2010年 5月 のアーカイブ
An Unofficial Guide for Japanese Characters 12
2010年 5月 30日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 11
Transform!
Previously, we discussed the essential link between communicative behavior and character —that is, when the speaker wishes to engage in a certain communicative behavior, he deploys the character that is skilled at that behavior.
Here, “communicative behavior” is not limited to verbal behavior. It also includes nonverbal behavior such as “leering,” “sidling up,” and “pinching knees.”
In other words, this transformation affects the speaker physically as well as verbally. This fact is crucial to understanding Japanese manga, which are currently enjoying international fame.
For example, in volume 4 of Maya Mineo’s Patalliro!(1) , (1980, Hakusensha) the protagonist Patalliro picks a fight with Maraich, whom he has always mercilessly teased, for calling Patalliro a “squashed bean bun.”
Although Patalliro is a child, in the panel in which he is acting belligerently, he breaks into adult Kansai dialect, saying, “Erai iwarekata yanke ware” (What did you call me?!). In this panel, he suddenly has a scar across one cheek, a cigarette holder, sunglasses and a gaudy coat in the style of a Kansai yakuza thug. In the next panel, he has returned (in speech and appearance) to his original childlike self, as if nothing has happened.
This “fast panel-to-panel transformation” in Japanese manga must pose an incomprehensible mystery to international readers. Why can Japanese readers easily understand it, without thinking it mysterious?
It is because they know about the essential link between communicative behavior and character, and in Japan it is common knowledge that the communicative behavior known as “picking a fight” is the specialty of the yakuza. In order to pick a fight with Maraich, Patalliro deploys a character whose specialty is picking fights, the “Kansai yakuza,” and both the verbal and nonverbal effects of this are shown in the aforementioned panel.
In volume 7 of Fujiko F. Fujio’s manga Doraemon (1975, Shogakkan), there is a scene in which Nobita, ecstatic at having secretly obtained some items from the future, says to himself, using polite Japanese, “Kore wa taihen na mono desu yo” (This is a terribly fine item).
In order to understand this use of polite language, it is helpful to imagine that Nobita himself is deploying a character good at making judgments, such as an “appraiser” or “art critic,” to appraise the item for himself, and in doing so has increased his pleasure in it. After all, Japanese appraisers and art critics always speak politely.
Doraemon is a classic manga, and does not use the technique of physically transforming the characters. However, if this were a relatively recent manga, perhaps Nobita would transform into a middle-aged gentleman, dressed as an appraiser or critic, with swept back hair and a pipe, or in Japanese-style clothes and sporting a beard, saying “what nice workmanship” with a meaningful glint in his glasses.
* * *
(1) Patalliro! is a comedy manga in the “shonen-ai” genre. It focuses on Patalliro, the 10-year old king of a fictional country, his assassin Maraich and bodyguard, Bancoran. It has proven incredibly successful, running from the late 1970s up to the present day.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 12
2010年 5月 30日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)变身!
说话人要进行某种交际行为时,擅长这种交际行为的角色形象就会被说话人启动,这是上节我讲到的交际行为和角色形象的原则性联动。
另外,这里所说的“交际行为”不仅仅是指说话这种语言行为,还包括“媚眼秋波”“慢慢地蹭近对方”“掐对方的大腿”等这些非语言行为。
也就是说,角色形象的变化不仅仅表现在语言方面,包括身体动作在内的其他方面也会受到影响。了解这一点,我们就会更加加深对风靡世界的日本漫画内容的理解。
例如,魔夜峰央写的《巴得利奥(PATARIRO)!》第4卷(1980,白泉社)里,主人公10岁国王巴得利奥(Patariro)狠狠地取笑了一个叫摩利(Maraihi)的人后,被摩利骂成是“压扁的豆包”,于是巴得利奥很生气,便去找摩利的碴儿。
虽然巴得利奥是小个孩子,但找碴儿时的画面却突然使用了关西方言。
“えらい言われ方やんけ われ(Erai iwarekata-yanke Ware 你说得可真难听啊,小子)”
脸颊上也不知什么时候有了刀伤、叼着烟嘴儿、戴着墨镜、穿着非常花哨的衣服等,变身成了人们印象中的日本关西地区黑社会的样子。但紧接着的下一个画面,却好像什么事也没发生一样,巴得利奥又回到了原来的(说日语普通话的)小孩子的样子。
对于这种“画面之间的快速变身”,其他国家的读者也许会感到很困惑,觉得是个不解之谜。那么,作为日本人的我们为什么不觉得这是个谜,马上就能理解呢?
