明解PISA大事典

第28回 「外交官に育てるような教育」のワケ フィンランドから日本へ

筆者:
2009年12月18日

前回、フィンランドの国語教育について「まるで国民全員を外交官に育てるような教育」と書いた。これは外交官の目で見た場合の正直な感想である。その時点では、このような教育が日本で必要かどうかなど考えもしなかった。「フィンランドでは、こういう教育が必要なんだろう」と思った程度のことである。

フィンランドを専門に担当してきた外交官の観点からして、「フィンランドでは、こういう教育が必要なんだろう」と考えたのには理由がある。

東西冷戦時代、フィンランドは東欧と西欧の狭間で苦難の歴史を歩んできた。国際紛争からの局外中立を志向しつつ、現実にはソ連と密接な関係を保たざるをえなかったあたりに、綱渡りのような外交戦術があったのだろうと推察される。なぜ「推察」しかできないのかというと、ソ連が存在したころ、フィンランドとソ連の間の重要なことは、両国の偉い人同士がクレムリンでゴニョゴニョ密談しただけで決まっていたらしいからだ。

このような背景があるため、フィンランド人というと「外交戦術に長けた、したたかな人々」というイメージがある。だから「まるで国民全員を外交官に育てるような教育」が必要なような気もする。ただ、現実にどうだったのかは、クレムリンをのぞくわけにもいかないので分からなかったのである。

このイメージが崩れたのは、1995年にEUに加盟したときだ。EU議会に出席したフィンランドの代表団はロクに発言することもできず、欧州各国から「フィンランド代表は何も発言せず、自分たちだけで『暗号』で会話していた」と揶揄されたのである。そこには「外交戦術に長けた、したたかな人々」というイメージのかけらもなかった。ただ、そのような弱点が白日のもとにさらされたからこそ、逆に「まるで国民全員を外交官に育てるような教育」が最近になって行なわれるようになったのではないかと考えたものである。

いずれにしても、外交官時代の私は、当初は「フィンランドだからこそ、こういう教育が必要なんだろう」としか考えていなかったのである。

ところが、これまでのような経緯からフィンランドにおいて教育の勉強を始めてみて、(ただの外交官にしてみれば)驚くべきことが分かってきた。世界のグローバル化が進みつつある昨今(90年代後半のことである)、どの国においても「まるで国民全員を外交官に育てるような教育」が必要だというのである。むかしは外国に出て活躍するような人だけが、そういう教育を受ければよかった。だが、いまは自国から外国に出るまでもなく、外国から自国へと人々がどんどん流入する時代なので、国民のだれもがそういう教育を受けなければならないというのである。多文化が共生していくためには、言語のチカラの「無限ループ」(第26回参照)を誰もが自覚しなければならないというのである。

この点に関しては、移民が数多く流入し、また欧州各国間でも人々の流動の激しいヨーロッパ特有の問題のようにも感じられる。だが、日本もグローバル化する世界の一員であり、また少子高齢化による労働人口の減少から外国人労働者を大量に導入する必要性も言われており、決して他人事ではないのである。

また「外国」という要素を除外したとしても、特に先進各国の成熟した社会においては、たとえばフィンランド人同士であっても価値観の共有が期待できなくなりつつある。価値観がばらけてしまって多様化し、フィンランド人同士であっても外国人とコミュニケーションを図るような感覚が必要であるというのだ。文化と歴史を共有する同士であっても、ある意味での「多文化共生」の感覚が必要であるというのだ。そのためにも「まるで国民全員を外交官に育てるような教育」が必要だというのである。

この点に関しては、日本でも徐々に実感されるようになってきた。もはや日本も、かつての高度成長期のように皆で心を一つにして一つの目標を目指すような社会ではなくなりつつある。明らかに価値観がばらけて多様化しつつある。

なるほど、これからの日本においても「まるで国民全員を外交官に育てるような教育」が必要なのだな――そう思いつつ、日本の教育に改めて接してみて、心底からびっくりした。少なくとも世紀の変わり目のあたりの日本の教育界では、そのような危機感はほとんど存在しなかったからである。

これはなんとかしなければならないな――そう思いたって、現在に至るのである。

筆者プロフィール

北川 達夫 ( きたがわ・たつお)

教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

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