2010年 1月 のアーカイブ

採用情報

2010年 1月 31日 日曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部

下記の採用募集は締め切りました

三省堂ホームページの採用情報より転載いたします。

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正社員につきまして、下記のとおり採用募集を行っております。

【職 種】
【募集人員】
【応募資格】
【勤務地】
【待 遇】
【応募方法・選考日程】
【送付先】
【問い合わせ先】
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日本語社会 のぞきキャラくり 第75回 破綻キャラ(後)

2010年 1月 31日 日曜日 筆者: 定延 利之

破綻キャラ(後)

 いくら豪快に飲み歌っても、それが『豪傑』と思われようとしてのことだとわかれば、もはやその人は『豪傑』ではない。何を言い、何を行うにしても、「自分はこういう者(たとえば『豪傑』)だ」と表現しようとする意図がそこに読み取られてしまえば、もはやその人の言動(豪快な振る舞い)は、そういう者(『豪傑』)の言動としては破綻しており通用しない。ところが時として、その破綻含みで、複合的なキャラクタが成立することがある。これが破綻キャラだ、というところまで話は進んだ(第74回)。

 たとえば、『二枚目』を演じようとする表現意図が露わになってしまい、『二枚目』として破綻をきたした人物には、『キザ』という別のキャラクタが割り当てられる。『キザ』キャラとは、『二枚目』キャラを演じようと意図し、その意図ゆえに『二枚目』キャラとして破綻することによってできた破綻キャラである。

 またたとえば、『お嬢様』を演じよう、カワイコぶろうとして意図が見抜かれ破綻した場合、その人物は『ブリッ娘(こ)』という別のキャラで語られることになる。『ブリッ娘』とは『お嬢様』キャラが破綻してできた破綻キャラである。

 『ブリッ娘』といえば現代っぽいが、伝統的に『カマトト』と呼ばれてきたのも同じものである。この名前は「カマボコって、トト(魚)からできてるの?」とあどけなさを装うところから来ている。私たちは昔っから、こういうしらばっくれ合い、見抜き合いをやってきたのである。

 そして、前回から問題になっている『オカマ』もまた、『女』を演出する意図が露呈している点で一種の破綻キャラと言える。

 ここからは、別の疑問に対してすでに述べた回答(第73回)と変わらない。つまり、「発話キャラクタの「性」について『男』や『女』は論じられたが『オカマ』は論じられていない。観点が4つでは足りないのでは?」といった疑問は、「発話キャラクタ」を「キャラクタ」と同一視してしまっている。

 なるほど、「キャラクタ」を考える際には、『オカマ』は重要なキャラクタの一つ、破綻キャラの雄、いや雌とされるものだろう。だが、『オカマ』が『女』と大して変わらないしゃべり方をするのであれば、発話キャラクタの「性」としては『女』を認めておけばいい。

 もちろん、『オカマ』と『女』でしゃべり方が違っている部分はあるだろう。たとえば「あたしたちオカマは」という語の連なりは、『オカマ』が発することはしばしばあるかもしれないが、『女』はまず口にしない。しかし、こうした違いは「『オカマ』は『オカマ』だが、『女』は『オカマ』ではないから」という当たり前の常識で説明できることであって、特にことばの問題として重視すべきものとは思えない(第27回参照)。

 前回も述べたように、「品」「格」「性」「年」の4つの観点だけで発話キャラクタの全面がくまなく、十分にとらえられるとは、実は考えていない。主なところは見られるだろう、ぐらいの考えである。たとえば「あたしたちオカマは」としゃべる可能性に関する『オカマ』と『女』の違いといったものは、その「主なところ」には含まれず、見過ごされる。とりあえずはそれでいいのではないかというのが「4つの観点」を持ち出す真意である。

 なお付言すれば、日本語社会において、どのようなキャラクタの破綻に対しても破綻キャラが用意されているわけではない。たとえば、日本語が下手な『外人』のはずだったのが、実はそれを演じていただけで日本語や日本文化に通じているということがバレてきた外国人タレントの場合、この破綻を何々キャラと言い当てることはできない。そろそろそういう言葉ができてもいいかもしれない。

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◇この連載の中国語版と英語版
  中国語版⇒角色大世界――日本
  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

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【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。

地域語の経済と社会 第84回

2010年 1月 30日 土曜日 筆者: 山下 暁美

地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第84回「おいしい方言(静岡県)」

(画像はクリックで拡大します)
【写真1】
【写真1】「うめえら!」
【写真2】
【写真2】「ふんとにうみゃあぜ
 飲んでみにゃん」

 今回からしばらくは、方言みやげなどに登場する「おいしさ」にまつわる表現について、何回かに分けて紹介していきます(ただし、筆者が担当する回について)。まずは、静岡県伊豆半島で見つけた方言です。“しぞーか”弁(静岡を地元では、“しぞーか”と呼びます)です。