这是因为我们知道交际行为和角色形象在原则上是联动的,而且常识中我们也会很容易想到“‘找碴儿’这样的交际行为是黑社会的擅长行为”。在向摩利找碴儿这个画面上,巴得利奥启动了擅长找碴儿的“关西地区黑社会”这一角色形象,这是从语言行为到非语言行为都受到影响的画面。
藤子・F・不二雄写的《哆啦A梦》第7卷(1975,小学馆)里有这样的场面,大雄从哆啦A梦那里将未来世界的东西骗到手后,喜悦不已,在没有人的地方用郑重礼貌的语调自言自语说:
“これはたいへんなものですよ(Kore-wa taihen-na mono-desu-yo 这可是件贵重的东西啊)。”
大雄为什么一个人还用郑重礼貌的语调呢?我们是不是可以这样理解:大雄在品评自己弄到手的东西时,将自己变成了擅于鉴定评价的“专家”或“评论家”等角色形象,做出煞有介事的鉴定,从而更增加了自己的喜悦程度。因为专家或评论家的语调都是郑重礼貌的。
因为《哆啦A梦》属于古典风格的漫画,所以没有采用变身技法,但如果这是最近的漫画的话,大雄也许会变身成为一个梳着背头、吸着烟斗、或穿着日式和服,留着胡子的中老年男性知识分子,还有可能说:
“いい仕事がしてありますねぇ(Ii shigoto-ga shi-te-arimasu-nee 这可是件好东西呀)”(1)
然后眼镜儿上再泛出某种意味深长的光芒,这种形象不用说,是最像专家或评论家的。
* * *
(1) 这句话是日本有名的古董鉴定家中岛诚之助的口头禅,曾获选1996年幽默大奖。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
日本語社会 のぞきキャラくり 第92回
2010年 5月 30日 日曜日 筆者: 定延 利之権威ある有名どころの不自然な文章(上)
夏目漱石の『行人』には、書き手(「自分」)である弟が、兄について語るくだりがある。
自分ばかりではない、母親や嫂に対しても、機嫌(きげん)の好い時は馬鹿に好いが、一旦(いったん)旋毛(つむじ)が曲がり出すと、幾(いくか)日でも苦い顔をして、わざと口を利(き)かずにいた。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変わった様に、大抵な事があっても滅多に紳士の態度を崩さない、円満な好侶伴(こうりょはん)であった。だから彼の朋友(ほうゆう)は悉(ごとごと)く彼を穏やかな好い人物だと信じていた。父や母はその評判を聞くたびに案外な顔をした。けれど矢っ張り自分の子だと見えて、何処(どこ)か嬉(うれ)しそうな様子が見えた。兄と衝突している時にこんな評判でも耳に入(い)ろうものなら、自分は無暗に腹が立った。一々その人の宅(うち)まで出掛けて行って、彼等の誤解を訂正して遣りたいような気さえ起った。
[夏目漱石(1912-13)『行人』]
人前で、兄がいかにも「素」で通しているようでいて、実は密かに取り繕っているもの。その舞台裏を見ている自分が、時折ぶち壊してやりたくなるもの。それはもちろん、兄の『紳士(円満な好侶伴)』キャラである―よしよし、いい調子いい調子。前回も述べたように、この連載で中心に取り上げたいのは、こういうちょっと古い、でも一応「現代日本語」と言えそうな、権威ある有名どころの文章なのだ。
いや、ちょっと待った。『行人』の弟は、兄に対してこんな風な口をきいている。神経を病む兄に「妻の節操を試してほしい。妻と和歌山へ行って一晩泊まってくれ」と言われた場面である。
「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、殊に現在の嫂(あによめ)ですぜ」
「人から頼まれて他(ひと)を試験するなんて、―外の事だって厭(いや)でさあ。況(ま)してそんな……探偵(たんてい)じゃあるまいし」
いくら『目下』としてしゃべるにしても、弟が兄に「~ですぜ」「~でさあ」などと言うのは、現代の感覚としておかしくはないか。
探偵が出てきたついでに言えば、坂口安吾の『不連続殺人事件』の中でも、巨勢(こせ)という若い名探偵が、私淑する作家(私)に対して、次のように「~でさあ」「~ませんぜ」としゃべっている。これも現代の感覚ではちょっと変だろう。
「それが分れば、犯人は分りまさアね。だが、恐ろしく計画的な犯罪ですよ。すべてがメンミツに計算されているのでさ。日本に於(お)ける、最も知的な、最も雄大な犯罪なんでしょうな。この犯人は天才でさアね。インテリ型のケチな小細工がてんで黙殺されいるところなど、アッパレ千万というものでさ。扉を糸に結んで自然にしまる装置をするとか、密室の殺人を装うとか、そういう小細工は小細工自身がすでに足跡というものでさア。すでに一つの心理を語っているではありませんか。この犯人は、常に心理を語ることを最も怖れつつしんでいまさアね。[中略] 目的の殺人はとっくに終っているのかもしれませんぜ」
「この犯人は、八月九日の予告を出したから、必ず八月九日に決行するというバカみたいに義理堅いトンマじゃありませんぜ」
[坂口安吾(1947-48)『不連続殺人事件』]
いかに権威ある有名どころの文章とはいえ、このような不自然なものを取り上げていくことは、日本語とキャラクタの関わりを見る目をかえって曇らせ、両者の関係を歪ませることになりはしないだろうか?(つづく)
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
地域語の経済と社会 第101回
2010年 5月 29日 土曜日 筆者: 田中 宣廣地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第101回「『市』を挙げての方言メッセージ~『おおきに』と『おでんせ』」
この連載も,今回から新たな100回となります。
この記念すべき回の題材として,私が住んでいる,岩手県宮古市の『市』を挙げての方言メッセージ,「おおきに」と「おでんせ」を取り上げます。
使用例の紹介の前に,今回の二つのことばについて説明します。「おおきに」は,「ありがとう」の意味です。「おおきに」というと関西(だけ)のことばかと思われがちですが,東北地方でもよく使うことばです。「おでんせ」は,この連載で何回か(第36回,第61回)取り上げている「いらっしゃい」の意味です。
まず,宮古市役所(前庭)の例を紹介します。「おおきにと おでんせの心が 生む交流」と,高さ5メートルほどの『塔』に,大きく書かれています【写真1】。“『市』を挙げて”と表現した意味がご理解いただけるかと思います。なお,塔の先端の絵は,宮古市のシンボル「鮭」の顔を図案化したものです。

【写真2】ホテル内の売店(左)と料理茶屋(右)
次に,陸中海岸国立公園内の浄土ヶ浜パークホテルの,売店「おおきに」と料理茶屋「おでんせ」【写真2】です。方言ネーミングであり,方言メッセージでもあります。このホテルは,1997年10月の,天皇皇后両陛下の宮古市行幸啓の際の行在所(あんざいしょ)となりました。

【写真3】みやげ物店(上:表側/下:店内側)
また,JR宮古駅に隣接するみやげ物店では,出入り口の両面に示されています。表側,つまりお客が入るとき目に入るように「おでんせ」が,また,店内側,つまりお客が出るとき目に入るように「おおきに」のメッセージが,それぞれ示されています【写真3】。なお,このみやげ物店の店員さんは,『新明解国語辞典』をカウンターに置いて,よく使っているということでした。
このように,市役所,観光地としての代表的ホテル,そして,お客様方がまずは降り立つ駅前に,「おおきに」と「おでんせ」が使われているわけです。どうぞ,一度,宮古さおでんしてくたせんせ。おーきに,どーもどーも,ありがとごぜんす。
皆さん,この先100回も,また,その先も末永く,どうぞ,ご愛読のほど,よろしくお願いします。
* * *
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
田中宣廣(たなか・のぶひろ)
岩手県立大学 宮古短期大学部 准教授。博士(文学)。日本語の,アクセント構造の研究を中心に,地域の自然言語の実態を捉え,その構造や使用者の意識,また,形成過程について考察している。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東北大学大学院文学研究科博士課程修了。著書『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』(おうふう),『近代日本方言資料[郡誌編]』全8巻(共編著,港の人)など。2006年,『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』により,第34回金田一京助博士記念賞受賞。『Marquis Who’s Who in the World』(マークイズ世界著名人名鑑)掲載。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
つなぎ語:新しい話題の導入2―『英語談話表現辞典』覚え書き(21)―
2010年 5月 27日 木曜日 筆者: 内田 聖二前回と前々回は相手の発言を受けてそこからさらに話しを続けていくときに用いられる語句を取り上げました。今回は話し手自身の話のなかで話題をつないでいく語句で、knowが含まれるものを考えてみます。
会話でよく耳にする語句にyou knowがあります。この言い回しの語義については第2回で言及したことがありますが、新しい話題を述べる際に前もって付加する用法があります。本辞典からの引用です。
1 〈新しい話題を持ち出して〉ところで, あのね: You know, I worked in London before I came here. ところで, 私はここに来る前はロンドンで働いていたんですよ.
