2010年 7月 のアーカイブ
地域語の経済と社会 第110回
2010年 7月 31日 土曜日 筆者: 大橋 敦夫地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第110回「「おまんた」は不滅です(新潟県糸魚川市)」
東京在住の新潟県糸魚川市出身の方々で組織する「東京おまんた会」が、2007年から「東京糸魚川会」となりました。その会誌名も、『東京おまんた会々誌』から『東京糸魚川会々誌』へと衣替えされました。

【銘菓 糸魚川 おまんた】
名称変更の理由として、「おまんた」があまり使われない、歌手・三波春男さん(長岡市出身)の「おまんた囃子」も若い世代は知らない、などが挙げられています(会誌31号)。
とはいえ、地元では、「ふれあい夕市 おまんた市」(糸魚川駅前・毎週木曜)をはじめ、夏祭り「糸魚川おまんた祭り」等で、「おまんた」が愛用されています。
さらに、この一品です。「銘菓 糸魚川 おまんた」(御菓子司 三好屋(糸魚川市寺町)製造)
糸魚川地方の方言「おまんた」にたくした銘菓
マロやかな味とソフトな舌ざわり
と菓子折に添えられた解説用紙にあるとおりの味で、観光土産としてはもちろん、地元の方にもたいへん好まれているお菓子だそうです。
方言の解説が後になりましたが、「おまんた」は、「おまん[=あなた]」の複数形で、あなたがたを意味します。ともに、敬意と親愛がこめられた表現です。
新潟弁ノンネイティブの者にも、なんとも言えない温かな雰囲気を感じさせる「おまんた」。いつまでも大切にしてほしいですね。
◆この連載を続けてお読みになる方は
⇒「地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―」アーカイブへ
◆記事のタイトルからお探しになる方は
⇒「地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―」目次へ
【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
大橋敦夫(おおはし・あつお)
上田女子短期大学総合文化学科教授。上智大学国文学科、同大学院国文学博士課程単位取得退学。
専攻は国語史。近代日本語の歴史に興味を持ち、「外から見た日本語」の特質をテーマに、日本語教育に取り組む。共著に『新版文章構成法』(東海大学出版会)、監修したものに『3日でわかる古典文学』(ダイヤモンド社)、『今さら聞けない! 正しい日本語の使い方【総まとめ編】』(永岡書店)がある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
人名用漢字の新字旧字:「間」と「閒」
2010年 7月 29日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第68回 「間」と「閒」
昭和17年6月17日に国語審議会が答申した標準漢字表2528字には、新字の「間」が収録されていました。昭和21年4月27日の国語審議会に提出された常用漢字表1295字は、手書きのガリ版刷りでしたが、やはり新字の「間」が収録されていました。
ところが、昭和22年11月5日に国語審議会が答申した当用漢字表には、どういうわけか旧字の「閒」が収録されていました。翌週11月16日に内閣告示された当用漢字表でも、旧字の「閒」が収録されていました。昭和23年1月1日の戸籍法改正で、子供の名づけに使える漢字は、この時点の当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「閒」が収録されていましたので、「閒」は子供の名づけに使ってよい漢字になりましたが、新字の「間」は子供の名づけには使えなくなりました。
一方、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。教科書に用いる活字字体を整理すると同時に、一般社会で用いられる活字字体をも整理しようともくろんだのです。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。 活字字体整理案では、「閒」を「間」に整理することが提案されていました。
これを受けて国語審議会は、昭和23年6月1日、当用漢字字体表を答申しました。当用漢字字体表では、旧字の「閒」の代わりに新字の「間」が収録されていました。昭和24年4月28日に当用漢字字体表が内閣告示された結果、新字の「間」が当用漢字となり、旧字の「閒」は当用漢字ではなくなってしまいました。 当用漢字表にある旧字の「閒」と、当用漢字字体表にある新字の「間」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、「閒」も「間」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。
ところが、昭和56年5月14日の民事行政審議会答申では、新字の「間」は子供の名づけに使えるが、旧字の「閒」はダメ、となっていました。常用漢字表(昭和56年3月23日国語審議会答申)の「間」には、カッコ書きで旧字の「閒」が添えられていなかったため、民事行政審議会は「閒」を子供の名づけに認める根拠を失ったのです。この結果、昭和56年10月1日、常用漢字表の内閣告示と同時に、旧字の「閒」は子供の名づけに使えなくなりました。それが現在も続いていて、新字の「間」は出生届に書いてOKですが、旧字の「閒」はダメなのです。
—
【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。
国語辞典入門:見出し 拗促音(ゃゅょっ)の配列、和語・漢語の区別
2010年 7月 28日 水曜日 筆者: 飯間 浩明第28回 見出しの仮名の謎
探していることばが国語辞典に載っていない、と早合点するのは、追い込み処理に気づかない場合のほかに、項目の並び順を勘違いしている場合もあります。
10年前のある小学校国語教科書を見ると、4年生で国語辞典の引き方を扱っています。項目の並び順を説明する部分では、「小さく書くかなは、どんな順になっているでしょうか」との設問があり、「りゆう(理由)」と「りゅう」の例が挙がっています。
私の知るかぎり、小学生用の学習国語辞典では、「やゆよ」「つ」が先に、「ゃゅょ」「っ」が後に来ます。したがって、上の正解は「『りゆう』が先」となります。
ところが、児童の中に大人用の国語辞典を使っている子がいると、大変です。一般の辞書では、「りゅう」が先に、「りゆう」が後に来るものが、むしろ多いからです。
「ゆ」「ゅ」のいずれが先かで、主な辞書を分けてみると、次のようになります。
・「ゆ」が先……『岩波』『旺文社』『学研現代新』
・「ゅ」が先……『三省堂』『新明解』『新選』『明鏡』『集英社』『新潮現代』『現代国語例解』『大辞林』『広辞苑』『日本国語大辞典』
つまり、子どもの辞書の常識と、大人の辞書の常識とが異なっています。
「理由」と「りゅう」なら、隣り同士なので、どちらでも大差ない――とは言えません。辞書によっては、「柳」「流」「留」「竜」「琉」など「りゅう」と読む漢字を多数項目に立てるものがあります。「理由」の項目は、その前に来るか後に来るかで、ずいぶん位置が変わります。結果として、「『理由』が載っていない」と思いこむことにもなるのです。
国語教科書も、この点については検討したようです。今の小学3年生の教科書では、「あなたがよく使う国語辞典で、次の言葉はどちらが先に出ているか調べてみましょう」という設問に変わっています。これなら、辞書ごとに並び順が違っていてもかまわないし、むしろ、違いがあることを理解させるきっかけにもなります。
「ゆ」「ゅ」のどちらを優先する国語辞典にも、それぞれ根拠があります。「ゆ」を先にする辞書は、特殊仮名の「ゅ」を後回しにするという考え方です。「ゅ」を先にする辞書は、2音の「りゅ・う」を3音の「り・ゆ・う」よりも先に置くという考え方です。
和語・漢語が分かると便利
見出しの部分には、まだ謎があります。辞書によって、「ばしょ(場所)」の見出しの仮名を「ば ショ」としたり、「ば-しょ」(「しょ」だけがゴシック体)としたりするものがあります。前者は『新潮現代国語辞典』、後者は『新選国語辞典』(小学館)の方式です。素直に「ばしょ」と書けばよさそうなのに、なぜこんな表記にするのでしょうか。
これは、和語と漢語を区別して示しているのです。この区別はたいへん役に立つのですが、理解している人は多くなさそうなのは、もったいないことです。
大ざっぱに言えば、和語は「山(やま)」「桜(さくら)」など漢字を訓読みすることば(日本で生まれたことば)、漢語は「山河(さんが)」「桜桃(おうとう)」など漢字を音読みすることばです。音読みの特徴は、「河(か)」「左(さ)」など1音か、「回(かい)」「高(こう)」など、「い・う・き・く・ち・つ・ん」の音で終わることです。
両者の区別ができれば、いろいろと便利です。文章を書くとき、文脈に合わない言い回しを使って、みすみす伝わりにくくしている人があります。その点、和語・漢語の区別ができる人は、「はじめは」と「当初は」、「近頃」と「近来」、「力の限りを尽くす」と「全力を傾注する」などの切り替えが自由にでき、よりこなれた文章が書けます。
あるいは、語源を考えるときにも有効です。「とにかく」ということばは、「兎に角」と書くので、ウサギに関係があるかのようです。でも、「とにかく」は和語、「兔」「角」は漢語だと知っていれば、和語にあとから漢字を当てはめたにすぎないことが分かります。
『新潮現代』では、見出しの和語はひらがな、漢語はカタカナで記しています。「ば ショ(場所)」の表記は、和語の「場(ば)」と漢語の「所(しょ)」からなることを示すものです。