 「うめえら!」(おいしいだろう!)【写真1】の「ら」は、推量の助動詞で、共通語の「だろう」の意味です。静岡県伊豆地方だけでなく、愛知県渥美半島、岐阜県美濃、長野県中部地方などにも分布しています。伊豆地方では、「あそこにあるら」(あそこにあるだろう)、「あしたは、雪んふるらなー」(あしたは雪がふるだろう)のように「ら」を使います。

【写真3】【写真4】
(左)【写真3】「う宮(ウミャー)」
(右)【写真4】「チョックラ 飲んで
 みらっしぇ」

 「ふんとにうみゃあぜ 飲んでみにゃん」(ほんとにおいしいよ 飲んでみて)【写真2】の「ふんとに」は、「ほ」が「ふ」に置きかわって、「ほんとうに」という意味です。「ふんと、ふんと」などと、うなずきながら繰り返したりします。「うみゃあ」(おいしい)は、「う宮(ウミャー)」のように富士宮市でも用いられている例があります【写真3】。

 「チョックラ 飲んで みらっしぇ」【写真4】の「チョックラ」は、「ちょっと」の意味です。「ちょっくらちょいと」の形でゴロ合わせで使われることもあります。「ちょっと飲んでみなさいよ」といった意味です。

 写真4は、昼時の混みあうマリンセンターで見つけたのですが、インフルエンザの予防のためマスクをしていました。「飲んでみらっしぇ」というので、試飲するためには、マスクをはずさなければなりません。また、聞こえた方言はしっかり書きとめたり、録音しなければならないし、筆記用具、マスク、試飲用のコップ、カメラと手一杯の取材となりました。何事も「ちょっくら」とはいかないのです。

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【筆者プロフィール】

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
 井上史雄大橋敦夫田中宣廣日高貢一郎山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

『海外の日本語の新しい言語秩序―日系ブラジル・日系アメリカ人社会における日本語による敬意表現』『書き込み式でよくわかる 日本語教育文法講義ノート』山下暁美(やました・あけみ)
明海大学外国語学部・大学院応用言語学研究科教授。博士(学術)。
専門は、日本語教育学・社会言語学。研究テーマは、移民百年を迎えた、ブラジル、アメリカ合衆国などにおける日本語の変化、外国人の日本定住化による共生時代の日本語教育政策。
著書に『書き込み式でよくわかる日本語教育文法講義ノート』(共著、アルク)、『海外の日本語の新しい言語秩序』(単著、三元社)、『スキルアップ文章表現』(共著、おうふう)、『スキルアップ日本語表現』(単著、おうふう)、『解説日本語教育史年表(Excel 年表データ付)』(単著、国書刊行会)、『ふしぎびっくり語源博物館4 歴史・芸能・遊びのことば』(共著、ほるぷ出版)などがある。

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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。

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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

明解PISA大事典:クリティカルリーディングと知識

2010年 1月 29日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第31回 苦悩は続く――「知識」と「批判」の相克

 「知識を有すること」と「クリティカルに読むこと」の二者は本来は対立的なものではないのだが、指導においては意外にバランスをとるのが難しい。

 作者や作品の背景について何も知らぬまま、その作品についてクリティカルに論じたところでなんだか空しい。底の浅い議論にしかならない。だが、その「底の浅さ」を嫌って、まずは「きちんと読めること」を重視して精読を励行し、ついでに知識の注入も十分に図ろうとすると、クリティカルに読む時間がなくなってしまう。さらに、「きちんと読めもしないし、ロクに知識もないくせに、クリティカルに読むとはナマイキな」という感情的要素が加わると、いつまでたってもクリティカルに読むことは始まらない。どのくらいきちんと読めて、どのくらいの知識があれば、クリティカルに読んでもナマイキではなくなるのかが判然としないからだ。

 PISAが「知識を問うテスト」ではないことを売り物にしているのは、これまでに何度もふれてきたように学力観の転換を示すものである。とはいえ、当たり前のことではあるが、まったく知識ゼロの、さっき生まれてきた赤ン坊のような状態を想定しているのではなく、15歳の人間であれば当然有するであろう知識の存在は前提とされている。

 ただ、国際テストという性質上、その「当然有するであろう知識」の想定レベルは、どこの国の国内テストと比べても低いものに設定せざるをえない。同じ15歳であっても国が違えば、何についてどのくらい知っているかのレベルは大きく異なるからだ。特に読解力のように、それぞれの言語文化に依存する部分が大きく、数学や科学とは異なり国際的なきまりごとのほとんどない分野においては、「当然有するであろう知識」の想定レベルはどんどん下がっていく(1)

