2010年 3月 のアーカイブ
《特集》辞書引き学習・辞書指導
2010年 3月 31日 水曜日 筆者: ogmこのサイト内の「辞書引き学習」や辞書指導に関する記事を集めました。
「辞書引き学習」とは?
「辞書引き学習」に関する記事

- インタビュー「辞書引き学習」の深谷圭助先生《前編》
「辞書引き学習」を始めたきっかけ
辞書を自分のものにしていく子どもたち
付箋を活用するメリット
1冊目の辞書が付箋でいっぱいになったら… - インタビュー「辞書引き学習」の深谷圭助先生《後編》
辞書や資料はさまざまなものを
さまざまな知への入り口となる辞書
自らの道を切り拓いていく子どもたちに
子どものころは、まず、紙の辞書を
大人にとっても辞書は良きパートナー - 「辞書引き学習」の立命館小訪問記1
- 「辞書引き学習」の立命館小訪問記2
- 「辞書引き学習」訪問記:千葉・水の江小
- 「辞書引き学習」体験会の情報
- 「辞書引き学習」体験会のもよう(動画)
- 深谷圭助先生に関する情報
辞書と教育に関する記事
三省堂の小学生向け辞典に関する情報
国語辞典入門:小学生用国語辞典 大人用との違い
2010年 3月 31日 水曜日 筆者: 飯間 浩明第12回 さきがけとなった『三省堂小学国語辞典』
今や国語辞典の売り上げを牽引する勢いの学習国語辞典(学習辞典)ですが、これらのさきがけとなったのはどんな辞書だったのか、まず触れておきます。
小学生用の本格的な学習辞典は、1959年の『三省堂小学国語辞典』に始まります。それ以前にも皆無ではなかったものの、〈おとなの辞典の焼き直しとも思われるものが少なくありません〉(同書冒頭)という状況だったようです。
『三省堂小学』の初版は、体裁は今の学習辞典とそう変わりませんが、紙がやや厚く、収録語数は1万7000語しかありませんでした。今の学習辞典の半分ほどです。それでも、そのユニークさは、今の目から見ても著しいものがあります。
一番の特色は、一般向けの国語辞典に載っていなくても、日常よく見聞きすることばは、積極的に載せているところです。たとえば、「それもそうだ」「それもそのはず」などという項目が『三省堂小学』にはありました。よく使う言い回しなのに、一般の多くの辞書にはいまだに載っていません。辞書の作り手にとっても、学ぶところの多い辞書です。
当然のことながら、この辞書は、後に続く学習辞典に大きな影響を与えました。その様子は、現在の学習辞典の項目からもうかがい知ることができます。
たとえば、現在の学習辞典には、「言い合わせたように」という項目が載っています。「言い合わせたように、みんなが反対した」などと用いる言い回しです。この項目は、私が見たところ、6種の学習辞典に採用されていますが、一般の国語辞典にはまず見当たりません(「言い合わせる」ならあります)。いわば、学習辞典特有の項目です。
不思議な感じがします。「言い合わせたように」は、今ではやや古さの感じられる表現です。用例の数で言えば、むしろ「申し合わせたように」などのほうが、ずっと多いのです。教科書にも「言い合わせたように」は出てきません。したがって、現代の辞書を編集する時、項目として選ばれる優先順位は高くないはずです。
そんなことばが、多くの学習辞典に出てくるのはなぜか、と追究していくと、『三省堂小学』の影響力に行き着きます。同書には「言い合わせたように」があります。現在に至るまでの学習辞典は、その項目を大いに参考にしているものと考えられます。
前例踏襲、横並び意識はないか
もうひとつ例を挙げます。「素知らぬ顔」という言い方は、一般向けの辞書では、「素知らぬ」の用例として示されます。ところが、学習辞典では、「素知らぬ顔」で1つの項目としているものが7種あります。子どもになじみ深い言い方だからとも言えますが、「素知らぬふり」などもあるので、「素知らぬ」という項目を立てたほうがいいはずです。
そこで、『三省堂小学』を見ると、「素知らぬ顔」の項目があります。ここでもまた、後続の辞書がこの項目を参考にしたことがうかがわれます。
このような例から、『三省堂小学』がいかにリスペクト(尊敬)されているかが分かります。もっとも、『三省堂小学』そのものがリスペクトされているのか、それとも、それを参照した辞書がさらに別の辞書に参照されているのかは、微妙なところです。
ここで目を転じて、現代の学習辞典同士を比べてみると、ある辞書の内容を、他の辞書が取り入れているとみられる例は、ときどきあります。たとえば、出版社の異なるA辞典とB辞典の「現在」という項目を比べると、よく似ています(書式を改めて示します)。
〈1 今。「兄は、―旅行中です」2 その時。「二時―の気温は三〇度です」〉(A辞典)
〈1 今。「父は―旅行中です」2 (時を表すことばのあとにつけて)その時。「午後二時―の気温は十度です」〉(B辞典)
例文までがほとんど同じです。偶然には起こりにくいことであり、一方が他方を参考にしたものと考えられます。だとしても、例文の細部までを参考にする必要はないはずですから、むしろ、無批判な引き写しと見られてもやむをえないでしょう。
複数の辞書の記述が似通っている場合、どちらが先に記したかは、前の版や、前身の辞書にまでさかのぼらなければ分かりません。不用意な断定は控えるべきです。ただ、辞書によっては、気になる記述の目立つものがあるというのが、私の正直な感想です。
『三省堂小学』以来、学習辞典は、先行辞書のすぐれた点を取り入れたり、それまでにない点をつけ加えたりして、進歩してきました。一方で、安易な前例踏襲や、「ほかの辞書もそうだから」という横並び意識の入りこんだ部分はないか――というのは疑いすぎでしょうか。ほかの辞書はどうあれ、自分はこうする、という気概が、『三省堂小学』にはありました。この気概は、辞書作りの上で忘れてはならないと、自戒をこめて思います。
◆連載を続けてお読みになる方は⇒「国語辞典入門」アーカイブ
◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「国語辞典入門」目次へ
◆飯間先生のもう一つの連載は⇒「『三省堂国語辞典』のすすめ」目次へ
◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」
筆者プロフィール
飯間浩明(いいま・ひろあき)
早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)
【編集部から】
これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。
ドイツのお菓子(9)―ワッフル(4)
2010年 3月 29日 月曜日 筆者: 石井 正人クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(85)
Waffelの話は今回で終えたいと思う。Karlsbad「カールスバート」名物のOblateに特別の思い出があったので、つい長く書いてしまった。
第2次大戦後旧ドイツ領を追われた多くの難民がドイツに戻ってきた。比較的経済的に安定していたせいか、難民はよく南西ドイツのシュヴァーベン地方に住み着いたと聞いている。シュヴァーベン地方に留学していた筆者をよくかわいがってくれた、友人の母親がやはりそうで、実家はdie Sudeten「ズデーテン地方」から逃れてきたのであった。カールスバートこそ、このズデーテン地方の中心地だった。
こんなものを見つけたと言って、ある日息子と、息子の友人である私たち夫婦の前に、いかにも古くさい印刷の薄いボール箱を置いた。まだあったのね、昔のままよ、と言って見せてくれたそれが、カールスバートのOblateだった。当時まだ東西対立の最後の頃で、東側のチェコで作られたものは、何となくあか抜けなかったが、そのOblateは昔のままのデザインを墨守していたせいもあった、尚更ぱっとしなかったのだろう。
箱を開けると、袋に小分けしてあるわけでもなく、いきなり小振りのピザほどはあろうかという大きさのOblateが出てくる。へえ、これがあのゴーフルや、ワッフルの原形ですかと、そこにいる「子供たち」みなお菓子は好きだから、興味津々である。