ほかにも、たとえば、「しら ギク(白菊)」「ぶた ニク(豚肉)」などともあって、ごく日常的な「菊(きく)」「肉(にく)」などのことばも漢語であることが分かります。あるいは、「かわい そう(可哀相)」「たんのう(堪能)」などはひらがなで書かれていて、漢語のような発音でありながら和語であることが分かります。
『新選』の場合は、和語を太明朝(アンチック)、漢語をゴシックにしていますが、和語と漢語を区別するという意図は、『新潮現代』と同じです。両辞書がこの点でいかに便利かは、もっと注目されてもいいことです。
◆連載を続けてお読みになる方は⇒「国語辞典入門」アーカイブ
◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「国語辞典入門」目次へ
◆飯間先生のもう一つの連載は⇒「『三省堂国語辞典』のすすめ」目次へ
◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」
筆者プロフィール
飯間浩明(いいま・ひろあき)
早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)
【編集部から】
これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。
An Unofficial Guide for Japanese Characters 20
2010年 7月 25日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 19
Re-examining the character-particle
In previous installments, we have touched upon “character-particles” used on the Internet, such as the “pyoon” in “Usoda-yo-pyoon” (Just kidding-pyoon) (parts 1 and 10).
The fact that character-particles appear at the very end of sentences (in the above example, after the sentence-ending particle “yo”), may be related to the observations made by Yoichi Fujiwara (1909–2007). He argues that in the Matsushima coastal dialect of Miyagi prefecture the “wa” in expressions such as “Oshinko, neesuka-wa?” (Aren’t there any pickles-wa?) refers to the speaker (“I”). This is the same as the “bai” and “wai” in expressions like “Shirimasshen-bai” and “Shiran -wai” (I don’t know-bai/wai) used in Kyushu. He argues that the speaker uses these words to clarify his/her own position.
The idea that character-particles, which also appear at the end of sentences, might also “clarify one’s own position” should be thought about, but further consideration is necessary. Moreover, in my own extremely limited research, I have found analogs to the character-particle in Korean and Chinese, but these too require more detailed studies. Quite unrelated to the above, I am at a point where I can offer my own partial explanation of character-particles, so I would like to summarize it here.
Expressions such as “Usoda-yo-pyoon” (Just kidding-pyoon) use the “Pyoon Language” or rather, “Pyoon Dialect.”
Of course, no such language or dialect exists. Just as the expression “deojaru,” which is in common use by would-be “Heian aristocracy” today, was actually used by commoners during the Muromachi and Edo periods (parts 10 and 14), when a word enters into modern Japanese society from outside, what is import are people’s perceptions of it; in general, the word’s exact origins are not a problem (except in the case of specialized terminology).
The Pyoon language and Pyoon dialect are used by the “Pyoonese” people. One can say this is a tradition in the Japanese language. In Japan, dogs are depicted as saying “Sooda-wan” (That’s right, woof) while cats say “Sooda-nyaa” (That’s right, meow). Even crocodiles say “Sooda-wani” (That’s right, croc). What is wrong with the Pyoonese saying “Sooda-pyoon” (That’s right, pyoon)? In fact, when discussing character-particles in the Gengo magazine (Taishukan Publishing Co. Ltd., April 2005, Vol. 64 Challenge Corner), I wrote “Soodesu-mocho” (That’s right, mocho). I was writing as a “Mochoese.”
While it is normal for the communally originated “Heian aristocrat” character to add “deojaru” at every opportunity, to outsiders this indicates that the person is indeed a “Heian aristocrat” and is thus noble but shiftless. Similarly, although it is quite normal for the communally originated “Pyoonese” character to use “pyoon” whenever possible, to outsiders this indicates that the person is a “Pyoonese” and is thus… well, I don’t actually know, but judging by the sound “pyoon,” perhaps they are perceived as somewhat cute and amiable.
This is all, of course, in the context of play. These people writing “Usoda-yo-pyoon” on the Internet obviously are not Pyoonese who speak in the Pyoon language or Pyoon dialect in their daily lives. I myself do not live my life as a “Mochoese.” It was only that one time. I was only playing. (Sorry about that, Gengo.) While we must not change our character (parts 4, 6, and 9), it is fine to do so in the context of play (part 10).