 フィンランドで教科書執筆者として有名なメルヴィ・バレさん(2)は「PISAの読解力の問題は悪くはないが、国語の問題としてのレベルは低いと思う」と述べている。「あの程度の問題なら、フィンランドだったら小学校4年生か5年生あたりを対象にすると丁度よいくらいではないか」というのである。

 なにやら傲慢な発言のようにも聞こえるが、PISAの発問形式はフィンランドのそれとほとんど同じであり、素材文を読み解くのに背景知識は必要ないとなれば、確かに小学生でも十分に対応可能であろう。逆に、PISAの発問形式と日本のそれは大きく異なり、素材文や発問のウラに思いを馳せなくてもよいとなると、日本では15歳の子どもはもちろんのこと、大人であっても戸惑ってしまうのは当然だろう。

 このような背景があるために、PISAの読解力の問題を「クリティカルに読む」授業のお手本にしてしまうと、いろいろと困難に直面することになる。前回もふれたように、「文中から根拠さえ挙げられれば、どれほど素頓狂な解釈をしてもいい。どれほど非常識な意見を言ってもかまわない」という方向に進んでしまうことさえある。PISAの読解力のように知識を極小化して、テキストから得られる情報のみを頼りにしてしまうと、なんだか空しく、底の浅い議論になってしまうのだ。

 では「知識を有すること」と「クリティカルに読むこと」のバランスは、どのようにとっていけばよいのだろうか? 次回は、この点について、フィンランド国語教育の解決策を紹介することにしよう。

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(1) とはいうものの、欧米の文化に関わることについては、少なくとも日本人からすると相当に高度な知識の存在を前提としているように感じられる。欧米寄りのグローバル・スタンダードという、経済外交ではありがちなことではあるが、とりあえずは「不公平だ」と主張し続けたほうがよいのではないか。この問題については第2回を参照⇒「第2回 PISAはグローバル・スタンダードなのか?」
(2) メルヴィ・バレさんについては第27回の注を参照⇒「第27回 フィンランド紀行7」の注へ

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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

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【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。金曜日に掲載しています。

人名用漢字の新字旧字:「玻」は常用平易か(第1回)

2010年 1月 28日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第51回 「玻」は常用平易か(第1回)

平成22年1月19日、常用漢字表の改定を審議していた文化審議会国語分科会漢字小委員会は、「玻」を新しい常用漢字表に追加するかどうかを議論しました。しかし、複数の委員から「固有名詞は常用漢字表にそぐわない」という意見が出ており、「玻」が常用漢字表に収録される可能性は、かなり低いようです。どうして漢字小委員会では、そのような意見が多数派なのでしょう。その背後に、いったいどういう事件が隠れているのでしょう。

実は、この背後には、現在、最高裁判所で争われている「玻」に関する家事審判があるのです。その家事審判の概要と、背景となる常用漢字と人名用漢字のねじれた関係を、全6回連載で書き記すことにいたします。

玻南ちゃん事件の発端

平成20年11月23日、名古屋市東区のとある夫婦のもとに、女の子が誕生しました。両親は、子供に「玻南」と名づけ、東区役所に出生届を提出しました。ところが、「玻」が常用漢字でも人名用漢字でもなかったため、出生届は受理されず、「玻南」ちゃんは無戸籍となりました。「玻南」ちゃんの両親は、「名未定」で出生届を提出するという方法を知らなかったため、「玻南」ちゃんを無戸籍のままにしてしまったのです。

家庭裁判所への不服申立という方法がある、と聞かされた両親は、平成20年12月10日、名古屋家庭裁判所に不服申立をおこないました。「玻」は、戸籍法第50条でいうところの常用平易な文字なので、「玻南」と名づけた出生届を受理するよう名古屋市東区長に命令してほしい、と申し立てたのです。

この不服申立に対し東区長は、「玻」は常用平易ではない、とする意見書を名古屋家庭裁判所に提出しました。真っ向から争う姿勢を見せたのです。常用平易かどうかの判断は、「曽」を子供の名づけに認めた最高裁判例(最高裁判所第三小法廷平成15年(許)第37号、平成15年12月25日決定)にもとづいておこなわれるべきだ、というのが東区長の主張でした。すなわち、古くから用いられている字で、ひらがなやカタカナの字源となっていて、当該漢字を構成要素とする常用漢字があって、地名などで広く使われている、という4条件が「曽」の判例で示されたのだから、この4条件にしたがって常用平易かどうか判断すべきだ、という主張でした。この主張にしたがえば、「玻」は常用平易ではない、という結論になるわけです。

