クラウン独和辞典 ―編集こぼれ話―

72 かこつけて(1)―一葉と漱石の「橋」―

筆者:
2009年11月30日

樋口一葉に『十三夜』という短編小説がある。『たけくらべ』『にごりえ』に次ぐ佳作とされ、主情的ではあるが、社会変動の著しい明治中期の世相を連綿たる擬古文で書き残している。タイトルは、「中秋の名月」とならび賞玩される「後の月(十三夜)」、その片方だけ供え物をするのは片月見として忌む慣わしもあったそうな。因みに新暦ではあるが今年2009年10月は、中秋の名月と十三夜が同じ月の始めと終りにくる、かなり珍しい月でもあった。

さて話は、美しいが平凡な娘「お関」が、身分違いの高級官吏に偶然見初められ、躊躇つつも結局その「奥様」となり「お屋敷」暮らしをするようになりはした、ところが跡継ぎが産まれてからは手のひらをかえしたようなむごい夫の仕打ち、裏切りにいたたまれず、7年目の「後の月」の夜、しがない暮らしの父母の家に密かに逃げ帰るところから始まっている。「婚活」やら「肉食系」などという言葉がはやる今からいえば何とも消極的で一方的に弱い女性の立場のようだが、なにしろ「青鞜」以前、華族士族平民などと戸籍に記録された時代のことである。両親はむろん娘の「出世」を望外の幸せと喜んでいた。

とはいえ事情を詳しく聞くや、娘可愛さに母親は憤慨してまくしたてる。その言葉の中に「人橋たててやいやいと貰いたがる……」という文句があったのだ。それまでぼんやり活字をおっていた僕はおやっと思った。「人柱」とか(東西の)「掛橋」とかいう言葉には時々出くわすが、「人橋」というのは初めだったこと、それに、暫く前から気には掛かりながら追跡不調で放置していたドイツ語の表現を思い出したのである。

それは漱石が体調や精神的変調著しく新聞連載中に一度中断し、後に書き足した『行人』第4部「塵労」に出てくる文言で、いわく、「人から人へ掛け渡す橋はない(Keine Brücke führt von Mensch zu Mensch.)」。どうです、いかにもいかにもで、ちょっと気になる科白ではありませんか?

手元の古い版の注には「ドイツの諺」とあるが、K.F.W.Wanderの5巻本諺辞典をみても、Grimmその他2,3の辞典類をみても見当たらず、親友のハーバーマイアー君に聞いてもどこか地方の諺かもしれぬが自分は知らないという。漱石は弟子の小宮豊隆相手に独逸語に取り組んでいたし、Neue Rundschau なども覗いていたから、どこかで見つけ印象的に利用したのだろうから、あえて出典など問わずともいいようなものの、気になりだすと気になるもの、とりあえずインターネットで調べてみたら用例が4つ見つかった。といっても、そのうちの一つはローゼンツヴァイクの『救済の星(Der Stern der Hoffnung)』(1921) なる哲学書を引用する論文であるから、実質的には3例というべきだろう。

ローゼンツヴァイクは、知る人ぞ知る、ハイデガーと並ぶ現象学的実存(ないし先験)哲学の嚆矢ともみなされる存在で、その主著『救済の星』は英仏伊西など主要言語の翻訳はもちろん、最近は日本語の翻訳も出ているそうだ。ユダヤ系ドイツ人で大学の講壇を蹴ったせいもあってか、ハイデガーほど著名にはならなかったが、著作権問題は生じない没後70年を経て、フライブルク大学図書館が電子図書として公開している。僕もこれによって少し覗いてみたが、確かに上の文言が2度出てくる。しかし、文章は明晰なのだが、いかんせん門外漢にはチンプンカンプンだ。なんでも、神(Gott)と世界(Welt)と人間(Mensch)を互いに切り離せない三要素(Elemente)とみなし、論じ来たり論じ去って旧約聖書的な救済思想に至るらしいのだが、興味ある御仁は原文に当たるか翻訳書と格闘してほしい。僕はくじけかける途中で気づいてしまったのである、この書が世に出た頃(1921)には漱石はすでに泉下の人であったし、『行人』を書いたのは大正2(1913)年のことであったから、この文言の出典ではありえないことに。それに『グリトリ書簡集』(Gritli < Margrit Rosenstock-Huessy)と呼ばれる往復書簡集で、当のローゼンツヴァイクがこの文言を使いながら、「誰だかはっきりしないが、どこかに書いてあった」(1918.4.23)と言っているのである。

いま一つの用例はリヒァルト・フォスという人の『人二人(Zwei Menschen)』という長編小説にあった。主舞台は南チロル、激流アイザックでの救助をきっかけに愛し合うようになった若い男女貴族が、母親の信仰ゆえ男は聖職者に変身したため、永遠に結びつけない運命となる。「隔ての崖淵に二人は立つ。差し伸べる腕は空しく空を掴み、身にしみて知るはただ人間:男と女の大いなる悲劇である。人二人が一になることはできない、『人から人へ掛け渡す橋はない』ゆえに」、とまぁ『草枕』の画工風にさわりを訳してみたが、この作が世に出たのは1911年、当時40万部も売れたそうだから、何らかのきっかけで漱石の目にふれたかもしれない。といっても相当長い小説であるから全巻の半ばあたりに出てくるこの文言を直接そこから書き抜いたとも思えないのだが。日記・断片や書簡集にはヒントがみつからなかった。『行人』に出現する格言風ドイツ語(「孤独よ……」)の他の例は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』からの引用であることは明らかである。

お関の母親のいう「人橋」が、仲に人をたてて、の意味であることはいうまでもない。一葉の日記にはまたこんな歌もある。「たちまよふ 市(いち)のちまたの 塵のうちに つれなくすめる 月のかげ哉」。女ながらに戸主として、母と妹、そして己が身を養わんがため、悪戦苦闘する「晩年」、数えで23、満で21歳の頃の作である。

筆者プロフィール

『クラウン独和辞典第4版』編修委員 新井 皓士 ( あらい・ひろし)

放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

編集部から

『クラウン独和辞典』が刊行されました。

日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

(第4版刊行時に連載されたコラムです。現在は、第5版が発売されています。)