三省堂国語辞典のすすめ

その94 談話を発出? 出発じゃないの?

筆者:
2009年11月18日

『三省堂国語辞典 第六版』の編集作業が頂点に差しかかっていた時点の首相は安倍晋三氏でした。安倍首相は、国の枠組みを変えようとはりきっていたせいか、たくさんの新語を造り出しました。政府がマスコミを通じて流すことばは絶大な影響力があり、辞書を編集する側としては無視できません。

「美しい国」というキャッチフレーズとともに繰り返されたのは「戦後レジームからの脱却」でした。戦後の政治体制の枠組みを見直そうというわけです。「戦後レジーム」がさかんに使われだしたので、『三国』でも「レジーム」を新規項目に立てることになりました。当初の原稿では、語釈は〈政治体制。制度。「戦後―」〉としておきました。

ところが、第六版の編集が終盤を迎えた2007年9月、安倍首相は突然辞任してしまいました。それとともに、「戦後レジーム」の議論もばったり沙汰やみになりました。「戦後レジーム」ということばは、にわかに古くなりました。新語には、えてしてこういうことが起こります。辞書に載せるのは慎重でなければなりません。

安倍首相辞任新聞記事
【はるか昔のことのよう】
福田首相辞任新聞記事
【ひどく昔のことのよう】
麻生首相ポスター
【かなり昔のことのよう】

とはいえ、「レジーム」ということばそのものは、ほかでも使われます。結局、用例を〈「アンシャン―〔=旧体制〕・―チェンジ〔=政権交代〕」〉と差し替えて、項目はそのまま立てることにしました。この項目は、安倍首相のおかげで立ったものといえます。

キャッチフレーズ以外にも、安倍首相がさかんに繰り返すので注目したことばもあります。たとえば、「発出」がそうです。

〈政府としてですね、えーこの官房長官談話を発出をし、内外に政府としてのしめい、えー、内外として、内外に対して、政府としてのまあ姿勢を、まあ示したと。〉(NHK「ニュース7」2006.10.05 19:00)

「出発」ではありません。一種のお役所ことばです。手元の用例を見ると、安倍首相だけでなく、同時多発テロに際して福田康夫官房長官が〈お見舞いのメッセージを発出いたしました〉(NHK「ニュース」2001.09.12 12:50ごろ)と言っていたりして、用例が多いので、新規項目として立てることにしました。

語釈は〈文書・談話などを、外に向かって出すこと。「通知を―する」〉です。その後もよく耳にしますが、この意味を載せる辞書は多くないはずです。

筆者プロフィール

飯間 浩明 ( いいま・ひろあき)

早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。 早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。

URL:ことばをめぐるひとりごと(//www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)

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編集部から

生活にぴったり寄りそう現代語辞典として定評のある『三省堂国語辞典 第六版』が発売され(※現在は第七版が発売中)、各方面のメディアで取り上げていただいております。その魅力をもっとお伝えしたい、そういう思いから、編集委員の飯間先生に「『三省堂国語辞典』のすすめ」というテーマで書いていただいております。