平成21年1月26日、名古屋家庭裁判所は、不服申立を却下しました。名古屋家庭裁判所は、「玻」を常用平易とは認めなかったのです。認めなかった理由の一つが、ワープロ等で簡単に変換できないことでした。確かに「はな」をカナ漢字変換しても、通常「玻南」は候補に現れません。また、「は」一文字を変換して「玻」が候補に現れるようになるには、かなり手間がかかる、というのです。熟語としての用例も「玻璃」くらいしかなく、とても常用平易とは言いがたい、と判断したのです。

(第2回「玻南ちゃん事件の即時抗告審」につづく)


【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。

国語辞典入門:旧仮名遣いがわかる辞典

2010年 1月 27日 水曜日 筆者: 飯間 浩明

第3回 初めて買った国語辞典

 私が初めて自分の国語辞典を買ったのは、中学1年の秋のことでした。『旺文社国語辞典』がそれです。

 間の悪いことには、その翌年(1981年)に「常用漢字表」が告示され、たとえば「螢」は「蛍」と書くことになりました。せっかく買った国語辞典がとたんに古くなってしまいました。私は、やむをえず新版の辞書を買い直しましたが、それもまた『旺文社』でした。

 ずっと父の実用辞典を使っていた私が『旺文社』の愛用者になったのには、その年ごろならではの理由がありました。

 中学入学を境に、私の読書欲は爆発的に高まりました。子ども向けの前向きで健全な文学作品以外に、世の中には、後ろ向きで、不健全で、皮肉で、非常識な文学作品の多いことを知り、のめりこんでいきました。もっとも、主に読んでいたのは星新一、北杜夫、遠藤周作、そして夏目漱石といった人々の作品で、さほど過激なものではありません。

 そうした一般の文学作品には、当然のことながら、国語の教科書に見られない表記やことば遣いがたくさん出てきます。

 なかでも驚いたのは、丸谷才一さんのように、旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)で文章を書く人がいたことです。私たちなら「三時間くらい飲んだんじゃないか」と書くところを、〈三時間くらゐ飲んだんぢやないか〉(『横しぐれ』)と書くのです。

 戦前までは「思う」を「思ふ」、「いる」を「ゐる」と書いたということは、国語の時間に習いましたが、その方式を現代の文章に及ぼすのは新鮮でした。何より、「現代仮名遣い」「常用漢字表」という公のルールに真っ向から逆らう姿勢が痛快でした。

 自分も旧仮名遣いを覚えたい――と、中学生の私は思いました。そして、実際に、担任の先生に提出する毎日の生活記録を旧仮名で書くようになりました。

 〈本を読んでゐたらむづかしい横文字がでて来たので辞書でひいたら……〉

 といった具合です。旧仮名遣いは実用辞典には載っていないため、どうしても国語辞典が必要になります。つまり、かなり特殊なケースかもしれませんが、私が『旺文社』を選んだ理由には、正確な旧仮名遣いを知るためということがありました。

国語辞典での旧仮名遣いの扱い方

 旧仮名遣いの扱い方は、辞書によって異なります。今述べたように、実用辞典では旧仮名をいちいち書き添えることはしません。学習用の国語辞典も同じです。

 これは、現代では、旧仮名遣いが目に触れることはあっても、自分で書くことはまずないという理由によるのでしょう。「思ふ」という表記を目にしても、それを「オモウ」と読めなければ、そもそも国語辞典は引けないし、また、読める以上は、「おもう」の項目を引けばいいので、辞書に旧仮名を添える意味はなくなります。

 ただ、今の人でも、旧仮名遣いで書くことは皆無ではありません。たとえば、短歌や俳句をたしなむ人はおおぜいいます。短歌も俳句も旧仮名で書くものです。国語辞典の多くは、こうした特別の場合に備えて、旧仮名を示しているわけです。

 ここでさらに、国語辞典の対応は二手に分かれます。

 1 「思う」に「おもふ」と旧仮名を添え、「思考」には何も添えない。
 2 「思う」に「おもふ」と旧仮名を添え、「思考」にも「しかう」と旧仮名を添える。

 1と2の違いは、和語だけに旧仮名を添えるか、それとも、和語と漢語の両方に旧仮名を添えるかという違いです。

 「思う」「舞う」「病(やまい)」などのことばは、古来の日本の固有語で、和語と言います。一方、「思考」「舞踏」「病気」などのことばは、古く中国から伝わった漢字を音読みするもので、漢語と言います。

