2010年 9月 のアーカイブ

つなぎ語:反論2―『英語談話表現辞典』覚え書き(30)―

2010年 9月 30日 木曜日 筆者: 内田 聖二

前回は直接反論にかかわる表現を考えてみました。今回は一応相手の主張や言い分を認める形をとって、そのあとで自分の主張するところを述べる言い方を考察してみます。

よくみられるのは、相手の意見や主張を‘you are right’といったん認めて、次にbutを用いて反論なり修正意見を述べる形です。この場合の‘you’は「相手が言ったこと」に相当します。本辞典ではこの種の項目がありませんので、三省堂コーパスを改変したものをあげてみます。

‘You need a secretary. You’re too busy. Am I wrong?’ ‘You are right. But it’s difficult to find a right person.’ 「君には秘書が必要だ。忙しすぎるよ。間違っているかな」「その通りだけど、適当な人がなかなかいないんだよ」 / You said that the jury system works. I think you are right there, but some say against the system. 君は陪審員制度は機能していると言ったよね。それは間違っていないと思うけど、なかにはその制度に反対意見を言う人もいる。

助動詞mayを用いると、butを伴って譲歩の意味合いが強くなります。

‘Surely he’s a suspect now.’ ‘You may be right, but my guess is he wouldn’t know where the key was.’ 「彼が容疑者にきまってます」「確かにその通りかもしれないけど、私が思うに彼は鍵のあった場所を知らなかったと思う」

‘You are/may be right.’ は相手の言ったこと、主張したことの正しさに言及する言い方ですが、‘That’s right, but . . .’ は事実を事実として是認したあとで自分の意見を述べる言い方となります。

《まだ発売されてない本の内容をめぐって》‘It hasn’t been published yet as I understand it.’ ‘That’s quite right, but it’s been leaked.’ 「私の理解ではその本はまだ出版されていないはずだ」「まったくその通り。でも内容がリークしている」

事実に関する表現としては‘right’の代わりに‘true’が用いられることもあります。次は自らの発話内における例です。

Boys don’t go into bookshops. I certainly think to a great extent that is true, but when the books are brought to them they get very enthusiastic.男の子は本屋に行かないし、たいていの場合たしかにそうだと思うけど、本を与えるととても興味を示す。

次は同じtrueの例ですが、助動詞mayを伴って譲歩の意味合いを前面に出して相手の発言に応答しています。

‘You know, I just read the other day that there really is a connection between watching violent films and doing violent things.’ ‘For some people that may be true, but we just saw the film, and we’re not about to do anything violent.’ 「あのね、この前暴力的な映画を見ることと凶暴なことをすることには関連があるという記事を読んだんだけど」「一部の人には当てはまるかもしれないけど、たった今その種の映画をみたぼくらは何か凶暴なことをしようとしていないだろ」

この例では相手に直接反論しているのではなく、記事の内容に対して反証をあげている言い方になっています。


【筆者プロフィール】
内田聖二(うちだ・せいじ)
奈良女子大学教授
専門は英語学、言語学(語用論)
主な業績:『英語基本動詞辞典』(1980年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基礎語彙の文法』(1993年)英宝社(衣笠忠司、赤野一郎と共編著)
『関連性理論-伝達と認知-』(初版1993年、第2版1999年)研究社(共訳)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(第2版1994年)小学館(小西友七・安井稔・國廣哲弥・堀内克明編、分担執筆) 
Relevance Theory: Applications and Implications, 1998, John Benjamins.(Robyn Carstonと共編著)
『英語基本名詞辞典』(2001年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『ユースプログレッシブ英和辞典』(2004年)小学館(八木克正編集主幹、編集委員)
『新英語学概論』(2006年)英宝社(八木克正編、共著)
『思考と発話』(2007年)研究社(共訳)
『子どもとことばの出会い』(2008年)研究社(監訳)


【編集部から】
語用論的な情報をふんだんに盛り込んだ、日本発の本格的な発信型会話・談話表現辞典、『英語談話表現辞典』について、編者の内田聖二先生にご紹介いただきます。
書籍購入者は、http://dce.dual-d.netにて本辞典の全データを収録したウェブ版辞典を無料でお使いいただけます。

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(36)

2010年 9月 28日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(36) 笑われ者登場~源方弘(まさひろ)

