日本語社会 のぞきキャラくり

第71回 キャラクタの「年」(4)

筆者:
2009年12月27日

ことばを発するキャラクタの「年」の最下域、『幼児』を紹介するうち、話題が「動詞+です」に移ってしまった。ま、よいではないか。前回に引き続き、動詞に「です」が付いている実例を見てみよう。

さとなお氏の『人生ピロピロ』(2005, 角川文庫)第1章では、「大阪と違って東京本社では、同僚が昼食に時間をかけない。誰も昼食に誘ってくれない」という氏のやるかたない思いが述べられている。ひとしきり憤懣が綴られた後に続くのは、読者から、という形をとった架空のツッコミの導入「え? だったらボクが誘えばいいじゃんって?」であり、そのツッコミに応えて、いや誘ったがダメだったと話は展開していく。「ある日、勇気をふるってお誘いしたですよ、若い部員を」という形で「動詞+です」が現れるのは、そのツッコミに対する抗弁というか報告の箇所である。心の古傷に触れるこの抗弁~報告は、「お誘いしましたよ」ではなく「お誘いしたですよ」で、ぎこちなく余裕なく行われる方がしっくりくると感じるのは私だけだろうか。

同書第4章にはさらに、氏が朝から6食か7食食べたところで先輩に洋食屋へ連れて行かれてビフカツを薦められ、「泣きながら喰ったです。イマイチのビフカツを」というくだりもある。余裕のない報告の形としては、やはり「喰いました」ではなく「喰ったです」でなければと思うのは私だけだろうか。

このような「動詞+です」を、最近になって生じたことばの乱れとして片付けてよいかどうかは、慎重な検討を要する。というのは、「動詞+です」は、実はかなり昔から見られるからである。

たとえば夏目漱石の『坑夫』(1908)では、東京の裕福な家を飛び出してきた世間知らずの若者が「働くです」「やるです」などと言っている。周旋屋にそそのかされて銅山の坑夫になろうとする際に、「坑夫になれば儲かる」と周旋屋があまりに強調するもので、儲かるということがなんだか恐ろしくなり、「僕はそんなに儲けなくっても、いいです。然し働く事は働くです。神聖な労働なら何でもやるです」と青臭い理屈を言う場面である。若者は、周旋屋に連れられてきた銅山でも、「金は儲からないしあなたには無理だ」と忠告してくれる飯場の頭に向かって、だまされてきたのではなく承知の上での坑夫志願だと虚勢を張って「そりゃ知ってるです、僕だって知ってるです」などと言っている。

また、北杜夫の『楡家の人びと』(1964)では、佐久間熊五郎という楡家の書生が楡家の子供たちに「欧州さんは相当の人物であるデスぞ」「この八八艦隊を作ろうとして、われわれがどんな苦労をしたですか」、さらに宴席で酒に酔って「ぼくは生まれながらに楡病院にいる気がするですぞ」「ところで諸君、今日から僕は楡姓になるですぞ」「なかなかやるですぞ、敵さんも」などと言っている。映画監督・山本晋也氏の「動詞+です」発話だって、広く知られているところだろう。

これらの「動詞+です」(少なくとも最近のもの)は、「格」や「年」の低い、つまり『幼児』にやや近い発話キャラクタの言い方として認められるかもしれない。が、「食べるでちゅ」「わかったでしゅ」ほど広く一般に認知されてはいない。「「でちゅ」「でしゅ」が「です」と比べて汎用性が高い」というのは、こうしたことを指している。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。