 このうち、短歌や俳句で仮名を交ぜて書くのはもっぱら和語のほうです。「思ひつつ」「舞ひにけり」「やまひの床」などと書きます。一方、漢語のほうは、仮名で書けば「しかう」「ぶたふ」「びやうき」となりますが、ふつうは漢字に隠れて表に出てきません。

 そこで、同じ旧仮名遣いでも、和語の場合だけ示しておけば十分だと考える国語辞典と、いや、ほとんど必要はなくても、漢語の仮名遣い(字音仮名遣い)も添えておこうと考える国語辞典が出てきます。後者のひとつが『旺文社』でした。「旧仮名遣いを極める」という特殊かもしれない目的を持っていた私にとっては、頼りになる参考書でした。

 もっとも、中学生のころの私が『旺文社』を選んだのは、仮名遣いだけが理由ではありませんでした。むしろ、もうひとつの理由のほうが大きかったかもしれません。

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◆飯間先生のもう一つの連載は⇒「『三省堂国語辞典』のすすめ」目次へ

◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」

筆者プロフィール

【飯間先生の新刊『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』】飯間浩明(いいま・ひろあき)
 早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
 早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)

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【編集部から】
これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(19)

2010年 1月 26日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(19) 藤原斉信(ただのぶ)の登場

 長徳元年夏以降の『枕草子』の章段には、華やかな衣装を纏(まと)ってこれまで登場していた中関白家一族の姿がすっかり消えてしまいました。その代わりに登場してくる人物が藤原斉信です。斉信は道隆の従弟にあたります。かつて斉信の妹は花山帝女御でした。しかし、妹妃が亡くなり花山帝が退位して、外戚として出世する道が途絶えて後は権力者に追従し、道長の配下になっていきます。出世欲が強く、昇進争いに勝って人の恨みをかった逸話が多く残っている人物です。

 そんな斉信が、『枕草子』には、中関白家以外の男性貴族の中で最もたくさん登場しているのです。それはなぜなのでしょうか。斉信は正暦五年に蔵人頭になりました。蔵人は天皇の側近として働く役職です。当然、中宮方に出向く機会も多くなります。そのような必然的な理由の他に、喪中ですっかり色を失った定子周辺に彼を登場させることによって、作品内に華やかさを取り込むためだったとも考えられます。

 斉信の姉妹にあたる為光の娘たちは、花山天皇の后になって寵愛を受け、御子を宿したまま亡くなった同母妹の忯子(よしこ)の他、三女、四女とも美女だったということですから、斉信も容姿は悪くなかったでしょう。『枕草子』に華麗に登場する斉信は朗詠も得意で、清少納言をはじめ後宮女房たちはこぞって彼を称讃しています。それは、正暦期に登場していた伊周の描写とそっくりです。

 定子後宮が服喪期間に入って描くべき対象がなくなったとき、その人物の実体はともかく、外見的に華やかな斉信を描くことが、作者が選んだ『枕草子』執筆継続の応急措置だったのではないでしょうか。加えて、世の趨勢(すうせい)に敏感な斉信が出入りする後宮をアピールしようという意図もあったかもしれません。

 斉信が『枕草子』に初めて登場するのは長徳元年二月末、あらぬ噂を真に受けて清少納言を誤解し、一方的に絶交している状況で始まる章段です。清少納言の方では彼女らしく、言い訳などしないで無視していたのですが、そんな状況に耐えられなくなった斉信からある日、文が届けられます。自分のことを嫌っているはずなのに、いったい何が書かれているのか。どきどきしながら文を開けた清少納言の目に入ったのは次の白楽天の漢詩の一句でした。

「蘭省ノ花ノ時、錦帳ノ下(あなたは宮殿で、花の季節、皇帝の錦帳の下に伺候し栄えている)」

 定子に見せようと思っても、ちょうど天皇がいらっしゃって就寝中です。使者は返事を急(せ)かします。さあ、困った、ここからが清少納言の才知の見せ所です。斉信から問われた漢詩の続きは、以下の句になります。

「廬山ノ雨ノ夜、草庵ノ中(私は廬山で、雨の夜、草庵の中に一人わびしく暮らしている)」

 もちろん即答できますが、女だてらに漢字を書くのは体裁がよくありません。そこで、漢詩の意味を和歌に置き替え、当代きっての教養人藤原公任が使った連歌の下句「草の庵(いほり)を誰かたづねむ」を拝借しました。用紙は届けられた紙の余白を使い、筆の替わりに消え炭を用いて筆跡をごまかします。清少納言の返事は相手に評価の糸口を与えないばかりか、反対に連歌の上句を要求するものになっているのです。