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 20
2010年 7月 25日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)再论角色助词
在前面,我曾把一些网络博客留言中出现的像“うそだよぴょーん (Usoda-yo-pyoon 骗你的(啊)-pyoon)”的“ぴょーん(pyoon)”这样的词语称为“角色助词”,并作了部分解释(第1节、第10节)。
角色助词出现在句子的最末尾(比如上述例句中的角色助词是在终助词(语气词)“よ(yo)”的后面)这一现象,或许与藤原与一先生所提出的观点有相通之处。他指出,比方说日语标准话的“おしんこはありませんか (Oshinko-wa arimasen-ka 没有新腌的咸菜吗?)”,宫城县松岛海岸地区的方言可以说为“おしんこ、ねーすかわ (O-shinko, neesuka-wa)”,句尾的“わ (wa)”原本是指说话人自己的“わたし (watashi 我)”。九州方言中“知りましぇんばい (Shirimashen-bai 不知道-bai)”的“ばい (bai)”、“知らんわい (Shiran-wai 不知道-wai)”的“わい (wai)”等同样原本都是指说话人自己的人称词。藤原与一先生同时指出说话人在提出自己的立场时,会在句尾加“ばい(bai)”、“わい(wai)”。表示自己的角色助词是在句尾出现,这也许也应该做为“自我立场的提出”来考虑,还有进一步讨论的必要。另外,在我做的小规模的调查中,发现韩语与汉语中也存在着与角色助词相近似的句例。这也还需要作详细的调查。这些都先姑且不论,关于日语的角色助词,我们已经可以做一定程度的解释了,所以在此做一下总结。
像“うそだよぴょーん(Usoda-yo-pyoon 骗你的(啊)-pyoon)”这样的话语,如果把其称之为ぴょーん(Pyoon)语,读者们认为不合适的话,我们可以称为ぴょーん(Pyoon)方言。
当然,这样的语言或方言是不可能存在的。前面提到过的现在我们认为是“平安贵族”语言的“~でおじゃる(~deojaru)”其实并不是平安贵族的语言,而是室町时代或江户时代的平民百姓使用的语言(第10节,第14节)。像这样现代日语社会在从外部导入词语时,注重的是该词语给我们的印象,一般不会对其出处做严密的追究(专业用语除外)。
ぴょーん(Pyoon)语或ぴょーん(Pyoon)方言是“ぴょーん(Pyoon)人”的语言,说这是日本语言文化的传统也是可以的。日语中,狗会说“そうだワン(Sooda-wan 是啊汪)”、猫会说“そうだニャー(Sooda-nyaa 是啊喵)”,甚至鳄鱼也可以说“そうだワニ(Sooda-wani 是啊鳄鱼)”。“ぴょーん(Pyoon) 人”说“そうだぴょーん(Sooda-pyoon 是啊-pyoon)”也没有什么不好的。这么一说,让我想起了我在大修馆出版的杂志《言语》(2005年4月号挑战专栏)中谈到角色助词时,写了“そうですもちょ(Soodesu-mocho 是啊-mocho)”这样的话,这是我变成“もちょ(Mocho)人”写的。
来自于群体的“平安贵族”角色人物每次说话都会使用“~でおじゃる(~deojaru)”,这对他们来说是平常的事情,但是旁观的人马上就会觉得他们是“平安贵族”,也就是会感觉他们很高贵但是却很怠惰。与此相同,来自群体的“ぴょーん(Pyoon) 人”这一角色人物也是每次说话都使用“~ぴょーん(pyoon)”对他们来说也是非常平常的事情,但是旁观人马上就会觉得他们很“ぴょーん(pyoon)”,就是说……嗯……说不太清楚,但是“ぴょーん(pyoon)”这个声音却会给我们一种可爱、心平气静的感觉。
这些当然都是带着玩儿的心理写的。在网上写“うそだよぴょーん(Usoda-yo-pyoon 骗你的(啊)-pyoon)”的人,日常生活中一定不是说“ぴょーん(Pyoon)语”或“ぴょーん(Pyoon)方言”的“ぴょーん(Pyoon)人”。我在日常生活中也不会是“もちょ(Mocho)人”,只限于《言语》的那次专栏,那是带着玩儿的心理写的(《言语》杂志,对不起!)。角色形象是不可以改变的(第4节、第6节、第9节),但是如果只是玩儿玩儿的话,是可以改变的(第10节)。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
日本語社会 のぞきキャラくり 第100回(最終回) なぜキャラクタを考えるのか?(下)
2010年 7月 25日 日曜日 筆者: 定延 利之なぜキャラクタを考えるのか?(下)
なぜキャラクタを考えるのか? 日本語教育と言語研究の観点から、その理由を述べてきた(第98回・第99回)。言語研究と重なる部分があるが、最後に、コミュニケーション研究の観点からも付け足しておこう。
大人と子供の会話。子供が「だから、んーと……」のようにことばに詰まると、大人が「じゃあ、こんどの子供会に出るのはやめとくか」と助け船を出し、子供が得たりとうなずいたとする。
こういう会話について「子供の発言は言いよどまれており、流ちょうと呼べるものではなかったが、実は子供はこのしゃべり方で、大人からの支援を呼び込むことに見事に成功したのである」などと分析されることがあるかもしれない。(いや実際、あったりする。)こういう分析は、一面の真理をついている場合もあるだろうが、常にそうとはかぎらない。子供は大人の支援を呼び込む意図などなく、ただただ途方に暮れてことばに詰まったのであって、仮にこの会話直後に「コミュニケーションができなくてつらい。ごめんなさい」などと書き置きして死んでしまったとしたら、「大人からの支援を呼び込む」「見事に成功」分析は一体何だったのかということになる。
赤ん坊がよちよち歩くのが危ないと、見かねた親が抱きかかえたとしても、抱かれた赤ん坊は親の死角でVサインなど(たいてい)しないだろう。意図が必ずしもないところに意図を見立て、何気ない行動を「目的の達成」とみなすということは、コミュニケーションで生じるさまざまな事柄(たとえば、よちよち歩きやたどたどしい話し方)を、常に成功としか見ないことにつながりかねない。現実には、多くの人びとはコミュニケーションの成功とはほど遠いところにあり、コミュニケーションのことで悩んだり引きこもったり、死んでしまったりしている。そこまではいかないにしても、他人とコミュニケーションするほどおそろしく、うっとうしいものはないと感じている人は、少なくはないだろう。
コミュニケーション参加者たちの絶え間ない「成功」ではなく、現実の「幸」と「不幸」を捉えるには、意図とは必ずしも結びつかない等身大の「話し手」像にこだわる必要があるだろう。たとえば、『白い巨塔』(1969)の佐々木よし江未亡人や、『或る女』(1911-1913)の田川夫人の「不幸」とは、つい昨日まで『格上』だったのに落ちぶれてしまい、『格下』だったはずの者に『格上』として振る舞われ、それを認めることができずに戸惑い憤慨するというものだった。それを冷ややかに眺めやる業者の野村や早月葉子の「幸」とは、新しい『格上』としてのものだった(第49回~第52回)。まあ、あまりさわやかな例ではないけれども、この連載では、キャラクタを考えることで、コミュニケーションの「幸」「不幸」の一端には触れられたかと思う。
コミュニケーションにおける私たちの「幸」と「不幸」を「キャラクタ」的な観点から捉えようとする試みとしては、すでに瀬沼文彰『キャラ論』(STUDIO CELLO, 2007)や相原博之『キャラ化するニッポン』(講談社, 2007)がある。だが、これらは小泉長期政権や登校拒否にも論が及ぶような、最近の日本の世情や若者のコミュニケーションに焦点を当てたものである。たとえば太宰治の戯曲『春の枯葉』(1946)で、若い男女が「あなたの兄さんは、まじめじゃからのう」「あなたの奥さんだって、まじめじゃからのう」と『老人』のように言い合う遊びの場面を取り上げて「私たちは昔から、こういうことをずっとやってきた」とするこの連載は(第10回)、「最近」や「若者」に限らない形で、日本語社会の「コミュニケーション」を、さらに「ことば」を論じようとしたものであって、そもそも論じようとする対象がこれらとは異なっている。
対象の違いは当然ながら、「キャラクタ」に対する考えの違いを生む。たとえば、相原氏の上掲書で紹介されている伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド―ひらかれたマンガ表現論へ―』(NTT出版, 2005)では、マンガ表現が論じられる中で、「キャラクタ」と「キャラ」が別物として区別されている。それは、両者を区別することがマンガ表現論にとって有効だと伊藤氏が判断されたからだろう。また、瀬沼氏が自著の中で「キャラクタ」「アイデンティティ」「役割」いずれとも違ったものとして「キャラ」という用語を考えられるのも、それが最近の若者の人間関係やコミュニケーションを論じる上で有効だと瀬沼氏が考えられたからだろう。同様に、私が「キャラクタ」と「キャラ」を区別しない一方で、これらと「スタイル」「人格」との違いにこだわってきたのも、日本語社会のことばとコミュニケーションを論じる上で、この措置が有効だと考えるからである。それぞれの論者が、論じたいことに応じて独自の「キャラ(クタ)」定義を持つことは、当たり前のことだろう。
もちろん、統一的な「キャラ(クタ)」論をあれこれ考えてみることは、私にとっても楽しいことではある。マンガ表現を対象としつつも、その論を通して「他の表現行為や学問分野、社会的な事象と接続する回路が開かれる」という伊藤氏の開放的な考えは、伊藤氏一人だけのものだけではない。だが、分野を超えて、それぞれの「キャラ(クタ)」論どうしを結びつけるにはまず、他の「キャラ(クタ)」論と結びつけるべき私自身の「キャラ(クタ)」論をはっきりさせる必要がある。
