『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて

(15) 中関白家の子息たち~伊周(これちか)

2009年11月24日

中宮定子の父 藤原道隆については以前少しお話しましたが、彼は容姿に優れた快活な男性であり、また大変な酒豪で、死因も飲酒が原因の糖尿病ではなかったかと言われています。この道隆の血を引いた息子達を紹介しておきましょう。

『枕草子』に登場して道隆の子息として認められる人物には、道頼、伊周、隆家、隆円がいます。このうち長男の道頼は他の兄弟とは母親が異なり、祖父 兼家の養子となっていました。清少納言は彼について、「にほひやかなるかたはこの大納言にもまさりたまへる(つややかに美しい様子は大納言伊周にも優っていらっしゃる)」と記していますが、父譲りの美男子だったようです。姿かたちだけでなく性格も良かった道頼は、残念なことに父の死の2ヶ月後に25歳で亡くなりました。

次に、正妻 高階貴子を母として生まれ、道隆の後継者として育てられたのが伊周です。定子より3歳年上で、父の威光によって若くして内大臣にまで昇進しました。派手やかな衣装を纏った彼の見栄えのする姿が『枕草子』に描かれています。

平安時代の美男美女に対する感覚で現代とやや異なると考えられている点の一つに、太っていることに対する評価があります。清少納言は、貴人に仕える若い従者については、身のこなしの軽い細身の男性を評価し、あまり太っているのは眠たそうに見えると書いていますが、若き人(身分のある若い人)、乳幼児、そして受領などの年輩者は、太っている方がいいと言っています。高貴な身分の男は、ふくよかで貫禄のある方が位の重みを感じさせたのでしょう。

その点、道隆は関白の地位に相応しい美丈夫として認められていたのですが、息子の伊周の場合は、どうも太り方の度が過ぎていたようです。『大鏡』には、伊周が太っていたため、内裏の狭い通路に押しかけた下人たちを素早く除けられず、仕切の塀に押しつけられたまま身動きがとれなくなって無様な姿を晒したという記事が書かれています。

教養の面では、漢詩を朗詠する伊周の姿が『枕草子』に度々取り上げられ、漢詩の実作も残っていますので、母 貴子の漢学の素養が彼に影響を与えたと考えられます。大柄な身体も朗詠には向いていたのでしょう。

一方、政治的な資質については、父関白の威光と妹中宮の存在がありながら、叔父である道長との権力争いに完敗するわけですから、人の上に立つ器ではなかったと判断されます。伊周に左遷の宣命が下された際の状況について、『枕草子』は黙して語りません。しかし、『栄花物語』には、検非違使(けびいし)が連行に来ても、いつまでも母や妹と手を取り合って泣いている、往生際の悪い伊周が描かれています。また、母親の危篤を知り配流地を密かに抜け出して定子の邸で再逮捕されるなど、情に脆く、自らの行動を客観的に把握できない面があると考えざるをえません。『大鏡』に「嬰児のやうなる殿(幼子のような殿)」と酷評されているのも頷けます。それも若い頃から父の加護の下で甘やかされて育ったためではないでしょうか。伊周は定子とは仲のよい兄妹でしたが、妹の方が指導者としての資質は勝っていたのかもしれません。

筆者プロフィール

赤間恵都子 ( あかま・えつこ)

十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

『枕草子 日記的章段の研究』

編集部から

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。

著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。