漢字の現在

第64回 お金の漢字の最終回

筆者:
2010年5月13日

戦前に、ブラジルで行われていた貨幣単位「ミル・レイス(レース・レーイス)」は、そのポルトガル語でmilが1000を意味することから「」という字で書かれたことがあった。まだ、「伯剌西爾」という表記が流通していた当時、日本とは地球の裏側にあるような外国の地で印刷された邦字新聞に、これが活字で印刷されているのを見たことがある。日系人の間の一種の「国字」なのであった。あるいは根底には、貨幣単位の「銭」(セン)の部首や発音、意味などに基づくところもあったのだろうか。何とか漢字1字で貨幣単位を表記しようと言う意識が、こうした苦心作を生み出したのであろう。


ベトナムは、第61回でも触れたとおり「ドン」が通貨の単位となっている。これは漢字圏において、さすがに「圓」とは別系統の語であった。かつて銅貨を用いていたところから、「銅」のベトナム漢字音による漢越語「ドン」(đồng)が、そのまま通貨単位となっているのであり、通貨記号は「₫」とされている。[d]という音を表すために「d」の上部に横線を貫いたものがチュークオックグーと呼ばれるベトナム語のローマ字ですでに用いているために、下線を引くことで、両者を区別しているようだ。

ベトナムのドンという言い方などからみて、日本語ではそれが「銅」という字の漢字音であったことは忘れ去られ、「ドン」と現地の発音をほぼそのままに外来語として受け入れていることが明白だ。韓国では「동」と元の漢字「銅」のように読んでいる。ここには漢字音主義のなごりがあるのだろうか。そして中国では、何と「盾」(dung4 ドゥン)という字で表現されている。漢語に対して、別の漢字を当てているかのようである。声調は似ているが、韻母に「ong」と「un」の差があり、「音訳」とされると気に掛かってしまう。インドネシアのルピアなども、中国語では「盾」と訳されるので、あるいはかつてのギルダー(これは漢和辞典などでお馴染みの「訓」)に対する訳語が転用されているという可能性はないだろうか。

日本では株式市場などで、「円」の下に「銭」(セン)という単位がときおり登場する。このように、漢字圏各国では通貨に補助単位も存在している。たとえば、香港の「港元」の「仙」は、ドルの下のセントへの当て字によるものだろう。そうすると日本の「銭」と共通点が現れてくる。ここでも大隈重信侯(公)が、ドルの下のセントの発音に合わせた機知で、江戸時代の「銭」をそのまま採用させて定着に一役買った、との話が伝えられている。韓国でも「銭」(チョン)があったが、中国からの直接の影響ではなかったとすれば、セントの影響は、そこまで広まったということになる。

単位や補助単位がさらに異称・異表記をもつこともある。それぞれに来歴があり、互いに共通点・相違点があるのだが、使われる機会が減っており、また話がどこまでもややこしくなっていく。さらに、マカオ(澳門)地区で行われる貨幣もある。マカオでは香港ドルも流通しているそうだが、パカタつまり澳門幣は澳門元、葡幣とも呼ばれ、その単位「圓」(圆)は広東語ではやはり「蚊」となり、その1/100が「仙」である。また、ベトナムではかつてピアストルを使っていた時期があった。それは銀を意味するバク(bạc)で表現され、チュノムで書くと形声文字で、「鉑:」となり、近代中国でのプラチナという元素への訳字とたまたま字体が一致している。そうしたことなど、気にかかることは尽きない。しかし、新年度に入ったのにお金の話をあまりに続けるのも何なので、もうこのくらいにしておこう。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。