相手に応じて自在に変えてよいスタイルと違って、変わらないことが期待されているもの。それが変わってしまったところを目の当たりにすると、「うわ、こいつ、オレの前では猫かぶってたんだ」「この人、強い相手にはとことん弱いな」「あの人、恋人の前ではこんな3頭身になっちゃうんだ」などと、何事であるかすぐに察しがついてしまうが、見られた方だけでなく、見た方も気まずいもの。かといって、「人格」ほど根本的ではないもの――このような「キャラ(クタ)」の定義で、日本語社会のことばや、コミュニケーション(の幸・不幸)がどのように論じられるのか。この連載ではこれを、なるだけ具体的に示したつもりである。
ここで定義された「キャラ(クタ)」は、「スタイル」「人格」と併せて、本来的には「帰属(attribution)」という社会心理学的な観点からまとめ直せると私は考えている。だが、そのような試みに乗り出す余裕は少なくとも今の私にはない。この連載で述べてきたのは結局のところ、日本語社会において、1人の話し手が発することばの多様性や、コミュニケーションの幸・不幸を捉えるには、「スタイル」と「人格」だけでは限界があるということに尽きる。そのことさえ読者に納得いただければ、小論の目的は果たせたかと思う。
長い間のご愛読ありがとうございました。
* * *
お断り:小論の中で表記の統一をとるため、文献にある「キャラクター」を、今回「キャラクタ」という表記で引用させていただきました。連載中、厳密には「日本語を母語とする者」「日本語を非母語として学習する者」と書くべきところを、わかりやすさを最優先して「日本人」「外国人」とした箇所があることも、併せてお断りしておきます。また、『おかま』『外人』『おやじ』など、差別的ニュアンスを持つこともある語群をキャラクタ名として使っているのは、キャラクタを観察する上で差別意識を明るみに出すことが必要と判断したためで、差別意識を助長する意図はありません。ご理解頂ければと思います。
* * *
お礼:本務校である神戸大学、非常勤先の関西学院大学、京都大学(五十音順)の学生諸君には、さまざまな有益な意見をいただきました。また、原稿のアップや画像については毎回、三省堂辞書出版部の荻野真友子さん、山本康一さんにお世話になりました。ここに記して謝意を表したいと思います。小論は、日本学術振興会の科学研究費補助金による基盤研究(A)「人物像に応じた音声文法」(課題番号:19202013、研究代表者:定延利之)、基盤研究(B)「役割語の理論的基盤に関する総合的研究」(課題番号:19329969、研究代表者:金水敏)の成果の一部です。
◆この連載を続けてお読みになる方は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」アーカイブへ
◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」目次へ
◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
地域語の経済と社会 第109回
2010年 7月 24日 土曜日 筆者: 山下 暁美地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第109回「おいしい方言(和歌山県)」
今回は、和歌山県田辺市周辺で集めた味覚に関する景観方言(街角で見つけた方言)を中心にお話します。
【写真1】は、伊賀忍者の装束をした“たなべぇ”がほっぺたにごはんつぶがついているのもかまわず、「こいはうまい!」(これはおいしい!)とあがら丼を食べています。
「あがら丼」【写真2】の「あがら」とは、「わたしたち」という意味です。「わたしたちの自慢の丼」という意味で、名付けられたそうです。自分のことを「あが」と言います。一人称の代名詞「吾」に助詞「が」がついた形です。「田辺へ来たらあがら丼を食べな、あかんど」(紀伊田辺に来たらわたしたちの自慢の丼をぜひ食べてくださいね)と地元の人が勧めていました。「食べな、あかんど」は、直訳すると「食べないといけませんよ」です。「あかんど」の“ん”は、中部地方から沖縄まで分布する少し強い否定の「~ない」です。「もう、話さん」「あがは、知らん」などと言います。
「魚にするか、肉がええか?」【写真3 魚にしますか、肉がいいですか】は、海の幸、山の幸、どちらも味わいのある特産品であることをアピールしています。「ええか」(いいか)は、関西方言です。勝浦町のほうに行くと「ええにおいのし」(いいにおいですね)などと言います。「のし」(~ですね)は、文末につける丁寧なことばで、21世紀に残したい和歌山のことば10に入っています。
「にが! うま! 大人味。」【写真4 にがい! うまい! 大人味。】は、大阪府、三重県などにも見られる表現で、「にがい!」「うまい!」の“い”を省略した表現です。「あま!」(甘い!)「いた!」(痛い!)など、そのときの感覚をインパクトを持って伝えます。
◆この連載を続けてお読みになる方は
⇒「地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―」アーカイブへ
◆記事のタイトルからお探しになる方は
⇒「地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―」目次へ
【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

山下暁美(やました・あけみ)
明海大学外国語学部・大学院応用言語学研究科教授。博士(学術)。
専門は、日本語教育学・社会言語学。研究テーマは、移民百年を迎えた、ブラジル、アメリカ合衆国などにおける日本語の変化、外国人の日本定住化による共生時代の日本語教育政策。
著書に『書き込み式でよくわかる日本語教育文法講義ノート』(共著、アルク)、『海外の日本語の新しい言語秩序』(単著、三元社)、『スキルアップ文章表現』(共著、おうふう)、『スキルアップ日本語表現』(単著、おうふう)、『解説日本語教育史年表(Excel 年表データ付)』(単著、国書刊行会)、『ふしぎびっくり語源博物館4 歴史・芸能・遊びのことば』(共著、ほるぷ出版)などがある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
つなぎ語:会話の終結―『英語談話表現辞典』覚え書き(25)―
2010年 7月 22日 木曜日 筆者: 内田 聖二今回は会話の終結を表す表現を考えてみます。まず、会話を終えようという意思を文字通り表す言い方にThat’s it. があります。話を途中で打ち切るときに用いられます。以下は本辞典からの引用です。
4 〈話を打ち切って〉それまでだ, それでおしまい, 以上, もうたくさん: 《不利な立場になって一方的に》 “You never wash the dishes!” “That’s it. Finish.” 「あなたはいつも食事の後片づけをしないわね」「それまで. この話はこれでおしまい」 / 《レストランで料理を注文して》 I’ll take onion soup, roast beef with a side of salad, and vanilla ice cream for dessert. That’s it. オニオンスープ, サラダ添えローストビーフ, それとデザートにバニラアイスクリーム. 以上.
第2例は料理を注文するときの用法ですが、第1例は相手の発言で不利な立場に立たされそうになったときに、それをさえぎる言い方です。次の例は相手の言い訳に対してあきれてしまったときの発言となります。
6 〈相手の発言に我慢できなくなって〉もうおしまい: 《恋人同士の会話》 “I saw you kissing Cathy yesterday.” “No. You took me for someone else.” “That’s it. I can’t stand it any longer.” 「昨日あなたがキャシーとキスしているところを見たわよ」「違うよ. 君は僕と誰かを見間違えたんだよ」「もうおしまいよ. 我慢できないわ」.
また、That’s it. は談話構造の中で、話の終結を示したり、仕事や作業などを切り上げるときの標識としても用いられます。
5 〈話や仕事の最後に〉これでおしまい, これで終わりです, 以上です, それで万事OKだ: Well, that’s it, folks! Off home with you! お話はこれでおしまいです, 皆さん! うちへ帰りましょう! / That’s it for my lesson today. 今日の授業はこれでおしまい/ Well, that’s it. Everything’s ready for the camp tomorrow. よし, そこまでだ. これで明日のキャンプの準備ができた.
いずれの用法のThat’s it. にも話し手側からの「一方的な終結宣言」というニュアンスが感じられます。
今までにもよく取り上げてきたanywayやwellにも同じような話を切り上げる用法があります。anywayは特に電話で「用件は終わった」「言いたいことは言った」といった含みで終わりのあいさつの前によく使われます。
4 〈会話を終えようとして〉じゃあとにかく, それでは: Anyway I’ll give you a ring tonight. じゃ, とにかく今晩電話するよ.
