてみると、次の通りであった。

頁数 本文頁 頁数 本文頁
A 149 N 45 947~991
B 118 150~267 O 24 992~1015
C 11 268~278 P 61 1016~1076
D 72 279~350 Q 6 1077~1082
E 90 351~440 R 59 1083~1141
F 70 441~510 S 216 1142~1357
G 96 511~606 T 58 1358~1415
H 89 607~695 U 72 1416~1487
I 26 696~721 V 86 1488~1573
J 11 722~732 W 82 1574~1655
K 90 733~822 X 1 1656
L 53 823~875 Y 1 1657
M 71 876~946 Z 69 1658~1726

Hの部がほぼ中央にある。一般に英和辞典ではM、仏和辞典ではIの部が中央になっているようだ。 Sの部が占める頁数が最多で216頁あり、そのなかでもsch-, Sch- だけで72頁(1157~1229)ある。またAの部は独和の部の総頁1726のおよそ1割に近い。同じ1頁でも、FやZの最終頁のように1行余さずぎっしり詰め込まれている場合もあれば、M やQの最終頁のように12~13行しか記載されていないケースもあるが、これらの数字は『クラ独 4版』を引く際の目安になろう。頁数で独和の部のまんなかに当る863頁の末尾の見出し語はLizenzgebühr「認可(ライセンス)料」である。

少し古い統計であるが、Helmut Ludwig : Gepflegtes Deutsch.(Leipzig 1983)に、ある調査によるドイツ語の字母の使用頻度(頭字とは限らない)は、小文字ではeが一番高く、以下 n ; r ; i ; s, t ; a, d, h …、大文字では Sを先頭に、A, I ; B, D, G ; E, H, K, M, T, W ;V… の順と書かれている。また、最もよく使われる単語10傑は、die, der, und, in, zu, den, das, nicht, von, sie であるそうだ。これは最近の英語のある語彙調査で,最もよく使われる単語の上位10個が、the, of, and, to, a, in, that, it, I, was(『世界の辞書』研究社1992に所収の東信行:「英国の辞書」より)であるのとよく符合するといえよう。


【筆者プロフィール】
信岡資生(のぶおか・よりお)
成城大学名誉教授
専門は独和・和独辞典史


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

日本語社会 のぞきキャラくり 第46回 発話キャラクタ(後)

2009年 7月 5日 日曜日 筆者: 定延 利之

発話キャラクタ(後)

 ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物像が使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。

[金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(2003、岩波書店)]

 これは以前にも取り上げた(第28回)、金水先生による「役割語」の定義である。ここでは「役割語」が、「役割」という名こそ付いているものの、目的論から切り離された形で定義されている。とかく目的論には警戒心を抱きがちな私も(第35回第36回第37回参照)、この定義はすんなりと受け入れることができる。金水先生にならって「わし」のようなことばを「役割語」と呼んでいるのは、そういうわけである。

 「役割語」という用語をそのまま踏襲する一方で、金水先生が「人物像」と仰るものについては、私は「人物像」とはあまり呼ばず、しばしば「キャラクタ」と呼び変えている。これは一つには、次のマンガ学習参考書の例のように、

  ネコ:バラバラにすれば部首が見つかるニャン
  イヌ:バラバラにしてどうするワン

[まんが塾太郎(著)・小田悦望(画)『マンガだけど本格派 漢字のおぼえ方 漢和字典[部首]攻略法』(1997、太陽出版) p. 15.]

ネコが「見つかるニャン」、イヌが「どうするワン」、さらには『おそ松くん』に登場する毛虫のケムンパスが「ケムンパスでやんす」というような、マンガ世界内とはいえ「人物」とは必ずしも呼びやすくない存在の発話を気にしたせいでもある。

 だが、もっと大きな動機は、いま示しつつあるように、ことばと人物像の結びつき方が第3の結びつき方(金水先生の定義に現れているのはこれである)には限られず、さまざまな結びつき方がある、ということに関係している。「キャラクタ」という用語を導入するのは、それらの結びつき方の全体をとらえ、なおかつ個々を区別するためである。

 役割語によって暗に示される『老人』のような、発話動作の行い手としてのラベルづけられたキャラクタを、適宜「発話キャラクタ」と呼び、単なる「ラベルづけられたキャラクタ」や、次回とりあげる第2の結びつき方のキャラクタ(「表現キャラクタ」)と区別することにしよう。金水先生は、ことばとキャラクタの結びつき方のうち、特に[発話動作-発話動作の行い手]という結びつき方(第3の結びつき方)に着目され、「役割語」と「発話キャラクタ」をセットで定義された、ということになる。

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◇この連載の中国語版と英語版
  中国語版⇒角色大世界――日本
  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