このyou knowはもともとas you knowから発展したもので(本辞典as you knowの項も参照してください)、これから言うことの前置き表現として用いられ、「知っているとは思いますが」というぐらいのニュアンスがあります。すなわち、古い情報であるかもしれないという但し書きとして、自分の意見、主張を強要しないという控えめな含みがあります。この語句を使うと、新しい情報を述べるときも直接上から目線で伝えるのでなく、クッションのような働きが出てきます。
この基本的なyou knowからさらに疑問文の形式で新しい情報を導入したり、転換する用法があります。次はそれぞれ本辞典の(Do)you know what? とYou know something [what]? の項からの引用です。(この2項目は記述に重複するところがありました)
1 〈新しい話題の前置きとして〉いいかい, あのねえ: (Do) you know what? I think it’s time we should stop working and have something to eat. ねえ, そろそろ仕事を中断して, 何か食べましょうよ // 《冷蔵庫の中をのぞいた後》 “You know what?” “No, what?” “I think this milk is spoiled.” 「ねえ, ちょっと」「何? どうしたの?」「この牛乳悪くなってるよ」.
1 〈相手の注目を引いて〉ところで, ねえちょっと: You know something? I think I can smell something burning. ねえちょっと, 何かこげているにおいがするみたいだよ.
2 〈話題を切り換えて〉ところで: You know what? I’d better pass on the game. I have to go home. ところで, 僕はもうゲームをやめるよ. 家に帰らなきゃならないんだ.
このとき、疑問文への応答が挿入されることがあり、その場合、上の1の第2例のように、相手からの合いの手という形をとるのが普通です。ここで「知ってる」と言ってしまっては話の腰を折ることになります。
また、Do you know what? を通常の疑問文の語順にして独立させた言い方もあります。特に、びっくりするような話題を述べるときに用いられます。日本語の「ねえねえ、知ってる」のニュアンスに近いと言えるでしょう。
2 〈会話の切り出しとして〉ねえ, ちょっと聞いてよ(◆新しい情報を導入する): Hey! What do you know? I’ve hit the lucky number! ねえ, ねえ, 私宝くじに当たったのよ! / 《友だち同士の会話》 “What do you know? I got an A on my math test!” “Great! I knew you did it because you are a diligent student.” 「ちょっと聞いてよ. 私, 数学のテストでAを取ったのよ」「すごい! あなたはがんばり屋さんだからやると思っていたわよ」.
さらに、みかけはknowの目的語の形をとり、コンマで区切って、新しい情報を伝えることにも使われます。
3 〈打ち明け話の前に置いて〉実は…なんですよ: Do you know, I get the idea my boyfriend is seeing another girl. 実は, 彼がほかの女の子と浮気しているような気がするの// My friends gave this necklace to me. And do you know, I’ve worn it every day since. 友だちがみんなでこのネックレスを贈ってくれたの. それから毎日身につけているのよ, 実は.
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【筆者プロフィール】
内田聖二(うちだ・せいじ)
奈良女子大学教授
専門は英語学、言語学(語用論)
主な業績:『英語基本動詞辞典』(1980年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基礎語彙の文法』(1993年)英宝社(衣笠忠司、赤野一郎と共編著)
『関連性理論-伝達と認知-』(初版1993年、第2版1999年)研究社(共訳)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(第2版1994年)小学館(小西友七・安井稔・國廣哲弥・堀内克明編、分担執筆)
Relevance Theory: Applications and Implications, 1998, John Benjamins.(Robyn Carstonと共編著)
『英語基本名詞辞典』(2001年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『ユースプログレッシブ英和辞典』(2004年)小学館(八木克正編集主幹、編集委員)
『新英語学概論』(2006年)英宝社(八木克正編、共著)
『思考と発話』(2007年)研究社(共訳)
『子どもとことばの出会い』(2008年)研究社(監訳)
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【編集部から】
語用論的な情報をふんだんに盛り込んだ、日本発の本格的な発信型会話・談話表現辞典、『英語談話表現辞典』について、編者の内田聖二先生にご紹介いただきます。
書籍購入者は、http://dce.dual-d.netにて本辞典の全データを収録したウェブ版辞典を無料で使用できます。
国語辞典入門:小学生向け辞典 自分に合う辞書の探し方、比較方法
2010年 5月 26日 水曜日 筆者: 飯間 浩明第19回 語釈の「比較リスト」の作り方
学習国語辞典(学習辞典)の語釈について、大まかなところを述べました。そっけない語釈もあれば、くわしくていねいな語釈、あるいは、簡潔ながら要を得た語釈もあります。中には、くわしいか簡潔かという以前に、ほかの辞書をまねたのではないかと疑われる語釈もあります。
以上は、あくまで総論です。これだけでは、どの学習辞典にどのタイプの語釈が多いかまでは分かりません。辞書ごとのタイプの違いを知るには、どういった語に注目して辞書を比較すればいいかという「比較語リスト」を作っておくと便利です。
リストなしで、思いついたことばを片っ端から引き比べるというのでもかまいませんが、基づくものが何もなければ、公平な比較にならないおそれがあります。
たとえば、「作曲」をA辞典・B辞典で引いてみると、こんな具合です。
〈曲を作ること。〉(A辞典)
〈音楽の曲をつくること。また、詩にふしをつけること。〉(B辞典)
また、「悲哀」はこんな具合です。
〈悲しみ。あわれ。〉(A辞典)
〈〔しみじみとかんじられる〕かなしさやみじめさ。〉(B辞典)
この結果からは、「A辞典は語釈が簡単、B辞典はくわしい」と考えたくなります。でも、それは早計です。次に、2つの外来語を比べてみます。まず、「キー」はこうです。
〈1 かぎ。2 問題などを解く手がかり。3 オルガン・ピアノ・コンピューターなどの、指でおす所。〉(A辞典)
〈1 かぎ。2 ピアノ・オルガンなどの、指でおすところ。けんばん。〉(B辞典)
また、「リンク」はこうです。
〈1 いくつかのものごとを結びつけること。2 インターネットで、ホームページなどから別のページに移ることができるようにすること。〉(A辞典)
〈むすびつけること。連結させること。〉(B辞典)
形勢が逆転し、今度はA辞典がB辞典よりもくわしいという結果になりました。
ことばの種類ごとに比較する
これはどういうことでしょうか。「作曲」「悲哀」など、一般的な二字熟語は、A辞典よりもB辞典のほうがくわしい場合がやや多い感じです。一方、情報機器の発達などで新しい意味が生まれている場合、A辞典はそれをすくい取っていることがあります。つまり、学習辞典ごとに、どんな種類のことばに重点を置いているかが、微妙に違います。