このあとには、おそらく、終わりのあいさつのやり取りが続き、電話が切られるというシナリオになるでしょう。
次のwellは話題の転換につながるものですが、一区切りがついたことを合図しています。
4 〈中心となる話が終わったことを合図して〉それでは(◆下降調で): 《会議の席で》 I’m sure this project will be completed by this weekend. Well, I see it’s just about time for lunch. このプロジェクトは週末には完結すると思う. それでは, そろそろ昼食にしましょう.
—
【筆者プロフィール】
内田聖二(うちだ・せいじ)
奈良女子大学教授
専門は英語学、言語学(語用論)
主な業績:『英語基本動詞辞典』(1980年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基礎語彙の文法』(1993年)英宝社(衣笠忠司、赤野一郎と共編著)
『関連性理論-伝達と認知-』(初版1993年、第2版1999年)研究社(共訳)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(第2版1994年)小学館(小西友七・安井稔・國廣哲弥・堀内克明編、分担執筆)
Relevance Theory: Applications and Implications, 1998, John Benjamins.(Robyn Carstonと共編著)
『英語基本名詞辞典』(2001年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『ユースプログレッシブ英和辞典』(2004年)小学館(八木克正編集主幹、編集委員)
『新英語学概論』(2006年)英宝社(八木克正編、共著)
『思考と発話』(2007年)研究社(共訳)
『子どもとことばの出会い』(2008年)研究社(監訳)
—
【編集部から】
語用論的な情報をふんだんに盛り込んだ、日本発の本格的な発信型会話・談話表現辞典、『英語談話表現辞典』について、編者の内田聖二先生にご紹介いただきます。
書籍購入者は、http://dce.dual-d.netにて本辞典の全データを収録したウェブ版辞典を無料で使用できます。
国語辞典入門:辞書の使い方 辞書に書いてある記号、符号、略号
2010年 7月 21日 水曜日 筆者: 飯間 浩明第27回 追い込み項目に注意せよ
国語辞典を開いてみると、見慣れない記号や略号がたくさん書きこまれています。あれはいったい何の役に立つのか分からない、という声を聞きます。
記号などの意味は、冒頭の「凡例」にすべて解説してあるのですが、小さな字でぎっしり書いてあって、読みにくいのも事実です。電器製品のマニュアルや、クレジットカードの約款を思わせます。凡例が読みにくいせいで、国語辞典の基本的なルールを知らないまま使い続けているという人も多いはずです。
私としては、一般読者向けの凡例はぐっと簡略化し、国語辞典を使うために最低限必要な知識だけを示せばいいと思っています。編集方針や、専門家向けのより細かい凡例は、じゃまにならない所に、ひっそりと記しておくだけでもいいのです。
では、国語辞典を使うための最低限の知識とはどんなことか。今から、それを私のことばで説明しようと思います。いわば、私なりの「より抜き凡例」です。
まず、「追い込み」の話から始めましょう。多くの国語辞典では、紙面節約のために、上の部分が共通することばは1か所にまとめてあります。たとえば、「社会」の項目には、〈――あく[社会悪](名)〉〈――うんどう[社会運動](名)〉などと、いくつもの「小見出し」がぶら下がっています。この処理のことを「追い込み」と言います。
この追い込みのことを知らずに、あるいは考えずに辞書を引いて、「目当てのことばが載っていない」と早合点をすることは、よくあることです。
『三省堂国語辞典』の小学生の読者から、「ライトノベル」ということばを載せてほしいという要望のはがきが来ました。でも、『三省堂』には、「ライトノベル」はすでに載っているのです。おそらく、この読者も、早合点をしたのだと思います。
『三省堂』の「らいどう(雷同)」と「ライトモチーフ」の間には、たしかに「ライトノベル」はありません。でも、前のページの「ライト」を見ると、〈――ノベル(名)〉のように、追い込みの形で項目が設けてあります。
追い込みは、小学生用の学習国語辞典にはないものです。小学生の投書者が知らなかったのは、やむをえないことかもしれません。
「意地悪」が載ってない!
追い込みという処理方法を知っている読者でも、まだ勘違いするおそれは残っています。国語辞典によって、追い込みのしかたに微妙な違いがあるからです。
私自身がたまに失敗するのは、こんな場合です。『三省堂』で「いじわる(意地悪)」を引くと、「いしわた(石綿)」と「いしん(威信)」の間に出ています。そのあとで、ほかの辞書の記述も参考にしようとして、「意地悪」を調べてみると、なんと軒並み載っていない、などということがあります。
たとえば、『岩波国語辞典』の「石綿」の次はすぐ「威信」です。『新選国語辞典』(小学館)『新明解国語辞典』(三省堂)などもそうです。これらの辞書が「意地悪」を載せていないはずはありません。そこで気がついて、2、3ページ前の「意地」の項目を開いてみると、「意地っ張り」「意地悪」などが、ちゃんと追い込みになっています。
つまり、こういうことです。『三省堂』では、追い込みにするのは、上のことばが3音以上の場合と決めてあります。たとえば、「ライト・ノベル」は「ライト」が3音なので、「ライトノベル」は追い込みにします。一方、「いじ・わる」は、「いじ」が2音なので、「意地悪」は追い込みにしません。このように、音数主義で徹底しています。
『旺文社国語辞典』なども、『三省堂』に近い方針をとっています。
一方、『岩波』『新選』『新明解』などは、方針が違います。『岩波』では、和語・漢語・外来語ごとに規則があり、漢語では、熟語にさらにほかの語がついた場合を追い込みにします。「意地」は漢語の熟語であり、したがって、「意地悪」は追い込みになるわけです。『新選』以下の辞書でも、ほぼ同じ理由で追い込みになっています。
もっとも、「和語の場合」「漢語の場合」などと説明されても、戸惑う読者が大部分でしょう。実際には、「これは長い熟語だから、追い込みになっているだろう」といった、だいたいの見当で探しているはずです。私は、それで十分だと思います。
大事なことは、ことばが載っていないと思ったときは、追い込みの可能性の有無を確認することです。それさえ忘れなければ、細かいことにはこだわらなくて大丈夫です。
ちなみに、まったく追い込みをしない方針の辞書もあります。最大の国語辞典『日本国語大辞典』(小学館)のほか、『現代国語例解辞典』(同)などがそうです。
◆連載を続けてお読みになる方は⇒「国語辞典入門」アーカイブ
◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「国語辞典入門」目次へ
◆飯間先生のもう一つの連載は⇒「『三省堂国語辞典』のすすめ」目次へ
◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」
筆者プロフィール
飯間浩明(いいま・ひろあき)
早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)
【編集部から】
これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(31)
2010年 7月 20日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(31) 職曹司時代「五月の御精進のほど」~詠歌御免~
ホトトギスの和歌を詠まずに帰った清少納言たちが、中宮定子に今すぐ詠むように言われて詠歌の相談をしていたところに、藤原公信から文が届けられます。彼は、あの卯の花車から引き抜いた枝に和歌を付けてよこしたのでした。返歌は早く返すほどいいというのが貴族社会の常識でしたから、先にこちらの和歌を詠まねばなりません。清少納言は侍女に自分の硯箱を部屋に取りに行かせますが、その様子を見ていた定子はじれったく思ったのでしょう、自らの硯箱を与えます。しかし、宰相の君と詠歌を譲り合っているうちに、降っていた雨が強くなり、ついに雷まで鳴り出しました。
当時は避雷針などの設備もなく、建物も燃えやすい木造建築でしたから、落雷によって家屋が火事に見舞われることも多く、内裏も何度か焼失し建て直しています。とにかく恐ろしくて、格子をすべて引き下ろして回るうちに返歌どころではなくなります。
やっと雷が去り、雨も少し止んできた頃には日暮れになっていました。そこで、あらためて返歌に取り掛かろうとしたところ、今度は雷見舞いに訪れた上達部たちへの対応に追われて取り紛れてしまいます。「今日はつくづく和歌に縁のない日なのだろう、こうなったらホトトギス探訪に出掛けたことさえあまり人に話さないようにしよう」と笑う清少納言ですが、定子の方は、「たった今だって詠めないことがあるものですか」と不満気です。
それから2日ほどたって、ホトトギス探訪の時の話になり、宰相の君が、「どうでしたか、(明順が)自ら摘んだという下蕨(したわらび)のお味は」と清少納言にたずねます。中宮定子はそれを聞いて、「思い出すことといったら(食べ物の話だなんて)」とお笑いになり、紙を投げてよこしました。そこには、「下蕨こそ恋しかりけれ」という連歌の下句が書かれていたので、清少納言は、「郭公たづねて聞きし声よりも」と付けて返しました。その後、清少納言は定子に自分の和歌に対する思いを告白することになります。
…歌よむと言はれし末々は、すこし人よりまさりて、「そのをりの歌は、これこそありけれ。さは言へど、それが子なれば」など言はればこそ、かひある心地もしはべらめ。つゆとりわきたる方もなくて、さすがに歌がましう、われはと思へるさまに、最初によみ出ではべらむ、亡き人のためにもいとほしうはべる