* * *

【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。

近刊案内(2009年7月)

2009年 7月 5日 日曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部
三省堂の辞書・事典、2009年7月に出版が予定されているものは…

敬語のお辞典

坂本 達・西方草志 編著
四六判 416ページ ¥1,575 ISBN 978-4-385-36425-4

「お」がつくのか「ご」がつくのか迷ったことはありませんか? 約5千の敬語の会話例を340の場面別・意味別に分類。豊富なバリエーションからぴったりした表現を探してください。漢字は全部 ふりがなつき。日本語学習者にもバリアフリー。
『敬語のお辞典』のページへ

ビミョーな違いがわかる コトバ辞典

森田良行 著
B6判 144ページ ¥1,260 ISBN 978-4-385-36443-8

現代人が使い方に悩む、微妙なニュアンスの違いを、豊富な例文と共に、楽しく・分かりやすく解説した待望の本。「任せる×ゆだねる」「疲れる×くたびれる」「わいわい×がやがや」「うかうか×おちおち」、「塵×ごみ」「米×めし」「子供×お子さん」、「数」「色」等、120例。便利な主要用語索引付き。
『ビミョーな違いがわかる コトバ辞典』のページへ

地域語の経済と社会 第55回

2009年 7月 4日 土曜日 筆者: 大橋 敦夫

地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第55回「信州人の好きなことば―『ずく』をめぐって―」(その2)

即席みそ汁「ずくいらず」
【即席みそ汁「ずくいらず」】

 インスタント食品の種類が豊富で、その味も本格的なものが増えている現代の生活。

 手間ひまかけずに本物の味わいが楽しめる様子を、ひと言で表現した商品が、今回ご紹介する「ずくいらず」(即席みそ汁)です。

 PR用のチラシには、次のような宣伝文が載っています。

 器に入れ、お湯をそそぐだけで本格的なみそ汁が味わえると大好評の「ずくいらず」。(【ずく】とは、信州の代表的な方言で「根気」や「やる気」を意味します。)

 具材は、とき玉・エリンギ・甘えびの3種。地元の山の幸(信州生まれのエリンギと数種のきのこ)とともに、信州人あこがれの海の幸(甘えび)が選ばれており、飽きのこない選択が可能です。肝心の味噌は、老舗として有名な製造元ご自慢のものが使用され、上品な味わいに仕上がっています。

 まさにお味噌屋さんの作ったお味噌汁として、信頼のおける商品です。

 ところで、ネーミングに使われた「ずく」ですが、ふだんの会話では、「ずくを出せ[=やる気を出せ]」のように使われることが多く、「ずくなし[=無精者]」と非難されないようにお互いに気づかいをしています。

 信州を代表する方言といっていい語ですが、市町村誌の類を見ると、当事者はそれぞれ、違った意味づけをしていることがわかります。

市町村誌に見る「ずくなし」の語釈
①労働をいとう人・骨惜しみ・怠け者
 【北信】上水内郡誌・下水内郡誌・信州新町誌・松代町史・浅川村郷土誌など
 【東信】北佐久郡志・南佐久郡志・小海町誌・川上村誌など
 【中信】小谷村誌・東筑摩/松本市/塩尻市誌・伊那市誌
 【南信】南信濃村遠山・大鹿村誌
②寒がり
 【北信】長沼村誌(長野市)
③勇気がない
 【北信】とよさか誌(松代町)

 つねになれ親しんでいる語も、このような意味の広がりがあることを知ると、新鮮に感じられます。

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【筆者プロフィール】

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
 井上史雄大橋敦夫田中宣廣日高貢一郎山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

大橋敦夫先生監修の本大橋敦夫(おおはし・あつお)
上田女子短期大学総合文化学科教授。上智大学国文学科、同大学院国文学博士課程単位取得退学。
専攻は国語史。近代日本語の歴史に興味を持ち、「外から見た日本語」の特質をテーマに、日本語教育に取り組む。共著に『新版文章構成法』(東海大学出版会)、監修したものに『3日でわかる古典文学』(ダイヤモンド社)、『今さら聞けない! 正しい日本語の使い方【総まとめ編】』(永岡書店)がある。

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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。

* * *

この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

明解PISA大事典:発問3 「熟考と評価」への遠い道のり

2009年 7月 3日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第9回 発問3:「熟考と評価」への遠い道のり

 いよいよ「熟考と評価」である。

 なぜ「いよいよ」なのかというと、“「熟考と評価」はPISAの象徴。「生徒に意見を書かせる」ことこそ「PISA型読解力」の最終ゴール”と考えられているフシがあるからだ。

 現実はそれほど大げさなものではない。欧米的発想からすると、主張に対しては主張で応えるのが当然。筆者や作者は何か言いたいことがあって文章を書いたのだから、それを読んだ人も何か言って応えるべきだ――という程度の発想が根底にある。作用と反作用というか条件反射のようなものだ。