辞書ごとの重点の違いを知るために使うのが、「比較語リスト」です。いくつかの単語を紙に書いて、それをもとに、店頭で辞書を比較します。リストは、あなた自身が作ります。以下に、どういう種類のことばをリストアップすればいいか、アイデアを記します。
(1)二字熟語 漢字2字を音読みすることばです。「作曲」「悲哀」もそのうちです。硬いことばが多く、意味も抽象的なものが大半です。「威嚇」「空転」「挑戦」「輪郭」など、考えつくことばをリストに加えてみてください。「作曲」は「曲を作ること」という説明で十分か、さらに説明を加えるべきかは、人によって意見が分かれるところでしょう。
(2)感情や様子を表すことば 感情などの微妙な特徴が、うまく説明されていてほしいと思います。「こわい」「おそろしい」の違いが分からない辞書が多いことは述べましたが(第17回参照)、必ずしもそんな例ばかりではありません。「うらやましい」「いら立つ」「しゃくに障る」などの説明が、自分の語感に合うかどうか確かめてください。
(3)新しいことば 社会の変化に伴って、最近使われるようになったことばです。外来語がかなりの部分を占めます。上に述べた「キー」「リンク」の新しい意味もこれに含まれます。必ずしも最新のことばを多く載せる辞書がいいとは思いませんが、情報通信分野などの新語が分かりやすいかどうかは、その辞書のひとつの評価基準になるでしょう。
(4)百科語 理科や社会科など、主に国語以外の授業で習うことばです。たとえば、「小笠原国立公園」「カバーガラス」「砂防ダム」「蜜栓」など。お宅にある学習参考書の索引を使えば、候補がリストアップできます。ただ、現在のところ、百科語を十分にカバーする学習辞典はありません。こういうことばは、百科事典で調べるのが筋だとも思います。
このほか、「そわそわ」「にやにや」などのオノマトペ、「打つ」「掛ける」など多くの意味を持つことば(多義語)がどう説明されているかも知りたいところです。実際に紙に書き出さなくても、これらの注目点さえ頭に入れておけば、比較の作業はできます。
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◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「国語辞典入門」目次へ
◆飯間先生のもう一つの連載は⇒「『三省堂国語辞典』のすすめ」目次へ
◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」
筆者プロフィール
飯間浩明(いいま・ひろあき)
早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)
【編集部から】
これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(27)
2010年 5月 25日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(27) 清少納言の再出仕
長徳2年の里居の時、なかなか再出仕に踏み切れなかった清少納言の気持ちを動かしたのは、やはり中宮定子でした。ある日、定子から送られてきた手紙を開けてみると、山吹の花が一つ包まれていて、その花びらに一言、「いはで思ふぞ」と書かれていました。それは、『古今和歌六帖』という歌集に載っている次の和歌の一句でした。
心には下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる
(私の心の中には、表面からは見えない地下水がわき返っているように、口に出さないけれど、あなたのことを思っています。その思いは口に出して言うよりずっと優っているのです)
この歌がなぜ山吹の花に書かれていたかを解くには、『古今集』に載るもう一つの和歌を思い浮かべる必要があります。
山吹の花色衣ぬしや誰問へど答へずくちなしにして
(山吹の花のような色の衣に持ち主は誰ですか、と聞いても答えません。それはくちなしだからです)
素性(そせい)という歌僧の詠んだ歌です。「山吹の花色衣」は僧侶の黄色い衣の色です。この歌では、黄色の染料の素になる「梔子(くちなし)」の実に「口無し」をかけ、だから答えがない、としゃれています。すなわち、山吹の花と「言はで思ふぞ」の句は「くちなし」つながりというわけで、定子は山吹の花に「言はで思ふぞ」と書いたと考えられます。
口には出さない、でも口に出して言うよりずっと心の中のあなたへの思いは優っている。それは、何も聞かずに清少納言を信頼し包み込む定子の大きな愛情であり、また、出仕要請に応えられないまま、定子の事を思い続けていた清少納言の気持ちでもありました。主従の思いは重なり、清少納言のそれまでの不安は一瞬にして消え去ってしまいます。初出仕の時に魅了されて以来、ずっと慕い続けてきた中宮定子との絆を確認した時、周辺の女房たちの雑音など、清少納言にはもうどうでもよくなったに違いありません。それから間もなく彼女は定子の許に再出仕します。
では、清少納言の長徳2年の里居がいつ頃始まり、どれくらい続いたのかについて考えてみましょう。前々回、里居中の清少納言に源経房が伝えた話では、定子後宮の女房たちは季節の色目の装束を怠り無く身に着けていたということでした。それは朽葉の唐衣に萩や紫苑などの色目でしたから、時節は秋を意識した7月ころと見るのが妥当でしょう。その際、経房が清少納言に出仕を促していたのは、それより前の夏ころから清少納言の里居が続いていたためと推測されます。ちょうど長徳の変が起きた季節になります。
清少納言が再出仕を決意したのはいつ頃でしょうか。文脈としては、経房訪問の後に、里居の理由について作者の心中表白があり、次に定子から山吹の花が送られて再出仕に至ります。ここで、秋と推測した経房訪問の時節と、再出仕の契機となった山吹の花の季節が相違するという問題が発生します。そこで、山吹は春の花ですが、これは秋の返り咲きの山吹だったのだとか、造花を使ったのだとかいう説が出されています。
しかし私は、定子が送った山吹の花は本来の季節である春に咲いたものだと考えます。経房訪問の後も里居を引き延ばしているうちに季節が移り変わったのです。その場合、清少納言の里居期間は長徳2年夏から翌年春までの一年近くに及ぶことになりますが、この時、清少納言はそれだけの時間をかけて、宮仕え生活断絶の危機をしっかりと乗り越えたのではないかと考えています。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
かこつけて(3)―ライン河の丈くらべ―
2010年 5月 24日 月曜日 筆者: 新井 皓士クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(92)
細かい日付は忘れてしまったが、3月の『朝日新聞』に「ライン川、本当は90キロ短かった」というベルリン特派員(支局長?)の記事が載っていた。ネタは『南ドイツ新聞』などらしいから、日本の他の新聞にも類似記事がみられたかもしれない。亡くなった友人に朝日のボンやヴィーンの支局長(といっても、部下は臨時・現地雇いらしかった)などを務めた大阿久という男がいたが、「ヨーロッパ関係の記事をセッセと送っても、日本ではアメリカが中心で大概ボツさ」と、ぼやいていた表情や、当時ドイツ連邦共和国の(暫定)首都はボン、今はとうとうベルリンか、などと妙な感慨にしばしふけっているうち、ふと湧いた心配の一滴がにわかにその輪を広げ始めた。というのは、15年ほど前に『ドイツ・ラインとワインの旅路』という本を出したことがあり、津田さんという写真家のすてきな画像を多くふくむ、まずまずの(?)本なのだが、誤植が幾つかあり、直したいとは思っても、今は古ボンしかないらしい。まぁ知らぬ顔の半兵衛でもよいようなものの、たしか源流行に関連してライン河の長さのことにもふれたはず、もしや間違ったことを書いてはいないか、気になりだしたのだ。本棚の隅から念のため残しておいた修正用の一本を取り出し……以下は、日付を忘れた記事切抜きと小著該当部分の引用だが……