(歌がうまいと言われた者の子孫は、少し人よりは優って、「その折りに詠んだ歌はこれであった。何といってもあの歌人の子なのだから」など言われてこそ、詠んだ甲斐のある気持ちもするでしょう。まったく優れた点もないのに、それでもいい歌だと思って、私こそはと得意な様子で最初に詠み出しますのは、亡き人のためにもふびんです)
清少納言の曽祖父清原深養父(ふかやぶ)は『古今集』歌人、父清原元輔(もとすけ)は『後撰集』撰者であり、清原家は歌人の家としては名門でした。その家名を背負って出仕したであろう清少納言の和歌に対する自負心とプレッシャーが想像されます。『枕草子』には作者の豊富な和歌的知識が盛り込まれていますが、清少納言の歌作自体は少ない理由がそんなところにあったのだろうかと興味をひかれる逸話です。
さて、清少納言は定子から、「歌を詠むか詠まないかは自由にすればよい、こちらからは詠めとは言わない」という詠歌御免の許しを得ることになりました。
◆この連載を続けて読みたい方は
⇒「『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて」アーカイブへ
◆記事のタイトルから探したい方は
⇒「『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて」目次へ
【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
An Unofficial Guide for Japanese Characters 19
2010年 7月 18日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 18
“Because I’m clumsy”
Characters such as the “Tokyo native,” “Osaka native,” or the “America native,” “China native,” and “France native” that originate in communities (the Tokyo cultural community, Osaka cultural community, American cultural community etc.) are not fundamentally different from individual characters, such as the “rich kid” or “nice person.” This we discussed previously. However, the following question probably remains.
The “rich kid” character is simply behaving in a way he considers “normal,” but he is perceived as a rich kid when observed by others. Similarly, the “nice” person is just behaving “normally,” but her behavior is perceived as nice by others.
However, it is also acceptable for this “normalcy” to be the result of everybody privately contriving to be thought of as a “rich kid” or “nice person.” Or perhaps it is not acceptable, but is in fact the norm. As we discussed in parts 3 and 18, if these contrivances are discovered, as in the case of the unfortunate men (Okubatake and Shokichi) in Sasameyuki, they are finished. But in characters that originate in individuals, it is common for characters to actually be privately contrived and performed.
Is this unthinkable for characters that originate in communities? Is there such a thing as a privately contrived “Tokyo native” or “Osaka native?”
The answer to the above question is categorically “yes.”
Let me preface this by clearly recognizing that there are people who, have lived their whole life in a certain communal culture, and who have absorbed that culture and will always speak its language (e.g. Osaka dialect) no matter where they go; their characters (”Osaka native”) will not and cannot change. Such communally originating characters are quite unconnected with “private contrivance.”
The same goes for certain individually originated characters, such as the man who is naturally boorish and cannot get along with others due to his clumsiness (let’s call him “Ken(1)“).
Now, think for a minute. Think about the “dialect idols” that have started to become popular because their regional accents are considered “cute.” Obscure regional words seem to spring from their mouths. Or, think of the foreign talents who, noticing that they cease being popular once they can speak Japanese fluently, speak in broken Japanese whenever they appear on television. Or think of the foreigners who, when it becomes inconvenient, pretend to understand not a word of Japanese. There are countless other examples.
No one who has stifled their regional accent and quickly switched to a “Tokyo native” character, as if it was the most natural thing in the world, when talking to someone they have a one-way love has any right to sneer at such people. So, even characters that originate communally have some connection with “private contrivance.”
* * *
(1) Here I am referring to Ken Takakura, a Japanese actor and singer famous for his catch phrase “Bukiyou desu kara” (…because I’m clumsy), which summed up his stage persona.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 19
2010年 7月 18日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)“因为笨拙”
“东京人”、“大阪人”,或“美国人”、“中国人”、“法国人”等来自于群体(东京文化圈、大阪文化圈、美国文化圈等)的角色与“少爷”、“好人”这样来自于个人的角色并没有根本性的差异,对于上节所讲述的这些内容,也许有些读者还尚有一些疑问。
“少爷”角色是指“当事人做的只是‘平平常常’的举动,而对旁边侧观者来说那怎么看都是“少爷”所具有的言行”这样的人物形象;同样道理“好人”角色是指“对当事人而言是‘平平常常’的事情,但他人来看那却是‘好人’的举动”这样的人物印象。
但是,其实这种“平平常常”的举动如果是当事人为了让他人认为自己是“少爷”或“好人”,而暗自地有意图地作出来的也是可以的。不,与其说是可以,倒不如说大家几乎都是这样做的。虽然像第3节、第18节提到的《细雪》中不幸的人(奥畑和庄吉)那样一旦被人发现就会功亏一篑,但是一般情况下,来自于个人的角色,其实可以说经常都是当事人暗自地有意图地扮演出来的。
那么,有人会有疑问:来自于群体的角色难道也有这种事情的可能吗?有谁会暗自地有意图扮演“东京人”或“大阪人”吗?