私たちはみな、たいそうな期待をもってかぶりついたものだ。本当に生地はゴーフルそのものだったが、間に薄くはさまっているのが、白砂糖に砕いたナッツを申し訳程度に混ぜて薄くのばして塗りつけたもので、当然のことに、かじるとバラバラと音を立ててこぼれてくるのである。「信玄餅」ではないが、そうと分かっていたら、初めからもっと気をつけて口に運んだのだ。それ以上に、この「あんこ」では味がぱっとしない。何ともコメントのしようがない。私たちは皆、何とも言えない顔で黙り込み、慌ててこぼれた砂糖の始末などをしながら、後を黙々と食べ続けた。
微笑みながらじっと私たちの様子を眺めていた母親は、ゆっくりと少し満足げにこう言ったものだ。ふふふ、あんまり美味しいものじゃないのよね。
夫の定年後、夫の故郷であるホーヘンローエの奥へ引き込んだとたん、還暦を迎える前に亡くなってしまった。私たちは皆、誰も満足に親孝行ができなかった。
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【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
専門はドイツ語史
『クラウン独和第4版』編修委員
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【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。
An Unofficial Guide for Japanese Characters 03
2010年 3月 28日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 02
How do I get people to judge me as I wish?
We are deeply concerned about judgments made about ourselves. We want other people to think of us as good/cool/sexy, and under no circumstances as bad/vulgar/ugly.
However, our personal representation is not open to intentional performance. Even if I accrue a mountain of good deeds, I will not be judged as a “good person” if I go around saying “I am showing you what a good person I am through my good deeds. Look! I really am a good person!” I will not be recognized by others as a “good person” until someone sees me accruing good deeds unnoticed while he is watching.
So, how do we get other people to think of us as good/cool/sexy? This was the question I posed last time.
There is no safe and sure solution to this problem. All we can do is act in such a way that others are led to think of us as good/cool/sexy, while hiding this fact from them so that they don’t notice; that is, we must act naturally. It is like a swan that appears to glide elegantly over the surface of a lake, while actually kicking furiously under the water. Come what may, we must never say aloud “This will make you think I’m a good person, right?” If our intentions become known, all is lost.
In Junichiro Tanizaki’s (1886–1965) novel Sasameyuki (English: The Makioka Sisters), there is a passage describing how Sachiko, a female character, takes a disliking to a character named Okubatake. Her dislike for him is not due to his being violent or immoral. Rather, she finds Okubatake’s manner of speech irritatingly slow. She thinks he sounds like a pampered rich kid.
But this does not mean that Sachiko feels Okubatake is committing “identity fraud” by putting on rich-kid air although he is actually poor. Okubatake really is the son of a wealthy family (although it is getting less and less rich), and Sachiko knows this. So why does Sachiko dislike Okubatake?
In Sasameyuki, there is a description that Sachiko perceives that Okubatake is flaunting his easygoing, wealthy mannerisms, and that she dislikes him for it.
She dislikes him not because he is a wealthy man who was raised in the midst of plenty, and therefore naturally speaks with a slow and easygoing air, without realizing it. Sachiko dislikes Okubatake because he consciously speaks slowly, as if to announce “Speaking slowly shows how wealthy I am. Isn’t it glamorous?”
Obviously, Okubatake is not overt about his intentions. Nor does he know that Sachiko has seen through him. If another person says to him “You sure speak slowly Mr. Okubatake,” he would undoubtedly feign ignorance, slowly saying “Oh? Is that so?”
If all this is just the product of Sachiko’s imagination, we can only say that Mr. Okubatake is quite unlucky, but even if this is the case, Sachiko still has no choice but to rely on her own perceptions when judging the people around her. The same is true for Okubatake and the rest of us as well.