 職曹司時代の章段を中関白家隆盛期の正暦5年頃の章段と比べてみると、ずいぶん印象が違うことに気づきます。その理由として、第一に登場人物が変化したことが挙げられます。

 正暦5年頃の章段では、関白道隆の下で栄える一族の伊周や隆家などがよく登場していました。そこでは華やかな衣装をまとった上流貴族たちが漢詩や和歌の教養を披露し、それに対して作者の最上級の称賛が贈られていました。一方、職曹司時代では、中関白家の人々の姿はすっかり消えています。栄華の世界から離れた定子を中心に、清少納言らサロン女房たちが日常的な生活の中で見聞きした些細な事件を取り上げ、題材にしています。

 そんな職曹司時代の章段で活躍するのは中下流階級の人々です。上流貴族が称賛の対象であったのに対して、中下流階級の人々は、貴族社会にそぐわない言動によって笑われる対象となります。今回は、「方弘は、いみじう人に笑はるる者かな」と章段の冒頭で紹介される源方弘の話をしましょう。

 方弘は、長徳二年正月に蔵人となり、宮中に出入りするようになった中流貴族です。彼は、『枕草子』の中で2つの章段に登場しますが、どちらの話でも笑われ者になっています。方弘のどういうところが笑われるのかというと、まずは奇妙な言葉遣いや言い回しです。それに、自らの失敗をつつみ隠さず大声で披露してしまうこと、立ち居振る舞いに注意が足りず、灯台をひっくり返したりして騒動を起こすことなどが加わります。

 言葉遣いに対して敏感なのは作家として当然のことでしょう。他の章段で、ある人物の田舎訛りを清少納言自身が直接からかう場面がありますが、方弘については、殿上人がさんざん彼を笑っている状況を第三者の立場で記しています。

 地方育ちの人間が、都会に出てきた当初、方言を使って笑われるのは現代社会でもよくあることです。方弘自身は自分が失態を演じているという自覚はなく、一生懸命に仕事をしていたのだと考えられますが、彼が頑張れば頑張るほど、周囲の失笑を買い、《笑われ者》のレッテルを貼られてしまうのが京の都の上流社会だったようです。

 しかし、どんなに笑われても、部下が人々から「どうしてあんな主人に仕えているのか」とまで言われても、方弘はめげません。体裁を気にして出仕できなくなるのは上流貴族のお坊ちゃまであり、受領階級出身の成り上がり貴族は骨太で逞しいのです。

 清少納言が方弘の噂をどんな風に受け止め、どう思っていたか、彼に対する作者の具体的なコメントは記されません。けれど、粗忽者方弘の人物像がなんと生き生きと描かれていることでしょう。この後、職曹司時代の章段には、方弘よりさらに下の階級の人物が登場し、定子サロンの生活の中に入り込んできます。上流貴族ばかりを見つめていた作者の視線が、時代背景の変化と共に変わり、その中で、《笑われ者》の役割が新たな作品形成の要として機能していくのです。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

耳の文化と目の文化(21)―熟語の1語書きと造語(1)―

2010年 9月 27日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(93)

本来は句である熟語を1語に書くかどうかという問題はあくまで正書法の問題であるが、どのような場合に1語に書くかは必ずしも明確には決められない。従って、正書法辞典などの形で人為的に決めるほかはない。これに対して、複数の語から新しい単語を作る造語は最初から1語に書くことが決まっており、その造語法は統語規則とは区別される。例えば、いわゆる分離動詞は動詞句が熟語化したものであり、正書法によって不定詞形、分詞形を1語で書くことに決められたものであるが、非分離動詞は接頭辞による造語である。

名詞の場合、造語による複合名詞があるだけで、名詞句の熟語化による1語書きは存在しない。まず、名詞と名詞が並んでいるとき、複合名詞であれば付加語的要素の名詞はその語幹のみが前に置かれるから、句ではないことがわかる。反対に、名詞句であれば付加語的要素の名詞は後に置かれ、それの格表示もなされるから、これを1語に書くことはない:die Stadtmitte「都心」:die Mitte einer Stadt「都市の中心」。ただ、歴史的に見れば、die Königskrone「王冠」などは本来、eines Königs Krone「王の冠」という句であったものが1語書きされるようになったと言える。ただし、現代語では属格名詞は前置されなくなったので、属格を表わすsは接合辞と解釈される。このことは属格にsが付くことがない女性名詞との複合名詞にもそれが表れることからわかる:der Arbeitsmarkt「労働市場」、die Universitätsbibliothek「大学図書館」。また、中世語では女性名詞にも弱変化があったから、その単数属格形には語尾[e]nが付いた。従って、der Sonnenschein「日光」 die Frauenkirche「聖母教会」などにおける[e]nはそれぞれdie Sonne「太陽」、 die Frau「女性(ここでは聖母マリア)」の単数属格形のなごりであり、これも今日では接合辞として機能している。