对上述的疑问,我可以在这里做出明确的回答,那就是:有。
首先有个前提我们必须承认,那就是,确实有的人在自己成长生活的文化圈中所吸收到的一切已牢牢实实地沁入其心肺再难以清除、去哪里都只会说自己的家乡话(例如大阪方言),也就是说无论何时何地‘大阪人’这一角色形象不会变,也改变不了。这种来自于群体的角色确实与“暗自地有意图地做”是毫无关系的。
但是,生来就是不附风雅刻板的性格,无论怎样也不善与人交往、笨拙,这样与“暗自的意图性”毫无关系的、来自于个人的角色(暂称之为“高仓健”式角色)也是有的。这正与上文的来自于群体的与“暗自地有意图地做”毫无关系的大阪人角色情况是完全相同的。
另外,大家应该还记得,当大家称赞方言“可爱”时,马上就出现了只说方言(家乡话)的青春偶像,听说是浓重的方言马上就能脱口而出。或者,有些来自外国的电视名人,平时说的是一口流利的日语,但是因为“日语太流利就会变得不受欢迎”,所以,就在电视节目收录时,故意把日语说得很差,扮演日语笨拙滑稽的“外国人”。或是,一些普通的外国人,当遇到对自己不利的情况时,就装着一句日语也听不懂。等等这样的例子可以说举不胜举。
但是,如果我们也曾在自己憧憬仰慕的人的面前尽量避免使用家乡话,曾试着让对方觉得这打造出来的“东京人”角色就是本来的自己的话,我们就不应该再笑话他们。可见,来自于群体的角色与“暗自地有意图地做”并不是毫无关系的。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
日本語社会 のぞきキャラくり 第99回
2010年 7月 18日 日曜日 筆者: 定延 利之なぜキャラクタを考えるのか?(中)
なぜキャラクタを考えるのか? キャラクタを考えることに、どんな必然性や利点があるのか?――この問いに対する日本語教育関連の答えは前回述べた。今回は、それに続く第2の答えとして、言語研究において発話キャラクタを考える意義を述べておきたい。意義、というと読者はたとえば「ウソだよぴょーん」の「ぴょーん」のような、キャラ助詞の「発見」を思い浮かべられるかもしれない。つまり、文は終助詞で終わりだと思っていたら実はそうではなかった、なんと終助詞(「よ」)のさらに後ろに、話し手のキャラクタと直結するキャラ助詞(「ぴょーん」)が出現するのであった、これまでの品詞分類はキャラ助詞を想定していないし、これまでの文構造観もキャラ助詞の出現位置を想定していない、いかにも軽薄な表面的印象とは裏腹に、キャラ助詞は品詞分類や文構造観を進めるきっかけになり得る、というものである。わかりやすい話だとは思うが、キャラ助詞についてはあちこちで述べてきたので(第1回・第10回・第20回)、ここでは別の意義について述べておく。まず、「ら」抜きことばに関する次の文章を見られたい。
ここで「ら」抜きことばについて考えてみよう。「見ることが可能」という意味で「見られる」と言わず「見れる」と言うのは「ら」抜きことばである。「寝ることが可能」という意味で「寝られる」ではなく「寝れる」と言うのも「ら」抜きことばである。「ら」抜きことばはなぜ現在、若者を中心に広まっているのか?
それは、従来の日本語の文法システムでは、助動詞「られる」の機能が多すぎたからだ、という説明がある。「親に叱られる」の「られる」は受身を表し、「お客様が帰られる」の「られる」は尊敬を表す。「行く末が案じられる」の「られる」は自発を表し、「どうにか見られる」の「られる」は可能を表す。受身・尊敬・自発・可能と、助動詞「られる」は四つもの機能を負担させられ大変である。そのために、新しい世代は「可能」を一つはずして、「られる」の機能負担を四つから三つに軽減したのだ、という説明である。
いかにももっともらしい話である。だが、そんな「られる」の機能負担の「大変さ」は、本当に私たちの「問題」なのだろうか。「「られる」と言うたびに、他の意味にとられてしまわないかとドキドキする」「この「られる」はどの意味だろうと相手を考え込ませるのは気の毒で見ていられない」などと私たちが悩み苦しみ、日本語コミュニケーションの明日を救うために若者たちが「ら」抜きことばの使用に踏み切ったのだとしたら、なぜ大人たちは「ら」抜きことばを賞賛せず、「教養のない若者の乱れたことば」などと心ない罵声を彼らに浴びせるのか。なぜ若者たちは自らの立派な動機を表明せず、会社訪問の時は「ら」抜きことばを使わないように気を付けないと、などとつぶやくのか。
「ら」抜きことばにかぎらず、文法の説明に持ち出される「話し手」像は、とかく異常なまでに賢く、理知的な位置に押し上げられていないか。
[定延利之『煩悩の文法』「まえがき」pp. 10-11, 筑摩書房, 2008.]
この期に及んで、自著から長い引用をすることになるとは思わなかったが、なにしろ私の考えそのものズバリが書かれていて(当たり前か)、便利なもので、お赦し頂きたい。現実とはかけ離れた、おそろしく理知的な「話し手」像を言語学者が持ち出したがるのは、「ら」抜きことばの広まりのような、ことばの変化(change)を説明しようとする場合だけではない。ジャーゴン(特定の職業やグループで使われる専門用語・仲間のことば・隠語)や若者ことばのような、ことばの変異(variety)を説明しようとする場合も同様である。
ジャーゴンは、「外部者に意味を悟られないようにする」「集団への帰属意識を高める」「内部者どうしの結束を固める」「自分は業界の内部事情に詳しいのだとさりげなく自慢する」「純粋にことば遊びを楽しむ」「迅速に情報をやりとりする」上で効果的だから作られ、使われるのだというような、目的論的な説明がなされることがよくある。
たしかに、ことさらに作られ使われる、いかにもあからさまなジャーゴンには、このような説明が当てはまることも多いだろう。だが、「普段なにげなく使っているが、考えてみれば、この言い方は他の集団でどの程度通用するのだろう」というような、気づかれにくいジャーゴンもある。
(25) 私は、某自動車メーカーで点火時期や燃料のセッティングをしていて、日々ノッキングと格闘?していますが、うちの会社ではノッキング=高負荷時に起こる異常燃焼でエンジン単体での現象、のことを指して言い、オーリィーさんのような現象の場合はサージとかスナッチと言って、エンジンのノッキングとは分離して考えています。(うちの会社だけの方言かもしれませんが。)(http://www.geocities.co.jp/MotorCity/9055/0403egeobook.html, 2005年4月15日)
ある電子掲示板に投稿された文(25)の書き手は、自分の使っている「ノッキング」の定義が、自社でしか通用せず、相手と違うかもしれないと述べている。仮にこの懸念が当たっているとしても、この「ノッキング」に上述の目的意識を無理に結びつける必要はないだろう。
[中川(モクタリ)明子・定延利之「専門のことば・仲間のことば」、上野智子・定延利之・佐藤和之・野田春美(編)『日本語のバラエティ』p. 23, おうふう, 2005.]
や、またやっちまった。しかし、自著は便利なんだから仕方がない。つまり、「ヨソの人間に悟られないように」「身内の自分たちだけで楽しむために」ジャーゴンや若者ことばをわざとしゃべるということももちろんあるだろうが、そうでない場合も上のようにあるのではないかということである。自分は特に何の目的も意図もなくしゃべっているが、そのことばが実はジャーゴンや若者ことばになっているという場合である。その時、「秘密保持や内部の結束のためですよね」などと事情通らしくささやかれ目配せされても、おもはゆいだけだろう。
私たちがことばを発する際、「何らかの目的を設定し、その目的を果たすために、意図的にことばを使う」ということが、いつも成り立っているわけではない。しかし、いまの言語研究は等身大の「話し手」像を忘れて、そういう「上空飛行的思考」(あらら、言っちゃったよ)で済ませているところが随分ある。
そして、ことばの変異と言えば、ジャーゴンや若者ことばのような社会的な変異だけでなく、忘れてはならないのが個人内の変異である。
1人の人間がしゃべることばの多様性には、私たちの想像を超えるものがある(第95回)。この多様性は従来「話し手は場面や状況、話す内容や相手に応じて、最適なスタイルを選び、それに応じてことばを使い分けるのだ」というもっともらしい形で片付けられてきた。この片付け方が「スタイルを選ぶ」「ことばを使い分ける」という点において、目的達成のために意図的にことばを使う理知的な「話し手」像を前提としていることは、特に説明を要しないだろう。では、本当にことばの個人内変異は、そのように片付け尽くせるのか? もしそうではないとしたら、どこがどう片付けられないのか? つまり、目的論的な発話観、道具的な言語観、そして意のままにスタイルを使いこなすひたすら理知的な「話し手」像の限界はどこにあるのか? その不足を補う新しい「話し手」像とは、どのようなものなのか?