In order to obtain desirable judgments from others, we should produce our own desirable “characters (images of figure)” with our best care lest our intention of producing should be detected by other people. The question of whether our intentions will be detected, and our own suspicions about whether the characters created by others are real or just façades, are a component of the “hidden battles” that are incredibly common in everyday conversation.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 03
2010年 3月 28日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)要想得到理想的人物评价该怎样做?
对于别人给自己的评价,我们都有切实想得到的东西。无论如何我们都希望别人认为“这个人很好/帅气/性感”,而一定不是希望别人认为“这个人很笨/粗俗/难看”。
但另一方面,人物形像又不适合有意图地表现。即使一直做善事的人,如果说“我做善事,这表示我是个好人吧。你看,对不对,我就是个好人”这样话,谁也不会认为这个人是个“好人”。在无人看见的情况下,默默地做善事,直到被发现之前,人们也同样都不会认为“他是个好人”。
那么,要想让别人觉得“这个人很好/帅气/性感”,该怎么做才好呢?――这是上次提到的问题。
对于这个问题,其实没有安全且切实有效的对策。我们能够做的只能是做出让别人觉得“这个人很好/帅气/性感”,但绝不要让别人发觉你是刻意表现出“好人/帅气的人/性感的人”的,你应该保持自然姿态。这就好像天鹅虽然在湖面上顺畅优雅地游动,但实际上,在水面下它却在拼命地划水。同样的道理, “我做了这些事,你该认为我是个好人吧”这样的话是一定不能说的。一旦让人发觉了你的意图,你所做的一切就全都会徒劳无功的。
在谷崎润一郎的《细雪》中卷里,写到一个叫幸子的女子觉得一个叫奥畑的人让感到很不舒服的一个章节。感到不舒服的原因不是因为奥畑这个人很粗暴或不道德,而是因为奥畑说话说得太慢,让人觉得就像是个富家少爷似的。
实际上,奥畑虽然家境已经开没落,但也还算是个富家少爷,幸子也知道这件事。她对奥畑的不快之感,并不是因为奥畑出身贫寒却装作富家少爷,做了什么“身份伪造”。
在《细雪》里写到,奥畑的说话方式里,以富家少爷自居的那种悠悠然然的感觉,让幸子感到很不愉快。
在富裕环境中成长起来的富家少爷奥畑说话方式无论怎样都是慢条斯理的,给人悠悠然然的感觉,如果仅仅是这样,并不是幸子觉得不可原谅的。 “我这种慢条斯理地说话方式,完完全全就是富家少爷的感觉,简直帅极了。以后就用这种腔调说话”带有这种意图的慢条斯理地说话方式才是幸子觉得不可原谅的。
当然奥畑没有公开自己的意图,这意图已被幸子看破他也不知道。如果别人对他说“奥畑先生,您说话说得好慢啊”,他会回答“哎,是吗?”一定仍然用慢条斯理的语调装作毫无察觉的样子。
如果说奥畑慢条斯理的说话方式不是刻意做出来的,只是幸子想得太多的话,那就只能说奥畑很可怜。但不管这是不是幸子想的太多,幸子只能依靠自己的感觉来判断周围的人。无论是奥畑,还是我们都是如此判断。
“为了得到理想的人物评价,要自然地表现出自己的角色形象(人物印象)。但是,这种意图绝不能被别人察觉”的自我掩饰,和“他的角色形象是真的还是装的?”这种对他人的猜疑,双方的“暗斗”可以说在我们平时会话中是常有的。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
日本語社会 のぞきキャラくり 第83回 指定が部分的な発話キャラクタ(上)
2010年 3月 28日 日曜日 筆者: 定延 利之指定が部分的な発話キャラクタ(上)
発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べてきたことに対して(第57回~第72回)、読者が真っ先にいだきそうな「観点が4つでは足りないのでは?」という疑問を取り上げ、脱線もしながら詳しく答えてきた(第73回~第82回)。次に取り上げるのは、これとは逆の疑問、つまり「観点が4つもあるのは多すぎるのでは?」というものである。まず、この疑問の趣旨を説明しておこう。
たとえば、「げっへへ、これでよぉ、罪もない市民をよぉ、殺せるってぇ寸法だぜ」などとしゃべるのは『下品で格の低い年輩の男』である(第73回)。この発話キャラクタは「品は『下品』」「格は低い(『格上』か『ごまめ』)」「性は『男』」「年は『年輩』」という具合に、4つの観点「品」「格」「性」「年」においてそれなりに具体的な値(それぞれ『下品』、『格上』か『ごまめ』、『男』、『年輩』)が指定されてできているから、たしかに「話し手のキャラクタを述べるには4つの観点「品」「格」「性」「年」が必要だ」という気がしないでもない。
しかしそれなら、たとえばイントネーションを急上昇させて言う間投助詞「よ」の発話キャラクタはどうなのだ? 「弁護士がよ、財産をよ、…」を発音するのに、文節「弁護士がよ」の末尾「よ」でイントネーションを急上昇させ、続く分節「財産をよ」の末尾「よ」でイントネーションをまた急上昇させて発音するのは『女』だというけれども(第67回)、この『女』とは何なのだ。若い『女』なのか、そうでないのか。「品」や「格」はどうなのか。もしもこの『女』の「品」「格」「年」が「いろいろあるので特定できない」のなら、この場合は話し手のキャラクタを述べるのに観点は4つも要らないのではないか、というのが、「観点が4つもあるのは多すぎでは?」という疑問の趣旨である。
別の例に則して言えば、この疑問は次のようになる。たとえば「弁護士がよぉ、財産をよぉ、…」のように、文節の末尾で間投助詞「よ」のイントネーションをまずポンと高くし(「よ」)、次いで下降させてしゃべる(「ぉ」)、つまり私が「戻し付きの末尾上げ」と呼ぶイントネーションで間投助詞「よ」をしゃべるのは、『下品』な『男』である(第67回・第72回)。この『下品』な『男』の「年」は『若者』とはかぎらない(第72回)。ならば「年」はどうなのだ。また、「格」はどうなのだ。この場合、話し手のキャラクタは「品」「性」という2つの観点さえあれば十分で、「格」「年」という観点は不要なのではないか?