形容詞と名詞、動詞と名詞が並んでいるときも両者の区別は明確につけることができる。複合名詞であれば形容詞、動詞は語幹が使われるから句ではないことは明らかだし、名詞句であれば、付加語としての語形変化をしているからこれを1語に書くことはないからである:die Großstadt「大都会」:die große Stadt「大きな都市」、der Schreibtisch「書き物机」:der Tisch zum Schreiben「書き物のための机」。

句が名詞として1語に書かれるようになったものとしてはder Taugenichts「役立たず(人)」、das Vergissmeinnicht「わすれな草」などがあるがこれは文が名詞化したもの。


【筆者プロフィール】
新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
専門は言語学、ドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

An Unofficial Guide for Japanese Characters 29

2010年 9月 26日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki

<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 28

The “ta” of Nono-chan’s Mother

Nono-chan is a four-panel comic by Hisaichi Ishii(1), carried in the morning edition of the Asahi Shinbun newspaper. However, although it is a four-panel comic, it is not necessarily always composed of four panels. For example, comic 4081 (October 4, 2008) contained five panels. In the space that would normally contain the third panel, were drawn two narrow panels (the third and fourth panels), while a fifth panel was drawn in the space that would normally contain the fourth panel. Let’s trace the story of this comic.

The setting is inside the house. In the first panel, the father appears to have just gotten up and is in his pajamas; looking around, he says to himself, “I guess everyone went out.” There’s a piece of paper on a desk by his side.

Second panel. The piece of paper is a note, with a sentence written in the “-ta” (past tense) form: “Reezooko ni chaahan ga arimashita (There was some fried rice in the refrigerator.). There are kana (レイゾウコ) written above the kanji 冷蔵庫 (reezooko, refrigerator); these are not so much a product of consideration by the note’s author (the mother), as they are of the artist’s concern for his wide range of readers. (Kana readings appear above some of the other kanji in the comic, but I won’t mention it again.)

Third panel. Seeing the note is in the “ta” form, the father grumbles, “Past tense? So who ate it?”

Fourth panel. Opening the refrigerator, he sees there is indeed some fried rice there. “Huh. There is some after all,” he says.

Fifth panel. Staring at the plate of fried rice in his hand and furrowing his eyebrows, the father says “I wonder exactly how old this is.” In the margin, the words, “there was some fried rice in the refrigerator” appear again, along with a small picture of the mother peeping into the refrigerator and exclaiming “Wao!” (Oh!) in surprise. That is the end of the comic.

According to Dr. Hiroaki Kato, who sent me this comic knowing of my research on the syllable “ta” (mentioned in an earlier column(2)), whether or not readers can understand the joke is influenced by whether or not they regularly read Nono-chan. To be sure, when I asked around, some people did not understand this comic at all; in other words, they could not understand the “ta” form sentence “Reezooko ni chaahan ga arimashita.” These were invariably people who were not familiar with the character of the mother in Nono-chan.

The “ta” in this note, “Reezooko ni chaahan ga arimashita,” is the same “ta” used by the people returning from their hiking trip: “Kyoo △△ yama ni ittara, saru ga ita (Today, we went to Mount So-and-so, and there was a monkey there!)

The speaker can utter this sentence, “Kyoo △△yama ni ittara, saru ga ita,” in the belief that at the very moment he’s speaking, the monkey is still there on Mount So-and-so. It is not the fact that “there is a monkey on Mount So-and-so” that allows the speaker to use the “ta” form past tense, but rather her own past experience of “having gone and explored (by hiking) the conditions of Mount So-and-so, and discovering a monkey.”