「独メディアによると、独西部ケルン大学の研究者がライン川に関する本を執筆するため、20世紀初めごろの文献を調査していたところ、これまで定説とされてきた1320キロより短い、1230キロとの記述を見つけた。独の公文書などはライン川の長さを1320キロとしていたが、実際に最新の地図などで確認したところ、1233キロ前後であることが判明したという。調査では1932年に出版された事典に、百の位と十の位を取り違えたと見られる「1320キロ」の記述があった。60年ごろには間違った長さの1320キロがほぼ定着してしまったようだという。」
「こう書いて僕はふと疑問にとらわれた。ライン河は1320キロメートルと大概の本に書いてある。源流なるトゥマ湖の地図の裏にも確かそう載っていた。(中略)僕はなんだか落ちつかなくなって、ドライブ・マップと、その上をなぞれば距離換算ができる歯車つき計測器を取り出した。あまり正確ではないが、糸とピンを使うより手軽な、僕自慢の小道具だ。これで図面をたどってみると、どうやらコンスタンツから北海にそそぐ河口まで、2000キロ前後であるらしい。源泉からコンスタンツまでは2百数十キロ。給与額を見て喜んでいたら、税金や年金積立分をゴソッと引かれて、がっかりしたような気分である。」


どうやら完全には間違いではない、身びいきでいえば、結構いい線をいっているようにもみえる。約千キロと2**キロを足せば、1320より1233に近いからだ。少しほっとしたのだが、もう少し考えてみると、ライン河の長さというとき、ボーデン湖の部分やオランダに入ってからの所謂デルタ地帯の部分をどう計測・加算するか、という問題があって、「正確には」決定できないのではないか、とまた余計な心配(?)が生じてしまった。もっとも、地球温暖化の影響はともかくとして、細かいことを言い出すときりがないかもしれない。ドナウ河についても『理科年表』―4年ほど前のものだが―には2850キロとあるが、これも数種の説があることは小著でもふれている。源流と河口の確定は、誕生と他界の社会的認定より実は厄介なのかもしれない。19世紀に大規模な河川整備工事が行われて、エルザス帰属問題もからむ「オーバーライン」が82キロほど短くなったことだけは確かだが。
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【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員
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【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。
An Unofficial Guide for Japanese Characters 11
2010年 5月 23日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 10
The Essence of character change

Previously, I stated that changing one’s character within the context of “play” is no cause for embarrassment. However, even in “play” changes of character do not just occur randomly. Essentially, character changes occur in connection with communicative behavior.
For example, in Makoto Shiina’s novel Aishuu no Machi ni Kiri ga Furu no da(Vol. 1) (1981), the protagonist (Makoto Shiina) says: “Sokode ore wa shizuka ni tachiagatta. Mou ‘boku’ nante itteirarenai.” (Then I (ore) stood up quietly. No longer able to say “I” (boku)(1)) describing a situation in which his character undergoes change. The occasion for this character transformation was that Shiina, angry at the person with whom he was talking, stood up to take action —in other words, to embark on a more violent kind of communicative behavior.
In the same work, Shiina again transforms from using the first-person pronoun ore to boku, explaining that he does so because he was “trying to write a love story about a man and a woman.” It seems that if he tried to write a love story using ore, he would have to open with a foggy dockside in a hardboiled style, but in thinking about his own behavior regarding love (for that too is communicative behavior), this pronoun just didn’t fit.
In other words, each character has a communicative behavior at which that character is particularly skilled. When the speaker wishes to engage in a certain communicative behavior, he deploys the character that is skilled at it. For violent communicative behavior, he deploys the ore character. In situations where a hardboiled approach is inappropriate, the boku character is deployed instead.
Within this same work, Shiina transforms into other characters as well. Shiina’s friend Shinsuke Kimura, wanting to pass the National Bar Examination, tries to have a prefab shed put up in his yard so that he can study there. In what could only be an attempt to lure Kimura into delinquency, Shiina invites him to rent an apartment and live together with their friends. How does Shiina he follow up this invitation?
Leering, he sidles up to Kimura, and says “Sentoo nanka ni haitte, shogi yatte katsudon tabemashoo yo, nee” (let’s go to bath houses, play shogi, and eat katsudon(2)) pinching him on the knee. His comportment is “alluring” and “seductive,” like that of the “bar hostess” character that he is deploying.