自在に変えられる「スタイル」と違って、変わらないことが期待されているもの。それが変わってしまったところを目の当たりにすると、何事であるかすぐに察しがついてしまうが、(遊びの文脈を別とすれば)見た側も見られた側同様に気まずいもの。つまり私たちが自由に操れないことになっているもの。そういうものが私たちの日常生活には確かにあると、とりあえず「直感で思い当たって頂いて」(第94回)、それを「キャラクタ」と呼び、その観点から日本語社会を観察してきたのがこの連載である。(どうも日本語(現代日本語共通語)というやつは、キャラクタとの関わりがずば抜けて強いような気がしてならない。だからこそ、学習者にとってはなおさら大きな問題になるのかもしれない。)
そして結局のところ連載の中で試みたのは、上に挙げた問題に対する一つの答を、できるだけ具体的でわかりやすい形で出すということである。この試みの成否はもちろん読者の判断に委ねるしかない。だが一つハッキリしているのは、「1人の話し手がしゃべることばが多様である」という現象をどう説明すればよいのかという考察を通して、言語研究の枠組み(発話観や言語観)を再検討し、飛躍する機会を、私たちが楽しんだということである。これを言語研究におけるキャラクタ考察の意義と言うことには、どなたも異論はないだろう。(つづく)
◆この連載を続けてお読みになる方は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」アーカイブへ
◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「日本語社会 のぞきキャラくり」目次へ
◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
地域語の経済と社会 第108回
2010年 7月 17日 土曜日 筆者: 日高 貢一郎地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第108回 大分のローカルヒーロー「PCO」
現在、全国各地で、地域にねざしたローカルヒーローが登場し、祭りやイベントなどに出演して地元の人たちに愛され、活躍しています。(この連載シリーズの第26回「方言キャラクター」も参照)
大分にも「パワーシティオーイタ」(略称、PCO)というローカルヒーローがおり、その仲間やライバル(敵)などとしてすでに40体を制作。その中には方言で名前がつけられたキャラクターもいます。

【写真1】パワーシティオーイタ
このPCOを生み出したのは、H.A.C.(HEROS ATTRACTION CREATIVE)というグループで、2000年にヒーロー好きのメンバーが集まって発足しました。
キャラクターショーを中心とした様々なボランティア活動を展開し、「元気ある大分」をアピールしようと活動しています。
主なキャラクターと、大分の方言にちなんだ名前の登場人物や技などを挙げましょう。
ホームページによると「PCOは、大分を愛するみんなの心が集まって発生したエネルギー体「キョードアイ」が大分の為に頑張る人に宿り誕生したスーパーヒーローで、必殺技の「真羅神拳(しらしんけん)」は大分のみんなの「しらしんけん」な心を体に集中させて敵に叩き込む。大分の平和を乱すどんな困難な敵も打ち砕く」とあります。
「しらしんけん」は大分の方言で、〔一生懸命に〕の意味で広く使われています。

【写真2】敵役のダークシティオーイタ
PCOの最大の敵、永遠のライバルは、大分の悪い心が合体して誕生した「ダークシティオーイタ」(略称、DCO)で、大分の特産物をダークチェンジさせることで怪人に変えてしまい(例:後述のカサワクドン)、大分を悪の心で満たそうとたくらんでいます。
「蒼邪拳(そうじゃけん)」は彼の繰り出す必殺技。PCOの真羅神拳に匹敵する非常に強力なパワーを持っています。「そうじゃけん」〔そうだから〕という大分弁に由来します。
悪役の1人「ジョーカーレイ」が繰り出す光線技が「EBC(イービーシー)」で、大分弁の「いびしい」〔古語「いぶせし」の変化した語。気味が悪い、ゾッとする、汚らしい〕にちなんでの命名。EBCとはイビル・ブースト・セルの略で、悪意増幅細胞(あくいぞうふくさいぼう)という細胞を敵に植え込み「悪い心」にさせるという恐ろしい技です。
「ハニーレディオーイタ」は、PCOの仲間のヒロインです。その得意技は「レディシャーネンカー」で、大分弁の「しゃーねーんか」〔仕方ないのか〕に由来し、傷ついた体や体力を回復させる能力を持っています。

【写真3】ショックン(左)とパックン(右)
(以上、写真提供:H.A.C.)
大分の(自称)ヒーローに「ショックン」と「パックン」がいます。田舎から出てきたカエルタイプの2人組で、大分弁でカエルを意味する「ショックン、バックン」に由来します。(方言ではバックン(Ba-)ですが、ヒーローの名前はパックン(Pa-)です)
その他にも、悪役に「カサワクドン」がいますが、実は先のパックンがダークシティオーイタの手によって怪人に変えられた姿です。
カサワクドンは、大分弁の〔ヒキガエル〕を意味する「カサワクド」に由来します。
シイタケ怪人「ナバロン」は、大分の名産〔しいたけ〕の方言「ナバ」に由来します。
こんなふうに、地元・大分の方言にちなんで命名することによって、見る人たちに、よりいっそう親近感を持ってもらいたいという、H.A.C.のメンバーの思いが伝わってきます。
《参考》「パワーシティオーイタ」の公式ホームページは、http://pcoxhac.web.fc2.com/。
NHK大分放送局のテレビ番組「ししまるテレビ」(平成22年2月5日(金)放送)の中で、PCOのファンの子供たちが、ショーに出てくるキャラクターや技の名前で大分の方言を知り、方言を見直すきっかけになっていることが紹介されました。
※ 実は「ししまるテレビ」は「しらしんけん、まるごと、大分を取り上げるテレビ」という番組のねらいを縮めた語だそうで、これも方言にちなんだ命名です。
また『大分合同新聞』平成22年3月20日(土)夕刊1面でも、PCOのことが大きく取り上げられました。
◆この連載を続けてお読みになる方は
⇒「地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―」アーカイブへ
◆記事のタイトルからお探しになる方は
⇒「地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―」目次へ
【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
日高貢一郎(ひだか・こういちろう)
大分大学 教育福祉科学部 教授(国語学・方言学) 宮崎県出身。これまであまり他の研究者が取り上げなかったような分野やテーマを開拓したいと、“すき間産業のフロンティア”をめざす。「マスコミにおける方言の実態」(1986)、「宮崎県における方言グッズ」(1991)、「「~されてください」考」(1996)、「方言の有効活用」(1996)、「医療・福祉と方言学」(2002)、「方言によるネーミング」(2005)、「福祉社会と方言の役割」(2007)など。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
— 次のページ »










![『新明解国語辞典 第七版[机上版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の机上版。判型は並判より大きいA5判で、さらに文字が大きく見やすい。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[机上版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kijo.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[小型版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の小型版。並判より一回り小さいA6変型判で、携帯にも便利。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[小型版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kogata.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[革装版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の革装版。丈夫で使うほどに手になじむ。判型は並版・特装版と同じB6判。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[革装版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kawaso.jpg)














































































































































2007年









