人名用漢字の新字旧字

第64回 「恵」と「惠」

筆者:
2010年5月20日

新字の「恵」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「惠」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。つまり「恵」も「惠」も出生届に書いてOK。でも「恵」と「惠」には、裁判所の微妙な判断があったのです。

昭和23年1月1日の戸籍法改正で「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。常用平易な文字の範囲は、命令でこれを定める」という条文が加わりました。同じ1月1日に施行された戸籍法施行規則で、子供の名づけに使える漢字は、この時点の当用漢字表1850字に制限されました。旧字の「惠」は、当用漢字表に収録されていたので、子供の名づけに使ってよい漢字になりました。しかし、新字の「恵」は、当用漢字表には収録されていなかったので、この時点では子供の名づけに使えませんでした。

ところが、昭和24年4月28日に内閣告示された当用漢字字体表には、旧字の「惠」の代わりに新字の「恵」が収録されていました。この結果、新字の「恵」が当用漢字となり、旧字の「惠」は当用漢字ではなくなってしまいました。当用漢字表にある旧字の「惠」と、当用漢字字体表にある新字の「恵」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、旧字の「惠」も新字の「恵」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。法務府は、旧字の「惠」も新字の「恵」も、両方とも「常用平易な文字」だと判断したのです。

しかし、昭和45年12月23日に福島家庭裁判所が下した審判は、「常用平易な文字」に対する法務府民事局の回答を覆すものでした。この家事審判は、生後まもない子供を養子にした養父母が、実父がこの子供に名づけた「洋子」という名に代わって、養父の名「一惠」の一字を取った「惠子」と命名しなおしたい、と申立てたものでしたが、福島家庭裁判所は養父母の申立を却下しました。却下理由の一つとして福島家庭裁判所は、「惠」は「常用平易な文字ではない」のでそもそも子供の名づけに使えない、と判示したのです。

福島家庭裁判所の決定を不服として、養父母は仙台高等裁判所に即時抗告しました。ただし、養父母は申立を一部変更していました。「洋子」でも「惠子」でもなく「恵子」と命名しなおしたい、と申立てたのです。しかし、仙台高等裁判所は昭和46年3月4日、抗告を棄却しました。養子にするたびに名を変えていたのでは、名の安定性という点からも社会秩序という点からも不幸だ、と仙台高等裁判所は判断したのです。養子にした際に氏名のうち氏は変わっているのだから、名までも変えるべきではない、という判断でした。ただし、福島家庭裁判所が「惠」を「常用平易な文字ではない」としたことに関しては、これを追認せず、旧字の「惠」そのものに関する判示はおこないませんでした。

昭和56年10月1日、新字の「恵」は常用漢字になりました。同じ日に、旧字の「惠」は人名用漢字になりました。それが現在も続いていて、「恵」も「惠」も出生届に書いてOKなのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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