Kimura, enticed into the communal lifestyle and finding himself forced into kitchen duty, asks his friends to at least buy him an apron, as he doesn’t want to get his nice shirts dirty. Shiina and his friends grant this request. Kimura says “Ureshii waa,“(3) (thanks!) and “be coquettish with an air of semi-desperation.” This probably indicates that Kimura was deploying a “housewife” character, whose special skill was “to be pleased at receiving a kitchen apron.”
Obviously, it is unusual for a man to take on feminine characters, such as the “bar hostess” or “housewife” outside of the context of joking (i.e. play). When he attempts to use such characters, he will usually be stopped by an inner voice, telling him, “This won’t do! How embarrassing for me, a guy, to deploy this character.” The part of him that is embarrassed, and halts the activity, is his persona (part 4).
When the speaker wishes to engage in a certain communicative behavior, he deploys the character that is skilled at it; in most cases, the link between the communicative behavior and character is under the control of the speaker’s persona, and can be inhibited by it. This link is what I mean by “essence.”
* * *
(1) Ore and boku both mean “I” in Japanese. Both pronouns are generally used by men. While boku is just an informal way of saying “I,” ore is considered rather rough and hardboiled.
(2) A deep-fried pork cutlet served in a bowl on top of steamed rice. The word katsudon is a portmanteau of tonkatsu (pork cutlet) and donburi (an oversized rice bowl).
(3) Again, the use of “wa” at the end of a sentence gives it a feminine tone.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 11
2010年 5月 23日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)角色形象改变的原则

上节说到了在开玩笑即“玩儿玩儿”的上下文中,即使改变角色形象也没有什么难为情的。但是即使是“玩儿玩儿”,角色形象的改变也不是不受制约的。角色形象的改变,其原则是要与社会交际行为形成联动。
比如在椎名诚写的《雾降于哀愁之镇(上)》(1981)里有一段写道,“そこでおれは静かに立ちあがった。もう《ぼく》なんて言っていられない(Sokode ore-wa shizuka-ni tachiaga-tta。Moo 《boku》 nante i-tte-i-rare-nai 于是,(粗暴强势的)我静静地站了起来,(这时)再也不能用“(谦逊弱势的)我”来称呼自己了)。”,主人公(椎名)从“ぼく(boku (谦逊弱势的)我)”变成了“おれ(ore(粗暴强势的)我)”。之所以产生这一角色形象的变化,是因为主人公(椎名)在和对方说话过程中,对方的态度让他感到非常生气,他站起来准备动手,即准备采取暴力性的交际行为方式,具有粗暴强势意义的第一人称代词“ore(我)”正符合这一角色形象。
在这部作品中,还有第一人称代词由“おれ(ore (粗暴强势的)我)”变成“ぼく(boku (谦逊弱势的)我)”的部分,对于这种变化,作者椎名诚解释说,是因为要写男女之间的爱情故事”。并进一步解释说,用“おれ(ore (粗暴强势的)我)”来写爱情故事的话,开头必须设定为笼罩着雾气的码头,这样带有冷酷色彩的场面。但是,考虑到自己的与恋爱有关的行为(这也是一种交际行为),用“おれ(ore (粗暴强势的)我)”好像怎么都不合适。
综上,也就是说,每个角色形象都有自己所擅长的交际行为。说话人要进行某种交际行为时,擅长这种交际行为的角色形象就会被说话人启动。要进行暴力性的交际行为时,擅长这一行为的“おれ(ore (粗暴强势的)我)”就会被启动。冷酷强势不起来时,“ぼく(boku (谦逊弱势的)我)”就会得到启动。
另外,在这部作品中,椎名还以别的角色形象出现过。椎名的朋友木村晋介为了通过司法考试,甚至在院子里建起了专用的简易房准备专心学习。椎名却到木村那里,对木村说“大家一起在外面租房子住吧”,这简直是诱人入歧途的行为。那么,椎名是如何达成目的的呢?
椎名媚眼秋波地看着木村、从自己坐着的位置慢慢地靠近木村,暧昧地说“去澡堂泡完澡后,下下象棋,然后吃炸猪排盖饭怎么样?好嘛—”,边说着还用手掐了一下木村的腿。这种“勾引”,“诱惑”的动作本来是“风尘女子”所擅长的,我们可以说是椎名启动了这一角色形象做出了以上表现。
木村受椎名“勾引”和大家住在一起以后,做饭竟然成了他的活,“衬衫湿了可不行,至少也得给我买一件烹调服吧”椎名等人答应了木村之一要求。于是,木村“好高兴呀!”、及“近乎自暴自弃似的做出了媚态”。这些动作行为可以说是“给买了烹调服很高兴”的“主妇”所擅长的,木村正是启动了这一角色形象做出了以上表现。
当然,除了朋友之间开玩笑(也就是“玩儿玩儿”)之外,一般的男性是不会启动(扮演)“风尘女子”“主妇”等角色形象的。当“风尘女子”“主妇”角色形象将要启动时,马上就会想“不行,不行。我是男人,启动这样的角色形象,简直是无地自容”进而中止,中止这种启动的、一旦启动了就会觉得无地自容的东西,就是我们所说的人格(第4节)。
“说话人在进行某种交际行为时,会启动擅长这一行为的角色形象”这一交际行为与角色形象的联动,往往在很多情况下时受到人格制约的,由于受到人格的阻碍这种联动往往难以进行。我所说的“联动是‘原则’”指的就是这个意思。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
日本語社会 のぞきキャラくり 第91回