 清少納言の返事を見た斉信は「おお」と思わず声をあげ、「いみじき盗人を。なほえこそ思ひ捨つまじけれ。(とんでもない泥棒だよ。やっぱり無視できそうもないな)」と言って、それまでの清少納言に対する考えを改めました。それが殿上で評判となり、清少納言に「草の庵」というあだ名が付けられたという逸話です。

 この章段以降の約一年間、斉信と清少納言の交流が『枕草子』に描かれていくのですが、二人の駆け引きは、背後に流れる歴史的事件を考えて見ていくと微妙なニュアンスが読みとれるように思われます。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

「独和」辞典と「独日」辞典

2010年 1月 25日 月曜日 筆者: 信岡 資生

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(77)

竹風こと登張信一郎はその著『大獨日辭典』の冒頭で、『本書は「大獨日辭典」と申します。多年の通稱となってゐた「獨和」の「和」の一字は、外交其の他に於いて、夙に廢語となってゐるもので、凡て現代語を以って譯述しようとする本書題名には、最もふさはしくありません。況んや「日本」はどこまでも「日本」であるに於いてをやであります。敢て從來の因襲を破って、「大獨日辭典」と稱する所以であります。』と記している。「和」は、中国で日本を指す「倭」に代えて用いられる字で、明治中期に刊行された大槻文彦著『言海』(六合館 明治22)では、『日本國ノ一稱、多クハ外國ニ對シテ種種ノ物事ニ添ヘテイフ。「―漢」「―文」「―譯」「―書」「―本」「―産」「―製」「―船」「―藥」』と解説されている。因みに「和」は漢和辞典でノギヘンではなく、クチヘンの部にある。

明治以来ドイツ語に限らず、英和、仏和、露和、西和などというように、外国語辞典の名称では日本語を「和」で表している(中国語辞典だけ「中日」というのは「漢和」辞典と区別するためであろう)。これは(私の推測では)ドイツ語単語を和訳したとの意味が元であろうと思われる。明治初期に『和譯獨逸辭典』(東京春風社合著 明治5)や「和譯獨逸辭書』(京都村上勘兵衛出版 明治5-6)があるように、英語でも最初の英和は『英和對譯袖珍辭書』(洋書調所 文久2)であった。また、同じ「わ」でも「龢」の字を使用した『挿入圖畫獨龢字典大全』(国文社 明治18)もある。竹風先生ご自身も同じ大倉書店から、先に『新式獨和大辭典』(明治45)、『新譯獨和辭典』(大正4)や『新和獨辭典』(共著 明治34)を著していらっしゃる。

明治以降外交面ではもっぱら「日」が使用された(日清・日露戦役、日英同盟、日米通商航海条約、日韓議定書など)。だが、「和」が廃語となっているというのは言い過ぎであろう。和服、和菓子、和風など、「和」は「洋」の対語として今日でも一般に使われている。はたして竹風先生の力説に乗る辞典は多くない。例えば『日英對照獨逸語標準單語辭典』(日獨書院 昭和6)、『日独口語辞典』(早川東三ほか著 朝日出版社 1985)、『日・英・独語辞典』(ジャパン・タイムズ編集局編 原書房 昭和47)、『デイリー 日独英・独日英辞典』(渡辺学監修 三省堂 2004)などが挙げられるが、守備範囲が狭まるようである。医学にも『日獨・獨日慣用醫語辭典』(鳳鳴堂編輯部編 昭和14)、『医学ドイツ語小辞典(独―日・日―独)』(清水・松室編 大学書林 昭和34)、『日英独医学小辞典』(藤田拓男編 南山堂 1972)などがある。これらの例のように3カ国語以上にまたがる場合「日」が使用される傾向が強い。『日独英仏対照スポーツ科学辞典』(大修館書店 1993)、『日仏英独製菓用語対訳辞典』(吉田菊次郎著 イマージュ(三洋出版貿易)1992)、『日英仏独対照服飾辞典』(石山彰編 ダヴィッド社 昭和47)等等で、語学辞書の範疇からは離れていく。


【筆者プロフィール】
信岡資生(のぶおか・よりお)
成城大学名誉教授
専門は独和・和独辞典史   
『クラウン独和辞典 第4版』編修主幹


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

日本語社会 のぞきキャラくり 第74回 破綻キャラ(前)

2010年 1月 24日 日曜日 筆者: 定延 利之

破綻キャラ(前)

 発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べ(第57回~第72回)、さらに「観点が4つでは足りないのでは?」という、予想される疑問に答えた(前回)。だが、「観点が4つでは足りないのでは?」という疑問は、前回とは違った意味合いで発せられることもあるだろう。つまり、たとえば「「性」について『男』や『女』は論じられたが『オカマ』は論じられていない。これでいいのか?」といった疑問である。ここではまず、私が「破綻キャラ」と呼ぶものから説明していこう。