やっぱり、お天道様と旦那は何でもお見通しだぜ。その通りよ。言おう言おうと思いながらここまで来ちまったが、おれだって隠すつもりはなかったんだ。(つづく)
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
地域語の経済と社会 第92回
2010年 3月 27日 土曜日 筆者: 井上 史雄地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第92回「“ウザイ”新方言のコマーシャル」
Commercial messages of a new dialect expression by “uzai”
新方言「ウザイ」を使ったテレビコマーシャルに気づきました。インターネットで情報をさぐったら、パソコンに表示されることが分かりました。以下をクリックするとたどりつけます。
http://www.pizzahut.jp/more/cm/special/
ピザハットのテレビコマーシャルで、動画も出ます。字幕にも「ウザイほど美味しい。」と出ます。
「ウザイ」の前身は東京多摩地区の昔からの方言「ウザッタイ」(うっとうしい、不快だ)です。1980年代に現地調査で確認しました。30年で語形も意味も使用場面も使用地域も大きく変化しました。4月1日から始まるNHKテレビ木曜夜の「みんなでニホンGO!」でも取り上げられます。その後「ウザッタイ」は新方言として全国に広がり、歌でも使われます。歌詞ナビで検索したら、以前は「じれったい愛」だけでしたが、今は9曲に増えていました(2010/02/24)。
「ウザッタイ」の短縮形「ウザイ」は、1980年代に東京氷川の中学生の作った方言集に載っていました。http://triaez.kaisei.org/~yari/Newdialect/nddic.txt
ところが、もっと古い例が見つかりました。多摩地区では以前から「ウザイ」を使っていたらしく、「稲城方言カルタ」(1994)にも「りょうけんに ひねえ 頭がうぜえから」(考えがなかなかまとまらない、頭が悪いから)とあります【写真】。このかるたを作った人に問い合わせたら、色々な人に確かめてくださいました。明治・大正生まれの人が使っていたそうです。今の若者のウザイとは意味が違いますが、ずいぶん昔からあった言い方です。
余談
「おいしい」「うまい」の方言は第84回で取り上げられました。共通語形は、このコマーシャルによれば、「おいしい」なんでしょう。全国の方言分布は、国立国語研究所のホームページの「日本言語地図」第6集291図で確かめられます。
http://www6.kokken.go.jp/siryokan_data/drep_siryokan/laj_map/LAJ_291.pdf
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

井上史雄(いのうえ・ふみお)
明海大学外国語学部教授。博士(文学)。専門は、社会言語学・方言学。研究テーマは、現代の「新方言」、方言イメージ、言語の市場価値など。
履歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/inouef/
英語論文 http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/affil/person/inoue_fumio/
「新方言」の唱導とその一連の研究に対して、第13回金田一京助博士記念賞を受賞。著書に『日本語ウォッチング』(岩波新書)、『変わる方言 動く標準語』(ちくま新書)、『日本語の値段』(大修館)、『言語楽さんぽ』『計量的方言区画』『社会方言学論考―新方言の基盤』(以上、明治書院)、『辞典〈新しい日本語〉』(共著、東洋書林)などがある。
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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
近刊案内(2010年3月)
2010年 3月 26日 金曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部サイン・シンボル大図鑑

著:ミランダ・ブルース=ミットフォード
監訳:小林賴子・望月典子
訳:今井澄子・大高幸 ・小林明子・杉浦悦子・杉山奈生子・星聖子
B5変型判 352ページ ¥4,410 ISBN 978-4-385-16225-6
月や花、鳥や虫、神話や占星術、帽子や仮面、色彩や身振りにこめられた隠された言葉(サイン・シンボル)の起源と意味を読み解く。1冊でわかるサイン・シンボルのすべて。
必携類語実用辞典 増補新版

武部良明 編
B7変型判 416ページ ¥1,050 ISBN 978-4-385-13193-1
[中型版]
B6変型判 416ページ ¥1,575 ISBN 978-4-385-13194-8
文章作成を強力にサポートする、ことば選びの辞典。小型類語辞典中最大級の収録総語数51,000語。ウェブ版「Dual 必携類語実用辞典」を無料で使える購入者特典付き。中型版同時発売。
こども ひらがなとかずの絵じてん 小型版

三省堂編修所 編
B5変型判 192ページ ¥2,100 ISBN 978-4-385-15013-0
定評ある「ひらがな絵じてん」「かずの絵じてん」を一冊にした小型合本。楽しいイラストとゲームによって、ひらがなの読み書きと1から100までの数字と物の数え方が、遊びながら自然に身につく構成。
クラウン仏和辞典 第6版 小型版

天羽均・大槻鉄男・佐々木康之・多田道太郎・西川長夫・山田稔・Jean Henri Lamare 編
B6変型判 1,824ページ ¥2,940 ISBN 978-4-385-11932-8
好評既刊『クラウン仏和辞典 第6版』が小型版で登場。購入者はウェブ上にて発音・動詞活用の音声が利用可能。
人名用漢字の新字旧字:「缶」と「罐」
2010年 3月 25日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第59回 「缶」と「罐」
昭和17年6月17日に国語審議会が答申した標準漢字表では、「雚」を部分字体に含む漢字に、簡易字体がカッコ書きで添えられていました。「權・灌・勸・歡・觀」には、それぞれ「権・潅・勧・歓・観」がカッコ書きで添えられていたのです。「罐」にも、同じようにカッコ書きで簡易字体(画像参照)が添えられていました。これらカッコ書きの簡易字体は、一般に使用して差し支えない、ということになっていました。ところが、昭和21年11月16日に内閣告示された当用漢字表には、「罐」もその簡易字体も収録されていませんでした。そして、戸籍法が昭和23年1月1日に改正された結果、「罐」もその簡易字体も、子供の名づけに使えなくなってしまいました。