2010年 5月 23日 日曜日 筆者: 定延 利之キャラクタ考察の方法論(下)
「キャラクタ」という考えを受け入れなければ説明できないと思える事例は、ごく最近の動画や文字資料にも豊富に見つかる。前回はその一例として「嵐」の櫻井翔氏の発言や、浅井尚子氏の『お魚菜時季』を示したわけだが、そういうものは、おじさん、この連載ではあんまり取り上げないの。
いやいや。そういうのが嫌いってわけじゃないよ。「嵐」なんか、ファンクラブに入ってるぐらいだもん。うん、ウソだけど。でも『お魚菜時季』なんか、連載68が欠番だとか、浅井水産はあのビルの1階だとか、好きでよく知ってるもん。これはホント。(マニアかな。。。)
じゃあ、なんで最近のものを取り上げないのかっていうと、そういうのをいっぱい出したら、誤解されて、「現代若者論」ってやつに絡め取られちゃうから。「なるほど。櫻井という若者のように、いまどきの連中は「自分」というものがしっかりできていないということですな」「いまの若者は、浅田という人のようにことばが乱れて、「自分」らしい一貫した文章が書けなくなっているわけね」みたいに。いくら「違います。これは最近の若者にかぎった話じゃないんです。私たちは昔からこうだったんです」って言っても、きいてくれないの。おじさん、知ってるもん。
かといって、こういう例も、おじさんはあんまり取り上げたくないの。
また、さもあるまじき老いたる人、男などの、わざとつくろひひなびたるはにくし。
おなじことなれどもきき耳ことなるもの。法師の言葉。をとこのことば。女の詞。下衆の詞には、かならず文字あまりたり。
[清少納言『枕草子』池田亀鑑校訂, 岩波文庫]
「そう年寄りでもない人や男なんかが、わざと田舎くさく取り繕っているのは気にくわない」「同じ内容でも、僧侶の言い方と男の言い方、女の言い方で印象が違う。ゲスな人の言い方は必ずくどい」みたいな、2つともやっぱりキャラクタに関わってる話だけど、古いもん。こういうのを取り上げると「なるほど。平安時代はねー」とか「そうそう、清少納言はさー」って、その時代論とか筆者論の方に持って行かれかねないし、だいたいみんな「古くせェー!」って逃げてっちゃうじゃん。おじさん、知ってるもん。
だからこの連載では、「キャラクタは私たちの日本語社会に深く関わっている」ということをみんなに思い当たってもらうために、たとえば谷崎の小説がどうとか、太宰の脚本がこうとか、「現代」だけどやや古い、権威ある有名どころの人たちの文章を中心に取り上げてんの。わかる? おじさんの趣味はあくまで「嵐」なんだけどね。くどいか。
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
地域語の経済と社会 第100回
2010年 5月 22日 土曜日 筆者: 大橋 敦夫地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第100回「上越(新潟県)の「方言ソング」」
『麦畑』(オヨネーズ 1989)『小麦ちゃん』(オヨネーズ 1990)によって、「方言ソング(方言を体系全体として忠実に写したタイプの歌)」は、一般になじみのあるものとなりました。第98回の各地の方言による愛の告白CDもその流れにあるものと言えるでしょう。
今回ご紹介する『だすけ、せったねかね』は、まさに「方言ソング」の王道を行くものです。
作詞・作曲は、宮尾俊行さん(新潟県上越市中郷区。編曲は中島昭二さん)。雪国の生活風景を上越地域の方言と特徴あるメロディーで表現。リフレインされる曲名の「だすけ、せったねかね」[=だから言ったじゃないですか]は、耳に残ります。
なお、CDの吹き込みも、宮尾俊行さんが担当。ネイティブの発音が堪能できます。
だすけ、せったねかね
(セリフ)
おらやだわー
どーしんだろー
せーつないわー一
*だすけ、せったねかね せったねかね
えっせだせって せったねかね
見てみないや えっせな雪だろねたまげなったかね なあ、父ちゃん
家族総出で 雪掘りしんきゃ
女のオラも 尾根上がるかね(*印 くりかえし)
歌詞カードに共通語訳がないので、補っておくと「えっせ」[=すごい]となります。二番以降にも「へんね」[=昼寝]、「しんのい」[=しんどい]、「ごっつぉ」[=御馳走]、「しょーしっくらしー」[=きまりが悪い]など、上越地域のことばがいくつも出てきます。
雪かきではなく、「雪掘り」という表現が、いかにも豪雪地帯を感じさせる表現ですね。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
大橋敦夫(おおはし・あつお)
上田女子短期大学総合文化学科教授。上智大学国文学科、同大学院国文学博士課程単位取得退学。
専攻は国語史。近代日本語の歴史に興味を持ち、「外から見た日本語」の特質をテーマに、日本語教育に取り組む。共著に『新版文章構成法』(東海大学出版会)、監修したものに『3日でわかる古典文学』(ダイヤモンド社)、『今さら聞けない! 正しい日本語の使い方【総まとめ編】』(永岡書店)がある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
明解PISA大事典:フィンランド型教育からみた漫画、教科書の挿絵
2010年 5月 21日 金曜日 筆者: 北川 達夫第38回 ViewingとReading
日本のストーリー漫画がティーンに大人気のフィンランドであるが、現時点で漫画を「よくないもの」とする論調は表立っては存在しない。これには多分に日本文化に対する敬意が作用しているような気がしないでもない。あるいは遠慮なのかもしれないが、いずれにしてもありがたいことである。
昨今のフィンランドでは、日本の漫画のみならず、宮崎アニメも大人気であり、特にメディア教育関係者からの評価が高く、さまざまなかたちで教育現場に入り込んでいる。そういった事情に関連しているのだろうが、フィンランドでメディア教育関係者と接触すると、「日本の小学校や中学校では、どのようにして漫画やアニメの制作技術も教えているのか?」という、ちょっと不思議な質問を受けることが多い。質問の意図を問うと、「漫画やアニメは日本の優れた文化であり、それを継承・発展させるための措置が義務教育の段階からなされているのではないか、というあたりに興味がある」とのこと。なるほど。この生真面目さがフィンランド人の身上である。漫画やアニメを素材として用いるだけではなく、その制作技術も小学校から学ぶ――やってみたらどうだろうか?
漫画を「よくないもの」とする論調は表立っては存在しないが、裏ではいくらでも存在する。学校の先生たちの話を聞いていると、「暴力シーンが多すぎる」という批難が多いが、「あんなもののどこがおもしろいんだ?」というミもフタもない批難も少なくない。ただ、後者の批難については、フィンランドの、特に年配の先生にとっては、日本の漫画の読みかた自体がよく分からないということに起因する部分もあるようだ。フィンランドの本はすべて左開きであるのに対し、日本の漫画だけが右開きであるため、フィンランド人が漫画を手にすると必ず裏表紙から読み始めようとする。また、日本の漫画の独特なコマ割りも、複雑怪奇というイメージを与えるようだ。
フィンランド国語教育の重鎮メルヴィ・バレ先生(1)は「漫画を読むこと自体は悪くない。だが、漫画だけしか読まない、というのを許してはならない」としている。バレ先生は日芬友好協会の古参の会員でもあり、「漫画は日本のすばらしい文化だ」と声高に主張する立場なのである(とはいえ、本人は漫画を読まない。やはり読み方がよく分からないのだそうだ)。
では、なぜ「漫画だけしか読まない、というのを許してはならない」というのか?
