漢字の現在

第61回 日本のお金も「円」い

筆者:
2010年4月1日

明治維新を遂げた日本では、政府が旧来の貨幣単位「両」(兩)を、欧米の通貨に合わせて円形にする際に、その名称も変更した。大隈重信がお金を意味する丸を指で描いて説いたことから「圓」が採用されたというのは、当時すでに香港で「圓」が用いられていたことから見ると、俗説であるのかもしれない(中国では、「開元通宝」などにルーツをもつ「元」の流れもあったとも言われている)。ちなみに「銭」は、アメリカのセントに発音も近いので、大隈はそのまま採用したのだともいう。むろん日本の人々も、このように漢字の表音的性質に着目して利用することもあり、中国とは別に行われることだってある。


これで、「圓」はそのままの字体では広く世には受け入れがたくなったのである。そこで、ちょうど存在した「円」という略字が貨幣単位を表記するためにも活用されはじめる。手書きでの頻用を受けて、保守性が強い活字ではあっても、戦前から見出し活字や小さい活字などで「円」という字体が登場する。活字は、手書きよりも遅れて変化が進むものだが、歴史の縮図を作ることがある。手書きで起こった「圓」から「円」へという字体の変化をメディアを替えて短期間で再現したのだ。

こうした状況を受けて、戦前の漢字施策案も、「円」を追認する動きを積極化させた。日本銀行本店の建物を上から見ると「円」のような構造となっているというのは、やはり偶然ではないのかもしれない。このように貨幣単位に「圓」が採用されたことが略字「円」の流通を決定づけた。この略字は定着し、戦後に当用漢字に「新字体」として採用されたのである。無論、それと並行して「圓形」も「円形」、固有名詞の「圓山」も「円山」などと、正式な場面でも書かれる機会が増えていった(例外的に変わらなかったケースもある)。

今日では、たとえば「200円」は次のように書かれることもある。ひらがなにした「200えん」、カタカナにした「200エン」、英語の綴りを採り入れた「200yen」、ローマ字表記にした「200en」、記号を用いた「¥200」、記号の位置が膠着語風に転倒した「200¥」、記号と漢字とが重複した「¥200円」など、さまざまな表記が店先に並ぶ。具体的な金額ということで婉曲にしようという意図も働いているのだろうか。ここまでの多様性は、いかにも日本らしい。

中国では、「円」は日本の貨幣単位専用の日本製漢字(国字)、とさえ思われることが以前からある。「圓」との関連性が、毛筆により崩した字形ではなく活字体で固まってしまった字面からは浮かびにくいのであろう。それは、多くの日本人にとっても同じではなかろうか。漢和辞典を見ても、新字、旧字というレッテルや、せいぜい俗字という一言だけで片付けられ、変化の過程を説明してはくれない。多様性を好む一方で、その根源、経緯や理由をあまり求めようとしないのも、また日本らしいといえるような気もしてくる。

なお、漢字語が色濃く残っているベトナムは、「ドン」(đồng)という貨幣単位を用いており、それは銅貨の「銅」という漢字音である。漢字圏にありながら、「圓」に由来しないという点で、特筆に値する。1ドンは現在、0.005円弱と安い。「銅」という漢越語は、ベトナム語ではたとえば時計という語にも、「銅壺」(ドンホー)と使われている。ベトナムではこうしたなにやら古めかしい漢語による表現が目立つ。ベトナムでは、京(キン)族(越(ベト)族)のほかに、中国と同じくらい多彩な少数民族が生活をしている。その中には、チュノムをさらに応用した文字や、中国の壮(チワン)族の壮文字、広東語の方言文字と共通する文字も見受けられる。もしかしたら、「銅」という表記が今なおどこか南方の地で生きている、ということは、さすがにないのだろうか。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。