昭和52年1月21日、国語審議会は新漢字表試案を発表しました。新漢字表試案は、当用漢字に83字を追加し33字を削除する案で、1900字を収録していました。この追加案83字の中に、新字の「缶」が含まれており、さらに「缶」の康熙字典体として、旧字の「罐」がカッコ書きで添えられていました。つまり、「缶(罐)」となっていたわけです。しかし、「罐」の通用字体を「缶」にすべきかどうかは、まだ議論の余地がありました。「缶」は本来「ほとぎ」という別の字であり、「かん」ではないのです。
これに対し文化庁は、昭和52年8月に、国語に関する世論調査をおこないました。「国民のことばについての意識を主として、漢字を中心に調査し、今後の施策の参考とする」ためのもので、全国20歳以上の10000人が対象でした。この世論調査の中に、以下の設問が含まれていました。
あなたは,ふだん文字を書く時,「かん」については,どちらを書くことが多いでしょうか。
- 「罐」
- 「缶」
- わからない
結果は、「罐」10%、「缶」85%、わからない5%でした。この調査結果を受けて国語審議会は、昭和56年3月23日答申の常用漢字表においても、「缶(罐)」をそのまま踏襲しました。
民事行政審議会は昭和56年4月22日の総会で、常用漢字表1945字を子供の名づけに認めると同時に、常用漢字表のカッコ書きの旧字357字のうち、 当用漢字表に収録されていた旧字195字だけを、子供の名づけに認めることにしました。 この結果、新字の「缶」は子供の名づけに認められましたが、旧字の「罐」は当用漢字表に収録されていなかったので認められませんでした。昭和56年10月1日、常用漢字表は内閣告示され、新字の「缶」が子供の名づけに使えるようになりました。しかし、旧字の「罐」は人名用漢字になれませんでした。それが現在も続いていて、新字の「缶」は出生届に書いてOKですが、旧字の「罐」はダメなのです。
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【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。
国語辞典入門:小学生向け辞典のおすすめ 選び方
2010年 3月 24日 水曜日 筆者: 飯間 浩明第11回 学習辞典抜きで国語辞典は語れない
前回までは、主に、私の個人的な体験に基づいた話を書いてきました。今回からは、もうちょっと話を一般化したいと思います。実際に書店に国語辞典を買いに行くとき、どんなことに気をつければいいかといった、実践的な内容を扱います。
チェック項目を並べて国語辞典を点数化したくないというのは、最初に述べたとおりです。特定の辞書だけがいいと思われるような書き方は避けます。それよりも、読者が「自分ならこういう辞書を選ぶ」と、自由に判断するのを助けるような材料を記すつもりです。
話の中心にしたいのは、児童・生徒が学校で使う学習国語辞典(以下、学習辞典)です。特に、小学生向けのものを取り上げます。
なぜ急に学習辞典の話になるのか、と思われるかもしれません。理由は、大人が自分用の辞書を選ぶときよりも、子どもに選んでやるときのほうが、ずっと頭を悩ませるものだからです。辞書ひとつで学習意欲が左右されるかもしれないわけで、責任は重大です。
子どもの辞書の選び方が分かれば、その応用で大人の辞書も選べます。大人用の辞書については、必要に応じて補足をします。
私自身は、小学生の時、例の『広辞典』(集英社)という実用辞典を愛用していたためもあって、リアルタイムで学習辞典を使った記憶はほとんどありません。学校の図書館にあったものを、授業で何度か使った程度です。その後も、学習辞典とは縁がないままでした。
ところが、2004年のこと、NHK教育テレビの小学生向け国語番組の制作に参加してから、事情が変わりました。語彙や文法から文章表現にいたるまで、ことばに関するもろもろの内容を、小学生に分かるように説明する必要が出てきました。
私は、その手法を学習辞典に求めました。学習辞典は、やさしい説明が命です。たとえば、「概念」は、一般向けの『新選国語辞典』(小学館)では、〈多くの観念のうちから、共通の要素をぬきだし、それをさらに総合して得た普遍的な観念〉と説明しています。これでも十分ですが、子ども向けの『例解学習国語辞典』(同)では、さらにかみ砕いています。
〈多くの物ごとから、にたところをとりだしてつくられる考えのまとまり〉
たしかに、分かりやすい。こうして、私は、学習辞典を熟読するようになりました。
学習辞典選びは自分の目で
その後、「子どもの国語辞典をどう選んだらいいか」と取材を受ける機会も、何度かありました。インタビュアーの話から、世間では、学習辞典の選び方に悩む親御さんが非常に多いらしいことも知りました。
実際、学習辞典に対する需要は高まっているようです。〈辞書の売れ行きはこの10年で約半分に落ち込んだが、小学生向けの辞書に限っては販売部数が伸びている〉(『産経新聞』ウェブ版 2009.4.21、三省堂宣伝広報部長談)というのですから、よろこばしい話です。
「amazon.co.jp」の「国語辞典」というカテゴリーで、売れている順番にリストを並べてみると、一般向けを抑えて、学習辞典が上位に来ます。今や、学習辞典を無視しては、国語辞典は語れない状況になっています。
学習辞典人気の功労者は、言うまでもなく、立命館小学校の深谷圭助さんです。小学1年生から日常的に辞書を引かせるという、従来にない指導法を取り入れました。子どもたちは、調べたことばに付箋をつけていき、そのうち、付箋の厚みで辞書がふくれあがります。調べた量が視覚化され、自信につながります。
この指導法は、画期的であると同時に、いたって正攻法であり、支持を広げました。辞書出版社もまた、この指導法を支持し、かつ、競うかのように宣伝しています。宣伝それ自体は、辞書の活用を促すことにつながり、たいへんけっこうなことです。
ただ、その結果、〈深谷先生も推奨されている辞書〉という理由で、いくつかの特定の学習辞典を選んだり、勧めたりする人も出てきました。インターネット上では、そういう書きこみが目につきます。これは判断停止であり、好ましいことではありません。
深谷さん自身は、〈辞書によって書いてあることが違うと知るのも大切な学びですから、最初の辞書は当校ではあえて指定していません〉(『プレジデントFamily』2009.4)と明確に語っています。著書にも、辞書の名前は記してありますが、例示にとどまります。判断は、あくまで辞書を買う側がすべきものです。
どの先生が推薦しているからとか、アマゾンのレビューでほめてあったからという理由で子どもの辞書を選ぶのは、さびしい気がします。せっかくなら、自分の目で選びたいではありませんか。そのために役立つことをお話ししたいと思います。
◆連載を続けてお読みになる方は⇒「国語辞典入門」アーカイブ
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◆飯間先生のもう一つの連載は⇒「『三省堂国語辞典』のすすめ」目次へ
◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」
筆者プロフィール
飯間浩明(いいま・ひろあき)
早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)
【編集部から】
これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(23)
2010年 3月 23日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(23) 長徳の変~定子周辺~
中関白道隆が亡くなった後、中宮定子の最も身近な後見役は兄伊周と弟隆家でした。しかし、二人は長徳の変で政治的な力を失ってしまいました。残された大きな依り所は夫の一条天皇でしたが、定子は罪人の近親者として宮廷から退出せざるを得ませんでした。二条邸で、兄弟が検非違使(けびいし)に引き立てられる現場に同席し、定子は愁嘆場を体験しました。『枕草子』が語らないその日の出来事を『栄花物語』は詳細に描写しています。
宮の御前、母北の方、帥殿、一つに手をとり交して惑はせたまふ。はかなくて夜も明けぬれば、今日こそはかぎりと、誰々も思すに、たちのかんとも思さず、御声も惜しませたまはず。「いかにいかに、時なりぬ」とせめののしるに、宮の御前、母北の方、つととらへて、さらにゆるしたてまつらせたまはず…
(中宮、母北の方、帥殿(=伊周)は手を一つに取り合って、取り乱していらっしゃる。どうしようもないまま夜が明けてしまったので、今日こそ最後と、どなたもお思いになるが、その場を離れようとも思われず、声を惜しまずお泣きになる。「どうしたどうした、出発の時間になったぞ」と検非違使が大声で急かすが、中宮と母北の方は伊周をしっかりつかまえて、絶対にお放しになろうとしない…)
配所へ出立すべき時がきても、母と妹に取りすがられて泣き続け、その場を離れようとしない伊周の姿には、政権を巡って道長と対立していた頃の勢いのかけらもありません。長徳元年以降、『枕草子』の記事から伊周の姿が消えますが、道長にくみして栄える斉信と対照的に、中関白家没落の主役となった伊周を、作者は描くことができなくなったのでしょう。
長徳の変を境に、定子の身に次々と不幸な事件が起こります。長徳の変の際、二条邸に立て籠っていた兄弟のうち、先に隆家が出立した5月1日に、定子は自ら鋏を取って髪を切り、出家の意志を示しました。翌月の6月8日には二条邸が焼亡し、定子は身分の低い男に抱えられて、一旦、祖父の高階成忠宅に入り、そこから車で叔父明順宅に避難したとも記録されています。当時、流罪の刑を受けた貴族の屋敷は往々にして放火されたのです。
定子がいなくなった宮中では、娘を后に据えようと、公卿たちが動き出します。7月に大納言公季(きんすえ)娘の義子、11月に右大臣顕光の娘元子が入内しました。
二条邸焼亡の後、定子の消息は記録上からしばらく消えますが、10月に母貴子が病死した時には傍にいたと思われます。その直前、大宰府に行く途中で体調不良を訴え、播磨に留め置かれていた伊周が、母危篤の報を聞いて密かに入京します。しかし、密告によって再逮捕され、今度こそ大宰府に送還されるという騒動になりました。
これまでにない様々な事件が中関白家に次々とふりかかり、定子周辺は悲嘆に暮れる日々が続いたでしょう。そんな年の終わりに定子は出産します。20歳での初めての出産、その妊娠中に定子の受けた精神的、肉体的な苦痛ははかりしれません。長徳2年12月16日に誕生したのは、一条天皇にとっても第一子となる修子内親王でした。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
An Unofficial Guide for Japanese Characters 02
2010年 3月 21日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 01
I’m that kind of person: Why do people nervously laugh when I talk?
“I’m strange, you know.”
“I’m pretty selfless.”
These utterances ask that the listener to think of the speaker as “strange” or “selfless.”
But no one would take them at face value. In all likelihood, the listener will say: “Oh, really?” while thinking: “Idiot!” She is simply going along with speaker for the time being so as not to embarrass him.
Nevertheless, young or old, male or female, no one is able to resist making such statements. When a middle-aged man casually announces: “When I was young, I was sharp as a razor,” I suppose he means: “Think of me in my youth as a razor, and think of me now as a mellow adult.”
Why do we constantly say “I’m this or that sort of person?”
And why do these announcements inevitably fail to have the effect the speaker intended?
I am concerned about criticism of Bonnou no Bunpou(1) , (Chikuma Shinsho) which I recently published. However, I’m not alone in such matters. With the exception of people who are totally removed from secular life, we have no alternative but to live our daily lives within groups, judging one another, worrying about the judgments handed down on us by others, and yo-yoing between joy and depression.
There are various types of “judgment.”