 そもそもキャラクタというものが、遊びの文脈を別とすれば表現意図とはなじまないということは、いくら強調してもしすぎることはない。たとえば、人から『豪傑』キャラと思われたいなら、山本周五郎の『豪傑ばやり』(1940)に出てくる「ニセ夏目図書」のように、やることなすことは周到に豪快を極めながら、それを演出する意図はみじんも気取られてはならない。(周五郎先生、ネタばれすみません。)

 事実、図書がこの屋敷へ来てからの挙措言動は豪快を極めていた。朝起きるとからの酒で、言葉通りでん(「でん」に傍点)と腰を据えたまま浴びるように飲む。酔えば調子も節も度外れな声で放歌する、よく聞いていると、
 ――ああ やんれさの やんれさの ああやんれさの やんれさの やんれさの。
 何処(どこ)まで行っても同じ言の羅列(られつ)なのだが、文句などに拘(こだ)わらぬところが実に壮絶で、なるほど豪傑というものは末節に関(かか)わらぬものだという気がする。
 ――ああやんれさの やんれさの なんだおまえたち、なにをきょろきょろしちょる。腹だ、腹だ、腹を据えて飲め。豪傑たる者が小さなことにくよくよするなッち、おまえらの事はこの夏目図書が引き受けたぞ、さあ歌え、やんれさの ああやんれさの やんれさの。
 ざっとこういう次第である。

[山本周五郎『豪傑ばやり』(1940)]

 「これだけ飲んで歌ったから、私のことを『豪傑』だと思ってくれるよね」などと表現意図をひとこと漏らすだけで、『豪傑』キャラのイメージは木っ端みじんになってしまう。このことはこの連載の開始直後から(第3回)、ずっと述べてきたことである。

 さて、或る人物が或るキャラクタを密かに演じている際に、その意図が他人に探知されてしまったとする。あ~あ、である。この場合、その人物は、もはやそのキャラクタとしては破綻しており通用しない。

 だが時として、その破綻によって、その目標キャラではない、別の複合的なキャラクタが成立することがある。これが私の言う破綻キャラである。(つづく)

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◇この連載の中国語版と英語版
  中国語版⇒角色大世界――日本
  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

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【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。

地域語の経済と社会 第83回

2010年 1月 23日 土曜日 筆者: 日高 貢一郎

地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第83回 NHK宮崎放送局の「いっちゃがTV」

 全国各地の放送局には、地元の方言を活かしたユニークで個性的な番組があります。

 NHK宮崎放送局には、平日夕方の地域情報番組「いっちゃがTV(テレビ)」があり、番組名が方言で名付けられています。

【「いっちゃがTV」の番組タイトル】
【写真1】「いっちゃがTV」の番組タイトル

 平成12年4月から放送されており、まもなく丸10年。県内各地の多様で多彩な情報が得られると好評を博しています。(総合テレビ、月~金、午後5:05~6:00放送 )

 「いっちゃが」とは〔いいんだよ〕という意味あいの語で、「いい」+「と」+「じゃ」+「が」の変化したものです。共通語の「良い+の+だ+よ」に相当します。

 メインキャスターは宮崎市出身の百野 文(ひゃくの・あや)さんで、彼女が番組内で使うことばは基本的には共通語ですが、相手や状況に応じて、宮崎の方言も交えて話せるのが強みです。明るいキャラクターとも相まって、番組発足以来、キャスターを続けて、番組を支えています。

 「宮崎県民を愛し、宮崎県民に愛される番組をめざす」というのがこの番組のねらいで、毎回その話題にゆかりの人たちが生放送のスタジオに……。毎年、800人から1000人近い人がこの番組に登場するということです。

 番組で取り上げている代表的なトピックとしては、宮崎の旬の食材、話題の人物インタビュー、大学・商店街めぐり、中学校紹介、町おこしの話題、手芸・園芸講座、ライブ演奏、カルチャー情報、医療情報、県内各地のイベント紹介……などがあり、バラエティーに富んでいます。

 「方言」関係では、月に3回、水曜日には「宮崎弁研究所」というコーナーがあり、西都市出身の寺原重次さん(宮崎県語り部の会会長)が宮崎方言の魅力や意味・用法などについて解説をしています。

【「宮崎弁研究所」の一場面】
【写真2】「宮崎弁研究所」の一場面

 またその研究員で、劇団「いもがら」の役者、中所美紀(なかじょ・みき)さん(日南市出身)が宮崎方言を駆使して「げなラップ」を作り、振り付けも考えて、保育園・幼稚園の子供たちから、友人どうし、家族そろって、職場のメンバーなど、番組でいっしょに踊るグループを募集し、画面で紹介しています。