The mother in Nono-chan is a slovenly, lazy individual, so the refrigerator that is under her charge is extremely disorganized. To this mother the refrigerator is, like Mount So-and-so, a mysterious territory whose contents are unknown. Like the people exploring Mount So-and-so (by hiking), the mother explored her refrigerator. As a result, since her experience of finding some fried rice in the fridge was already in the past at the time she wrote the note, her use of the “ta” form in the phrase “Reezouko ni chaahan arimashita” is justified.

Normally, we do not need to explore our own refrigerators. Or do we? I’m not sure I can speak for my refrigerator. Anyway, dwindling confidence in my own fridge notwithstanding, the important thing here is that, even if I did explore my refrigerator, and then shared the results of this experience with someone in a note, I would normally write it in the form of general knowledge —“There’s some fried rice in the refrigerator”— and not as an exploratory experience.

However, because this mother is a slovenly, lazy individual, she didn’t bother with this detail, and just expressed her exploratory experience, without modification, in the note (second panel). Confused by this, the father says “Past tense? So who ate it?” (third panel), but upon opening the refrigerator and learning that there is indeed fried rice there (fourth panel) it finally dawns on him that this note was not an expression of knowledge of the existence of the fried rice in the refrigerator, but rather a narrative of the mother’s exploration of the refrigerator (fifth panel); that is the point of this comic.

So when the people returning from their hiking trip use “ta”“Kyoo △△ yama ni ittara, saru ga ita— it is not as if there is actually a monkey in front of them now; on this point it is a different kind of “ta” from the discovery “ta” addressed in my earlier column. The “ta” used in the mother’s note —“Reezooko ni chaahan ga arimashita”— is similar. However correctly interpreting this comic (looking at the fifth panel, and concluding that “the mother explored her refrigerator, and then wrote a note about her unmodified experience in narrative form”) is inextricably dependent upon one’s assigning the mother the character of a “slovenly, lazy individual.” The naturalness of this “ta” being linked with character is not exclusive to the discovery “ta.”

I’d like to talk about this, along with the topics I discussed previously, in more detail later. I’ll be able to do so at the Kobe University symposium “Role Language, Character, and Speech,” which will be held on March 28 and 29 (Sat. & Sun.). Lectures and presentations on research are scheduled, so I hope that all my readers will attend. Admission is free, and you can inquire by email as per the website’s directions.(3)

* * *

(1) 1951– Manga artist. Nono-chan was the basis for the Studio Ghibli movie, My Neighbors the Yamadas.
(2) See part 28 of this series.
(3) Unfortunately, this symposium was held in 2009. However, the website is still up, so readers can still read about it there (Japanese only). See here for further details: http://www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/char-sympo-2009.htm

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author

Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems)Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

角色大世界――日本 29

2010年 9月 26日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)

<< 角色大世界――日本 28

《Nono-chan》中妈妈使用的“た(ta)”

Ishii Hisaichi(石井寿一)先生的漫画《Nono-chan》是在朝日新闻早报上连载的四张画面漫画。

虽说是四张画面漫画,但也不是总是由四张画面构成。比方说第4081篇漫画(2008年10月4日)就是由五张画面构成的。在这节中,第三张画面被分成两小张,成为第三、第四张画面,原来的第四张画面依次成为第五张画面。下面我们看一看这篇漫画所讲的内容。(标点符号按照本搞的表达方式。)

故事场景是在家中。第一张画面是,爸爸穿着睡衣以刚睡醒的样子登场,看看四周自言自语说“みんな出かけたか(Minna dekaketa-ka大家都出去了)”,在他旁边的桌子上放着一张纸。

第二张画面是,那张纸是个留言条,上面写着“冷蔵庫にチャーハンがありました(Reezooko-ni chaahan-ga arimashi-ta 冰箱里有了 (一盘) 炒饭)”,使用了“た (ta 了)”。“ 冷蔵庫(reezooko 冰箱)”旁边用假名写了注音“レイゾウコ (reezooko)”,但是这与其说是写留言的人(妈妈)信心周到,倒不如说是作者顾虑到了不同水平的广泛读者。(以下画面也有给汉字注了假名的情况,不再言及。)

第三张画面是,看了用了“た (ta)”的留言之后,爸爸嘀咕说“過去形? だれかが食っちまったのか?(Kakokee? Dareka-ga kucchima-tta-no-ka 过去式?谁 (把炒饭) 吃了吗?”