There is judgment of our works (“that book was interesting/boring”), of our abilities (“she’s a good/poor singer”), and of us as people (“that guy is cool/serious/vulgar”).
For us, the most critical of these are judgments of us as people.
“I want people to think of me as a good/cool/sexy individual.”
“I don’t want to be thought of as a bad/vulgar/ugly person.”
We constantly keep these thoughts in mind when picking our clothes, putting on make-up, doing our work, and telling our jokes (of course there is more to us than this internally).
In wanting or not wanting to be judged, it is understandable that we find ourselves wanting to say: “This is how I am. Judge me this way.” So, why does this approach fail?
It is because judgments of people, unlike judgments of works or abilities, are unaccustomed to intentional performances.
In judging a work, for example “the limoncello at Ristorante Caruso is tasty,” even if this property of tastiness has been intentionally created by the chef –that is, even if the chef decided he wanted people to judge it to be tasty—and even if we accept that the tastiness is the result of the chef’s efforts (as it probably is), it doesn’t harm us in any way to admit this. The same is true for judgments of people’s abilities, such as “Chef Matsumoto is talented.”
However, it is not so with judgments of people themselves, such as “that professor is a superb human being.” If the professor’s superb qualities are the result of her intentionally seeking the judgment of “superb human being,” and if her efforts to be thought of as “superb” are detected, then this professor is not, by definition, a superb human being.
Judgments of people are a type of natural judgment, akin to “that’s a beautiful mountain” in that they are strangers to intent. This is why declaring “I am this or that kind of person” only digs one into a deeper hole.
So, how do we entice others to judge us as we wish? (To be continued.)
* * *
(1) SADANOBU, Toshiyuki. Bonnou no Bunpou: Taikien wo Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System wo Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: The Story of How the Desire to Relate Experiences Shaped Japanese Grammatical Systems). Chikumashobo Ltd., 2008
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 02
2010年 3月 21日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)“我是如此这般一个人”这样的说法为何会令人苦笑呢?
“我跟别人不一样”
“我是属于奉献型的那类人”
这样说的人一定是希望让别人知道自己是个“与众不同”或“属于奉献型”的人吧。
但是一般人们听了这样的话后却并不会这样想。表面可能会应付说“喔,是吗?”,可是说不定内心会说“咳,这人真蠢”,做表面附和只不过是为了不伤害对方而已。
尽管如此,像文章开头那样说的人无论男女老少还是大有人在的。例如常能听到某些大叔这样说“我年轻的时候就像剃须刀一样锋芒逼人”,即使是一种不经意的说法,也会让听者觉得他的意思是“年轻时像剃须刀一样锋芒,现在已被磨平了”
为什么我们会经常对别人表明“我是如此这般一个人”呢?
又为什么这样的表明,却往往不会达到说话人所想要得到的效果,以失败而告终呢?
前几天我出版了《烦恼的语法》(筑摩新书)这本书后,对其评价一直很在意。我想换成别人也会和我一样吧。除了那些已看破红尘的人,群体生活的我们相互之间都会进行评价,而且我们也都是由于别人给予的评价或得意或灰心、或高兴或悲伤地生活着。
可是,虽说是“评价”却有各种各样的类型,例如:
“那本书很有趣/无聊”这样的作品评价,
“他歌唱得很好/不好”这样的技能评价,
“他很帅/认真/粗俗”这样的人物评价等等。
其中,对我们来说人物评价应该是最重要的。
无论我们是在穿衣、化妆、工作,还是开玩笑,“都想给人以好人/帅气/性感这样的印象”,“ 而不想让人觉得自己很笨/粗俗/难看”,而且这样的想法一直左右着我们(当然,我们的内心世界并不仅限于此)。
“想让/不想让别人这样评价”,因此就自己主动告诉别人“我对自己的评价是这样的,也请你这样评价我吧”,这样的想法不是不能理解。但是,这样做反而会失败。为什么呢?
这是因为人物评价跟作品评价和技能评价不同,人物评价一般有“不适合有意图地表现”这一性质。
例如,“CARUSO餐厅的柠檬酒很好喝”这样的酒评,“好喝”是调酒师刻意努力的结果,进一步说,是调酒师有了“让人们觉得‘CARUSO餐厅的柠檬酒很好喝’”这一意图而经过努力得到了好的评价,这样的意图就是让人知道了也不是什么丢脸的事(一般情况下,作为调酒师有这样的意图是再正常不过了)。同样像“松本厨师的技术很好”这样的技能评价也是一样的。
但是,“那位大学教授是很豪爽的人”这样的人物评价就不一样了,如果是大学教授有了“希望让别人认为‘他是个豪爽的人’”这样的意图,而经过努力后才得到的评价的话,一旦其意图和努力被人发觉,大家就会觉得他的豪爽时装出来的,而不会再认为这位教授是豪爽的人了。