 そのような発想は日本にはない。「課題文を読んだら意見を書くのは当然」などとは考えない。だからPISAの「熟考と評価」は衝撃だったのだろう。だからPISAといえば「課題文を読ませて意見を書かせるテスト」という認識が広まったのだろう。

 「課題文を読ませて意見を書かせるテスト」という認識でも間違いとはいえない。だが、根本的なところにズレがあると思われるので、今回は「熟考と評価」の「意見を書く」という部分に絞って説明することにしよう。

 主張に対しては主張で返すという発想の人たちにとって、意見を言うのは呼吸をするのと同じくらい自然なこと。そのこと自体に大した意味は見出さない。意見など、だれでもなんとでも言えるからである。特に教育という観点からすると、自由に意見を言うことよりも、むしろ一定の条件下で特定の意見を成り立たせることを重視する。だれでもなんとでも言えることをやらせていたら、なんの訓練にもならないからである。

 そのため、読解力において求められている意見とは、決して子どもの個人的な意見ではない。課題文で扱われている問題について、子どもが心底からどう思っているのかを聞いているのではない。問われているのは、一定の条件下でどのような意見がどのように成り立ちうるか。たとえば筆者が特定の前提から何らかの結論を見出しているとしよう。そこで問われるのは、筆者と同じ前提のもとで、「筆者の結論に賛成するとしたら、どのように意見を構成すればいいですか?」。あるいは「筆者の結論に反対するとしたら、どのように意見を構成すればいいですか?」ということなのである。

 PISAの『落書き問題』では「落書きは芸術だからしてもよい」「落書きは迷惑だからしてはならない」という二つの意見が併記され、「あなたはどちらに賛成しますか?」と問われた(*)。もちろん心底からどう思っているのかを聞いているのではない。「心底から」ということになると、なかなか「『落書きは芸術だ』に賛成!」とは答えにくかろう。あくまでも「仮にどちらかに賛成するとしたら」ということであって、個人の内心とは切り離して考えることが肝要なのである。

 このあたり、特に「意見とは内心の発露であって、個人にとっての真実でなければならない」という信念を持っている人にとっては、大変に不真面目な活動に映ることだろう。だが、欧米的な価値観からすると、内心とは絶対的自由を確保すべきものであって、そうそう気軽に発露すべきものではない。心の中で何を考えようと、それは個人の自由。どれほどハレンチなことを考えようと絶対に自由である。だが、それをひとたび言葉や行動に表した瞬間に社会的責任が生じる。だから、内心から切り離したところで、状況に応じた言葉や行動をデザインする必要があるのだ。

 PISAの読解力について「課題文を読ませて意見を書かせるテスト」という認識でも特に問題はない。だが、肝心の「意見を書く(言う)」ということについては認識に大きな隔たりがある。ここまで認識が違うと、欧米の指導法を日本に適用するのは難しい。あるいは認識を変えるべきか? PISAへの道のりはまだまだ遠いようだ。

 ちなみに、「課題文を読んで意見を書くこと」は「熟考と評価」のすべてではない。「熟考と評価」の全貌については、いずれ回を改めて詳しく論じることにしたい。

* * *

(*)『生きるための知識と技能3』OECD生徒の学習到達度調査(PISA)・2006年調査国際結果報告書 pp198-201/国立教育政策研究所編/ぎょうせい 2007年

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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

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【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。金曜日に掲載しています。

人名用漢字の新字旧字:「莱」と「萊」

2009年 7月 2日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第38回 「莱」と「

旧字の「」は人名用漢字なので、子供の名づけに使うことができます。新字の「莱」は、子供の名づけに使えません。旧字の「」は出生届に書いてOKですが、新字の「莱」はダメ。けれども本当は、新字の「莱」が、人名用漢字になれるはずだったのです。

平成12年12月8日、国語審議会は、表外漢字字体表を答申しました。表外漢字字体表は、常用漢字(および当時の人名用漢字)以外の漢字に対して、印刷に用いる字体のよりどころを示したもので、1022字の印刷標準字体が収録されていました。この中に、旧字のが含まれていました。印刷物には「莱」より「」を用いる方が望ましい、というのが、国語審議会の判断だったのです。

法制審議会のもと平成16年3月26日に発足した人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、文化庁が表外漢字字体表のためにおこなった漢字出現頻度数調査(平成12年3月)、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。新字の「莱」は、漢字出現頻度数調査の結果が2回でしたが、全国50法務局のうち16の管区で出生届を拒否されたことがあって、JIS X 0213の第1水準漢字だったので、人名用漢字の追加候補となりました。これに対し、旧字の「」は、出生届を拒否した法務局はなかったものの、出現頻度が428回でJIS第3水準漢字だったので、やはり追加候補になりました。