第四张画面是,爸爸打开冰箱,看到了炒饭,说“いや、チャーハンがあるぞ (Iya、chaahan-ga aruzo 不对,(冰箱里)有炒饭啊)”。

第五张画面是,爸爸盯着手里拿着的炒饭皱着眉头说“いったいいつのだ (Ittai itsu-no-da (这炒饭) 到底是什么时候的?)”在画面旁边的空白处重复一遍“冷蔵庫にチャーハンがありました(Reezooko-ni chaahan-ga arimashi-ta 冰箱里有了 (一盘) 炒饭)”,同时画了写这句留言的人—妈妈翻看冰箱“わお(wao 啊!)”的一声吃惊的样子。到这里,这篇漫画就结束了。

加藤宏明先生知道我在搞关于“た (ta)”的研究,把这篇漫画介绍给了我,并且说是否能理解这篇漫画,要看是不是一直在读《Nono-chan》的连载。我向周围的人询问时,确实有的人完全不理解这篇漫画的意思,就是说对于为什么使用“冷蔵庫にチャーハンがありました(Reezooko-ni chaahan-ga arimashi-ta 冰箱里有了 (一盘) 炒饭)”的“た (ta)”句式,不能做出恰当的解释,而且,这些人也都是不了解《Nono-chan》中妈妈的角色形象的人。

留言“冷蔵庫にチャーハンがありました (Reezooko-ni chaahan-ga arimashi-ta 冰箱里有了(一盘) 炒饭)”的“た (ta)”句,与“今日、△△山に行ったら、サルがいた (Kyoo、△△yama-ni i-ttara、saru-ga i-ta 今天去△△山时,(那里) 有了猴子)”这样登山回来后使用的“た (ta)”句是一样的。当登山回来后使用过去式的“た (ta)”说“今日、△△山に行ったら、サルがいた (Kyoo、△△yama-ni i-ttara、saru-ga i-ta 今天去△△山时,(那里) 有了猴子)”,并不是在说△△山上过去有猴子,而是相信现在在说话的瞬间△△山上仍然有猴子。不是说“△△山上有猴子”这件事成为过去,而是“带着△△山是什么样的这种探究意识去登山,发现了山上有猴子”自己的这一经验成为过去,所以可以使用表示过去的“た (ta)”。

《Nono-chan》中的妈妈是个迟钝散漫、懒惰的人,她总是把冰箱里面弄得乱七八糟。对于妈妈来说,冰箱就像△△山一样,是个不知道有什么、谜团似的领域,就像探究山上有什么一样,妈妈探究冰箱里有什么,探究的结果是发现了冰箱里有炒饭,这一探究的经验,在妈妈写留言时已经成为过去,所以使用表示过去的“た (ta)”说“冷蔵庫にチャーハンがありました(Reezooko-ni chaahan-ga arimashi-ta 冰箱里有了 (一盘) 炒饭)”是可以的。

当然,冰箱一般情况下不是探究的对象。嗯? 是一般情况下吗? 我们家是怎么样的呢?嗯~ 渐渐的没有信心了。重要的是,即使对冰箱进行了探究,把探究体验的结果作为留言告知他人时,通常不会以探究体验的形式、而会作为一般性知识的形式说“冷蔵庫にチャーハンがあります (Reezooko-ni chaahan-ga arimasu 冰箱里有 (一盘) 炒饭)”,不会用过去式“た (ta)”。

但是,《Nono-chan》中的妈妈却是个迟钝散漫、懒惰的人,对于这些根本不在乎,把自己的探究经验直接写在了留言上 (第二张画面)。对于这个留言,爸爸也吃惊地说“過去形?だれかが食っちまったのか? (Kakokee? Dareka-ga kucchima-tta-no-ka 过去式? 谁 (把炒饭)吃了吗?”(第三张画面),打开冰箱发现里面还有炒饭(第四张画面),明白了妈妈写的留言不是对于冰箱里有炒饭这一事实的知识性表达,而是探究了冰箱之后的妈妈的经验之谈(第五张画面)。炒饭是妈妈探究冰箱时发现的,什么时候做的也就不知道,能不能吃也就不知道了。以上是这篇漫画的梗概吧。