この点について、バレ先生はフィンランドの国語教材作法と関連付けて説明しており、なかなか興味深い。フィンランドの国語教材作法(小学校)においては、挿絵と文章の関係について詳細な段階設定がなされている。「挿絵から情報を取り出す」「文章から情報を取り出す」「挿絵と文章の情報を統合して解釈する」技能を特に重視しているためだ。
挿絵と文章の関係について、フィンランドの国語教材作法(小学校)を簡単に紹介することにしよう。
1~2年生の教科書では、素材全体に占める挿絵の比率が高く、挿絵から取り出せる情報も多い。挿絵と文章の情報を統合して一つの物語を創っていくことを重視しており、その意味では絵本の読解に近い。また、この段階では、挿絵においても、文章においても、人間と動物が同等の存在として登場してもよいことになっている(2)。
3~4年生の教科書では、挿絵の比率がやや低くなるものの、「物語性のある挿絵」を付することになっており、依然として挿絵から取り出せる情報は多い。挿絵から取り出せる情報と、文章から取り出せる情報の比較が重要であるため、「挿絵からは分かるが、文章からは分からないことは何か」という課題が定番である。この段階から、文章においては人間と動物が同等の存在として登場することは許されなくなる。物語の内容が現実にありうることか、現実にはありえないことかをクリティカルに判断させるためである。ただ、移行をゆるやかにするため、3年生の前期(秋学期ともいう。8月末~クリスマスまで)の単元では、挿絵でのみ人間と動物が同等の存在として登場している教科書も存在する(3)。
5年生以上の教科書では、挿絵は抽象的なイラストとなり、登場人物や場面のようすがうかがわれるような挿絵はほとんど用いられなくなる。文字情報だけを手がかりにして、登場人物や場面のようすを推論する技能を重視するためだ。ここから、挿絵や写真や図表やグラフなど、視覚的な素材から情報を取り出す技能は、メディア教育の単元へと移管されていくのである(4)。
このようなプロセスを経て成長してきたのに、ティーンになって漫画ばかりを読むのは、最初の絵本の段階に逆戻りするようなものだ、とバレ先生は言う。漫画しか読まなくなると、本を読まなくなる、さらには本を読めなくなるというのは、そのあたりにも原因があるかもしれないと言う。もちろん漫画を読むこと自体が悪いのではない。漫画だけしか読まないというのがいけないのだ、と改めて強調しつつ――。
こういった議論を聞くと、なんとなく懐かしいような感じがする。いまの日本は、本も売れず、漫画も売れない時代に突入しているからである。フィンランドの漫画をめぐる議論自体は、特に日本の参考にはならない。だが、これをViewingとReadingの議論として眺めると、実に興味深いのである。
* * *
(1) メルヴィ・バレ先生については第27回の注を参照⇒「第27回 フィンランド紀行7」の注へ
(2) 『フィンランド読解教書』(メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2008年)を参照。
(3) 『フィンランド国語教科書 小学3年生』『フィンランド国語教科書 小学4年生』(メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2006年・2005年)を参照。
(4) 『フィンランド国語教科書 小学5年生』(メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2007年)を参照。
* * *
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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)、組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。
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【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。金曜日に掲載しています。
人名用漢字の新字旧字:「恵」と「惠」
2010年 5月 20日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第64回 「恵」と「惠」
新字の「恵」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「惠」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。つまり「恵」も「惠」も出生届に書いてOK。でも「恵」と「惠」には、裁判所の微妙な判断があったのです。
昭和23年1月1日の戸籍法改正で「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。常用平易な文字の範囲は、命令でこれを定める」という条文が加わりました。同じ1月1日に施行された戸籍法施行規則で、子供の名づけに使える漢字は、この時点の当用漢字表1850字に制限されました。旧字の「惠」は、当用漢字表に収録されていたので、子供の名づけに使ってよい漢字になりました。しかし、新字の「恵」は、当用漢字表には収録されていなかったので、この時点では子供の名づけに使えませんでした。
ところが、昭和24年4月28日に内閣告示された当用漢字字体表には、旧字の「惠」の代わりに新字の「恵」が収録されていました。この結果、新字の「恵」が当用漢字となり、旧字の「惠」は当用漢字ではなくなってしまいました。当用漢字表にある旧字の「惠」と、当用漢字字体表にある新字の「恵」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、旧字の「惠」も新字の「恵」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。法務府は、旧字の「惠」も新字の「恵」も、両方とも「常用平易な文字」だと判断したのです。
しかし、昭和45年12月23日に福島家庭裁判所が下した審判は、「常用平易な文字」に対する法務府民事局の回答を覆すものでした。この家事審判は、生後まもない子供を養子にした養父母が、実父がこの子供に名づけた「洋子」という名に代わって、養父の名「一惠」の一字を取った「惠子」と命名しなおしたい、と申立てたものでしたが、福島家庭裁判所は養父母の申立を却下しました。却下理由の一つとして福島家庭裁判所は、「惠」は「常用平易な文字ではない」のでそもそも子供の名づけに使えない、と判示したのです。
福島家庭裁判所の決定を不服として、養父母は仙台高等裁判所に即時抗告しました。ただし、養父母は申立を一部変更していました。「洋子」でも「惠子」でもなく「恵子」と命名しなおしたい、と申立てたのです。しかし、仙台高等裁判所は昭和46年3月4日、抗告を棄却しました。養子にするたびに名を変えていたのでは、名の安定性という点からも社会秩序という点からも不幸だ、と仙台高等裁判所は判断したのです。養子にした際に氏名のうち氏は変わっているのだから、名までも変えるべきではない、という判断でした。ただし、福島家庭裁判所が「惠」を「常用平易な文字ではない」としたことに関しては、これを追認せず、旧字の「惠」そのものに関する判示はおこないませんでした。
昭和56年10月1日、新字の「恵」は常用漢字になりました。同じ日に、旧字の「惠」は人名用漢字になりました。それが現在も続いていて、「恵」も「惠」も出生届に書いてOKなのです。
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【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。
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2007年









