人名用漢字の新字旧字

第51回 「玻」は常用平易か(第1回)

筆者:
2010年1月28日

平成22年1月19日、常用漢字表の改定を審議していた文化審議会国語分科会漢字小委員会は、「玻」を新しい常用漢字表に追加するかどうかを議論しました。しかし、複数の委員から「固有名詞は常用漢字表にそぐわない」という意見が出ており、「玻」が常用漢字表に収録される可能性は、かなり低いようです。どうして漢字小委員会では、そのような意見が多数派なのでしょう。その背後に、いったいどういう事件が隠れているのでしょう。

実は、この背後には、現在、最高裁判所で争われている「玻」に関する家事審判があるのです。その家事審判の概要と、背景となる常用漢字と人名用漢字のねじれた関係を、全6回連載で書き記すことにいたします。

玻南ちゃん事件の発端

平成20年11月23日、名古屋市東区のとある夫婦のもとに、女の子が誕生しました。両親は、子供に「玻南」と名づけ、東区役所に出生届を提出しました。ところが、「玻」が常用漢字でも人名用漢字でもなかったため、出生届は受理されず、「玻南」ちゃんは無戸籍となりました。「玻南」ちゃんの両親は、「名未定」で出生届を提出するという方法を知らなかったため、「玻南」ちゃんを無戸籍のままにしてしまったのです。

家庭裁判所への不服申立という方法がある、と聞かされた両親は、平成20年12月10日、名古屋家庭裁判所に不服申立をおこないました。「玻」は、戸籍法第50条でいうところの常用平易な文字なので、「玻南」と名づけた出生届を受理するよう名古屋市東区長に命令してほしい、と申し立てたのです。

この不服申立に対し東区長は、「玻」は常用平易ではない、とする意見書を名古屋家庭裁判所に提出しました。真っ向から争う姿勢を見せたのです。常用平易かどうかの判断は、「曽」を子供の名づけに認めた最高裁判例(最高裁判所第三小法廷平成15年(許)第37号、平成15年12月25日決定)にもとづいておこなわれるべきだ、というのが東区長の主張でした。すなわち、古くから用いられている字で、ひらがなやカタカナの字源となっていて、当該漢字を構成要素とする常用漢字があって、地名などで広く使われている、という4条件が「曽」の判例で示されたのだから、この4条件にしたがって常用平易かどうか判断すべきだ、という主張でした。この主張にしたがえば、「玻」は常用平易ではない、という結論になるわけです。

平成21年1月26日、名古屋家庭裁判所は、不服申立を却下しました。名古屋家庭裁判所は、「玻」を常用平易とは認めなかったのです。認めなかった理由の一つが、ワープロ等で簡単に変換できないことでした。確かに「はな」をカナ漢字変換しても、通常「玻南」は候補に現れません。また、「は」一文字を変換して「玻」が候補に現れるようになるには、かなり手間がかかる、というのです。熟語としての用例も「玻璃」くらいしかなく、とても常用平易とは言いがたい、と判断したのです。

(第2回「玻南ちゃん事件の即時抗告審」につづく)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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