人物评价就像“那座山很雄伟”这样对自然物的评价一样,所得到的评价不应该是被评价人有意图的表现出来或说出来的。“我是如此这般一个人”这种搬石头在自己脚的话语往往不被接受,其原因就在于此。
那么,怎么做才能得到自己想要得评价呢?(待续)
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
日本語社会 のぞきキャラくり 第82回 『関西人』たち(4)
2010年 3月 21日 日曜日 筆者: 定延 利之『関西人』たち(4)
すでに述べたように(第76回)、『異人』たちのキャラは「本来」的に発動されるのではなく、「臨時」的に発動される。その多くは遊びの場面で、冗談として発動される。冗談というものは、「わざと言っている」ということが皆にわからないかぎり、冗談として成立しないから、「冗談として発動される」の部分は「あからさまに意図的に発動される」と言い換えることができる。しかし、だからといって、『異人』キャラは実は「発話キャラクタ」ではなく、あからさまに意図的な「スタイル」だと考えるのは間違いである。
というのは、『異人』キャラがあからさまに意図的に発動されるというのは、あくまで傾向に過ぎず、常に成り立つわけではないからである。商談を有利に進めようと、商談の局面で『関西人』を装う画家(第79回)を思い返してみよう。これは、ここはお金のことだからきっちり話させてくださいと、商談の局面で態度を改め、きっちりした物言いに切り替えるのとは違う。このきっちりした物言いは、「きっちり話そう」という意図があからさまであるから「スタイル」と言ってよいが、画家は違う。この湘南生まれの画家は、『関西人』風に振る舞おうとする意図を持っているが、その意図は商談相手には決して悟られてはならない。つまり、この画家の『関西人』風のしゃべり方は「あからさまに意図的」なものではない。だから「スタイル」ではない。「スタイル」ではない証拠に、その意図が露見してしまった場合、それを見た方も、見られた方も、気まずい思いをする。それが「横井検事事件」(第一の解釈による場合)である。これらの画家、検事たちの、ひそかに意図的な関西弁は「スタイル」によるものではない。取り繕われ、時に意図が露見して破綻する『関西人』キャラの役割語である。
たしかに、冗談発話に「スタイル」が関わってくるということは否めない。商談に詰まると「そんな冷たいこと、言わんといて」と言う中近東の絨毯売り(第5回)や、関西人でもないくせに時に「もうかりまっか」などと言って笑い合ったりする私たちは、冗談として、つまり「『関西人』らしくしゃべろう」という意図をあからさまにして、『関西人』らしい物言いをしている。その点で、『関西人』らしい物言いは、私たちが状況に応じて選択し、使い分ける「スタイル」と言える部分もないわけではない。
しかし、同時に忘れてはならないのは、その際に利用されているのが『関西人』という発話キャラクタの非意図的で自然なしゃべり方だ、ということである。ここで、「意図の有無」を2つのレベル(仮に「基層レベル」「応用レベル」と呼ぶ)に分けて考えると、整理がつきやすいかもしれない。『関西人』は関西弁をしゃべり、関西的な振る舞いをすることに格別の意図を持たない。ただ自然に振る舞っているだけである。まず「基層レベル」として、このような『関西人』という発話キャラクタのしゃべり方を認めないわけにはいかないだろう。冗談はこれを「応用レベル」で、あからさまに意図的に利用してできあがっているものであり、「基層レベル」では発話キャラクタ、「応用レベル」ではスタイルという、合わせ技とも言える。
◆この連載を続けてお読みになる方は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」アーカイブへ
◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」目次へ
◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
地域語の経済と社会 第91回
2010年 3月 20日 土曜日 筆者: 田中 宣廣地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第91回「駅弁シリーズ(2) ―奈良時代の日本語も生きる―」
駅弁は,その土地の地方色を出すことが求められます。名物料理や特産物を入れたり,土地にふさわしい名称を付けたりします。方言が使われるのが自然な成り行きだと思いますが,意外と少ないようです。
この連載の第62回では,福島県の郡山駅の「方言駅弁『ずうずう弁』」が紹介されました。今回は,その駅弁シリーズ(2)とします。2件紹介します。
一つは,「までぇにつぐったお弁当」【写真1】です。宮城県のJR仙台駅内で発売されています。
「までぇに」は,パッケージの共通語訳のとおり,「ていねいに」の意味です。(あとで解説)
「つぐった」は,東北方言の特徴である語中カ行音の濁音化現象を写していますね。
これらの解説や,「宮城のうめぇもん ぎっしり」の方言も記されています。⇒【写真1~全体】
さて,「まで」は,今から1400年以上前の奈良時代から続くことばです。元の意味は「両手」です。
はっきりと「両手」の意味の用例が確認できるのは,鎌倉時代で,「まて」でした。奈良時代にもその用法があったことも推定されています。
『万葉集』(759年頃成立)は,漢字だけで日本語を表す万葉仮名で表記されていますが,その表記方式の一つに戯訓と呼ばれる当て字的表記があります。そのなかで,助詞の「-まで」の多様な表記のうち,両手を示す表記(「二手」「左右」「左右手」「諸手」)もあります。これが,奈良時代に既に両手の意の「まで」があった証明とされています。
正宗敦夫編『万葉集総索引』で数えたところ,助詞の「-まで」は全部で167例,うち,両手を示す表記でのものは54例でした。
「まで(まて)」の「ていねい」の意味は容易に理解できます。両手で物を扱うのは,片手でよりていねいになりますね。そこからこの意味が,安土桃山時代から出てきました。これが,現代では東北地方の方言で使われます。「まて」も「まで」も,東北方言では「ま[で]」です。

【写真2】駅行く弁(駅行くベー)
なお,お弁当は中華弁当で,宮城県大崎市の福祉施設で作った餃子や焼売を使い,施設と仙台市の業者の共同企画で製作されています。
もう一つ,お弁当そのものではなく,企画旅行商品です。
JR東日本の駅弁付きツアー「駅行く弁」です。「弁」のところが,勧誘の「べー」と掛けられ,「駅行くべー」(駅に行こう)となっています。
“東北新幹線”が駅弁を食べる図柄がシンボルマーク【写真2】です。
* * *
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
田中宣廣(たなか・のぶひろ)
岩手県立大学 宮古短期大学部 准教授。博士(文学)。日本語の,アクセント構造の研究を中心に,地域の自然言語の実態を捉え,その構造や使用者の意識,また,形成過程について考察している。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東北大学大学院文学研究科博士課程修了。著書『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』(おうふう),『近代日本方言資料[郡誌編]』全8巻(共編著,港の人)など。2006年,『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』により,第34回金田一京助博士記念賞受賞。『Marquis Who’s Who in the World』(マークイズ世界著名人名鑑)掲載。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載。
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2007年