追加候補選定基準 漢字出現頻度数調査
200回以上 50~199回 1~49回
不受理の法務局数 11以上 JIS第1~3水準 JIS第1・2水準 JIS第1・2水準
8~10 JIS第1~3水準 JIS第1・2水準 JIS第1水準
6~7 JIS第1~3水準 JIS第1水準 JIS第1水準
0~5 JIS第1・3水準 - -

ところが人名用漢字部会は、新字の「莱」と旧字の「」を一つにまとめる、という妙な審議方法を採りました。JIS第1水準と第3水準で、異体字関係にある人名用漢字の追加候補は、どちらか一つに候補を絞ることにしたのです。平成16年6月11日、人名用漢字部会は、578字の追加案を公開しましたが、そこには旧字の「」だけが収録されていました。新字の「莱」は、人名用漢字の追加候補から外されてしまったのです。表外漢字字体表の印刷標準字体に気がねした人名用漢字部会は、全国16管区で拒否された「莱」の出生届を、結果的に無視したのです。

平成16年9月8日、法制審議会は人名用漢字の追加候補488字を、法務大臣に答申しました。この488字の中に、旧字の「」は含まれていましたが、新字の「莱」は含まれていませんでした。3週間後の9月27日、戸籍法施行規則は改正され、これら追加候補488字は全て人名用漢字になりました。旧字の「」は人名用漢字になりましたが、新字の「莱」は人名用漢字になれませんでした。それが現在も続いていて、旧字の「」は出生届に書いてOKですが、新字の「莱」はダメなのです。


【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。

『三省堂国語辞典』のすすめ その74

2009年 7月 1日 水曜日 筆者: 飯間 浩明

多いとは、こーんなにあること。

気球の写真(キャプションはかつてのCMソング)
【♪大きいことはいいことだ…】

 小さな子でも知っている基礎的な概念をことばで説明することは、かえってむずかしいものです。たとえば、「大きい」「多い」は、幼児が最も早く覚えることばに属しますが、辞書の中でそれを説明するとなると、たいへん苦労します。

 「大きい」は、「空間に占める割合が多い」のように説明することができます。ところが、その「多い」を説明するためには、「数量の程度が大きい」というように、「大きい」を使いたくなります(実際に、ある辞書ではそうなっています)。「大きい」「多い」の説明が循環してしまいます。

 辞書によっては、説明を諦めたかに見えるものもあります。「大きい」は「空間を占める容積や面積が大である」、「多い」も「数量が大である」として、両方とも「大である」でまとめています。「大」を引くと、「大きい方あるいは多い方であること」と出てきます。このようにすっぱり割り切るのも、ひとつの方法かもしれません。

たくさんのりんご
【こんなにあるという状態】

 では、『三省堂国語辞典』はどうでしょうか。これが、なかなかおもしろいのです。 まず、「大きい」は〈容積が多い。かさが多い。〉と、「多い」を使って説明します。一方、その「多い」の説明は、第二版(1974年)以来、こうなっています。

 〈数や量が、こんなにある、という状態だ。〉

 思わず、あっけにとられる説明です。「『こんなにある』って、どんなふうにあるんだ?!」と聞き返したくなります。珍語釈と見る人もいるかもしれません。

 でも、よく味わってみると、これは名語釈というべきです。小さな子に「多い」の意味を聞かれたとき、大人はおそらく、「あめ玉が、こーんなにある、ということだよ」と、手を広げて見せるでしょう。この説明のしかたを、『三国』はそのまま採用したのです。

『《物》と《場所》の意味論』
【久島茂氏に名著がある】

 辞書では手を広げて見せることはできませんが、「こんなに」ということばの中に、程度の大きさを示す要素が入っています。「こんなにある」は、存在する数量の程度が大きいということを、素朴に、直感的に分かるように説明したものです。

 もっとも、それならば「こんなに」や「そんなに」の意味はどう説明するかということが、課題として残ります(『三国』では、特に説明はありません)。そこまでの説明を求める人がどれだけいるかは疑問ですが、できればなお工夫したいところです。

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◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」

筆者プロフィール

【飯間先生の新刊『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』】飯間浩明(いいま・ひろあき)
 早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
 早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)

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【編集部から】
生活にぴったり寄りそう現代語辞典として定評のある『三省堂国語辞典 第六版』が発売され、「【サンコク】メディアでの紹介」の記事にある通り、各方面で取り上げていただいております。その魅力をもっとお伝えしたい、そういう思いから、編集委員の飯間先生に「『三省堂国語辞典』のすすめ」というテーマで書いていただいております。

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