 「げな」はひとから聞いたこと=伝聞を表す〔~だそうだ〕という意味です。

 また、第1~3木曜日放送の「てげてげ休日」というコーナーは、暮らしを豊かにする趣味や実用に関するノウハウを紹介しています。

 「てげてげ」は第78回で取り上げた「てげてげ運転」と同様です。「あくせくせずに、のんびりほどほどに、楽しく休日を過ごしましょうよ」という提案と呼びかけの意味あいが込められています。

 以上のように、番組名や各コーナーに方言でネーミングをし、また話題としても方言を取り上げることによって、地元の視聴者によりいっそう身近に感じ、親しみを持ってもらおうという意図が伝わってきます。

《参考》NHK宮崎放送局のホームページに「いっちゃがTV」の概要が写真入りで紹介されています。中所さんが踊っている「げなラップ」の動画も見ることができます。
写真提供:NHK宮崎放送局

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【筆者プロフィール】

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
 井上史雄大橋敦夫田中宣廣日高貢一郎山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

日高貢一郎(ひだか・こういちろう)
 大分大学 教育福祉科学部 教授(国語学・方言学) 宮崎県出身。これまであまり他の研究者が取り上げなかったような分野やテーマを開拓したいと、“すき間産業のフロンティア”をめざす。「マスコミにおける方言の実態」(1986)、「宮崎県における方言グッズ」(1991)、「「~されてください」考」(1996)、「方言の有効活用」(1996)、「医療・福祉と方言学」(2002)、「方言によるネーミング」(2005)、「福祉社会と方言の役割」(2007)など。

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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。

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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

明解PISA大事典:学習者中心型指導法の欠陥

2010年 1月 22日 金曜日 筆者: 北川 達夫

第30回 実践適用の難しさ

 前回、フィンランドの「喚起・共有・探求」型授業について紹介した。OECDのPISAの関係の偉い人たちは、このような授業形態を「学習者中心型」ということで推奨している。だが、これをこのまま「型どおり」踏襲すると、致命的な欠陥のある指導法になってしまう。

 当たり前のことであるが、「学習者」がまったく知らない事がらについては、この指導法はまったく機能しない。まずは何らかの手段で基礎知識を注入するしかないだろう。また、ちょっと別の問題ではあるが、この指導法は学習者に意欲と関心がなければ、まるで機能しない。意欲と関心を持たせるのが指導者の役目と言ってしまえば、それまでのことではあるのだが……。

 指導法そのものにも、このままでは機能しえない欠陥がある。基本的な発問は「学習者が何を知っているか?」「学習者が何を知りたいか?」「学習者が何を調べたか?」であるが、このように並べてみると明らかなように、最初から最後まで「学習者」の視点しか存在しないからだ。指導者がうまく誘導するか、適当に知識を注入するかしないと、学習者は知識を体系的に身につけることができない。その意味では、同じく前回紹介した、説明文の指導事例のほうが「型」としては現実的である。説明文が基礎的な知識を体系的に注入する役割を果たしてくれるからだ。ただ、それでも指導者がうまく誘導しないと、学習者は自分の枠の中でしか知識と向き合えなくなってしまう。

 知識基盤社会においては学習者中心型の学びが必要なのだろうが、何もかも学習者に丸投げしてはマズいのである。もちろん、その程度のことは職業的な指導者であれば重々承知しているのだろうが、フィンランドでも承知していない職業的な指導者がたまに存在するので注意を要するのである。

 第12回第13回で述べたように、これからの時代は知識基盤社会であり、内部情報(自分の知っていること)と外部情報(他者の知っていること)の統合による「創造的問題解決」の能力が必要とされる。内部情報と外部情報を統合しなければならないのだから、創造的問題解決においても内部情報、つまり自分が持っている知識の質と量は重要である。ところが、PISAの「知識を問うテスト」ではないという売り文句のためか、いわゆる「PISA型の授業」というと、「絶対に知識注入という要素があってはならない」という印象があるようだ。また、いわゆる「PISA型読解力」というと、「文中から根拠さえ挙げられれば、どれほど素頓狂な解釈をしてもいい。どれほど非常識な意見を言ってもかまわない」という印象があるようだ。公開されたPISAのサンプル問題が、その印象をさらに強める効果を発揮していることも否めない。

 当初のPISAショックもフィンランド崇拝も薄らいできた昨今、「PISA的なもの」に対するアレルギーというか拒絶反応が強まってきたように感じられる。

 さて、どうしたものか。次回以降に考えることにしよう。

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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。

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【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。金曜日に掲載しています。

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