日本語社会 のぞきキャラくり

第92回 権威ある有名どころの不自然な文章(上)

筆者:
2010年5月30日

夏目漱石の『行人』には、書き手(「自分」)である弟が、兄について語るくだりがある。

自分ばかりではない、母親や嫂に対しても、機嫌(きげん)の好い時は馬鹿に好いが、一旦(いったん)旋毛(つむじ)が曲がり出すと、幾(いくか)日でも苦い顔をして、わざと口を利(き)かずにいた。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変わった様に、大抵な事があっても滅多に紳士の態度を崩さない、円満な好侶伴(こうりょはん)であった。だから彼の朋友(ほうゆう)は悉(ごとごと)く彼を穏やかな好い人物だと信じていた。父や母はその評判を聞くたびに案外な顔をした。けれど矢っ張り自分の子だと見えて、何処(どこ)か嬉(うれ)しそうな様子が見えた。兄と衝突している時にこんな評判でも耳に入(い)ろうものなら、自分は無暗に腹が立った。一々その人の宅(うち)まで出掛けて行って、彼等の誤解を訂正して遣りたいような気さえ起った。

[夏目漱石(1912-13)『行人』]

人前で、兄がいかにも「素」で通しているようでいて、実は密かに取り繕っているもの。その舞台裏を見ている自分が、時折ぶち壊してやりたくなるもの。それはもちろん、兄の『紳士(円満な好侶伴)』キャラである―よしよし、いい調子いい調子。前回も述べたように、この連載で中心に取り上げたいのは、こういうちょっと古い、でも一応「現代日本語」と言えそうな、権威ある有名どころの文章なのだ。

いや、ちょっと待った。『行人』の弟は、兄に対してこんな風な口をきいている。神経を病む兄に「妻の節操を試してほしい。妻と和歌山へ行って一晩泊まってくれ」と言われた場面である。

「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、殊に現在の嫂(あによめ)ですぜ」
「人から頼まれて他(ひと)を試験するなんて、―外の事だって厭(いや)でさあ。況(ま)してそんな……探偵(たんてい)じゃあるまいし」

いくら『目下』としてしゃべるにしても、弟が兄に「~ですぜ」「~でさあ」などと言うのは、現代の感覚としておかしくはないか。

探偵が出てきたついでに言えば、坂口安吾の『不連続殺人事件』の中でも、巨勢(こせ)という若い名探偵が、私淑する作家(私)に対して、次のように「~でさあ」「~ませんぜ」としゃべっている。これも現代の感覚ではちょっと変だろう。

「それが分れば、犯人は分りまさアね。だが、恐ろしく計画的な犯罪ですよ。すべてがメンミツに計算されているのでさ。日本に於(お)ける、最も知的な、最も雄大な犯罪なんでしょうな。この犯人は天才でさアね。インテリ型のケチな小細工がてんで黙殺されいるところなど、アッパレ千万というものでさ。扉を糸に結んで自然にしまる装置をするとか、密室の殺人を装うとか、そういう小細工は小細工自身がすでに足跡というものでさア。すでに一つの心理を語っているではありませんか。この犯人は、常に心理を語ることを最も怖れつつしんでいまさアね。[中略] 目的の殺人はとっくに終っているのかもしれませんぜ」

「この犯人は、八月九日の予告を出したから、必ず八月九日に決行するというバカみたいに義理堅いトンマじゃありませんぜ」

[坂口安吾(1947-48)『不連続殺人事件』]

いかに権威ある有名どころの文章とはいえ、このような不自然なものを取り上げていくことは、日本語とキャラクタの関わりを見る目をかえって曇らせ、両者の関係を歪ませることになりはしないだろうか?(つづく)

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。