“今日、△△山に行ったら、サルがいた (Kyoo、△△yama-ni i-ttara、saru-ga i-ta 今天去△△山时,(那里) 有了猴子)”这句登山回来的人使用的“た (ta)”,并不是现在说话时猴子就在眼前,这一点与上一节谈到的“发现的‘た (ta)’”不同,是另一种意思的“た (ta)”。 “冷蔵庫にチャーハンがありました(Reezooko-ni chaahan-ga arimashi-ta 冰箱里有了 (一盘) 炒饭)”的“た (ta)”也是一样的。但是,我们在第五张画面中推测出“妈妈探究冰箱,把结果直接作为体验之谈的形式写成留言”,进而对这个漫画做出恰当的解释,和把妈妈看作成“迟钝散漫、懒惰的人”,两者是相辅相成的。可见,“た (ta)”的使用是否自然与说话人的角色形象相关,这不仅仅只限于表示发现的“た (ta)”。

综合上一节的内容,在2009年的3月28日、29日召开的 “角色语言 角色 语言”论坛会议上,我做了更为详细的报告,在此论坛会议上也其他的讲演和报告。简单的情况请参照以下主页⇒ http://www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/char-sympo-2009.htm

角色大世界――日本 30 >>

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《烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系》(筑摩新书,2008)定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。

地域語の経済と社会 第118回 口蹄疫に負けるな! 宮崎県

2010年 9月 25日 土曜日 筆者: 日高 貢一郎

地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第118回 「口蹄疫に負けるな! 宮崎県」

 ことし、宮崎県で家畜の伝染病「口蹄疫(こうていえき)」が発生して猛威をふるい、「宮崎牛」のブランドなどで知られる宮崎県の畜産は甚大な被害を被りました。

 発生が最初に確認されたのは4月20日、県中部の児湯郡都農町(こゆぐんつのちょう)でした。以後、県西南部えびの市に飛び火し、さらに宮崎県内の6市5町に拡大。
 宮崎県や農水省、関係団体などが懸命の対応で防疫と拡大防止に奔走しましたが、結果として約29万頭に及ぶ牛や豚が殺処分されることになりました。
 発生以降、畜舎の徹底消毒はもちろんのこと、家畜の移動制限や搬出制限、多くの人が集まる行事等の自粛、県内を通行する車などにも徹底した消毒・防疫体制が敷かれました。

 その甲斐あって、「非常事態宣言」が解除されたのが7月27日。それからひと月後、8月27日に発生確認から130日目にしてようやく「終息宣言」が出されました。
 この間、全国各地から、多くの義援金や励ましの声が寄せられ、力強い応援・支援に支えられて、いま懸命に立ちあがろうとしています。

 が、本当の復興・再生はこれからです。風評被害があったり、観光客のキャンセルなども少なくないとのこと。エース級の種牛が残ったのがせめてもの救いですが、ウイルスの侵入経路は未解明のままで、依然として不安は残っています。
 元のような元気な町や県の姿に戻るには、何年かかるのでしょうか……。今後、関係者を中心に、県民挙げての努力が続きます。

(写真はクリックで拡大表示します)
【写真1 川南町の通りに掲げられた横断幕(提供:川南町商工会)』】
【写真1 川南町の通りに掲げられた横断幕】
(提供:川南町商工会)

 その渦中にあって、被害が最も集中し、対応に追われている町の一つが、宮崎県中部に位置する児湯郡川南町(かわみなみちょう)です。町の中心部の商店街「トロントロン通り」には「がんばっどぉ!! 川南」という、肉太の筆文字の横断幕が掲げられています。【写真1】
 「~すっど」は強い決意や意志を表し、共通語の〔~するぞ〕に当たります。
 町商工会のメンバーで話し合い、何とかこの苦境をみんなで力を合わせて乗り切りたいという思いと願いを込めて制作したのだということです。

【写真2 都城市立明道小学校の横断幕】
【写真2 都城市立明道小学校の横断幕】

 もうひとつ……。県南西部の中心都市・都城市も、県内はもとより、国内でも有数の畜産の盛んな地域ですが、やはり口蹄疫禍に見舞われました。
 都城市役所と国道10号線を挟んで向かい合った明道(めいどう)小学校の運動場の防護ネットにも、方言を活かした横長の大きな幕が掲げられました。【写真2】
 「きばっど! みやざき!! 口蹄疫に負けるな !!」と力強い字体で大書され、その周りには子どもたちが書いた牛と豚の顔のイラストとメッセージがびっしりと書かれています。
 「きばる」は「気張る」で、〔元気を出す、気力を奮い起こす、一生懸命取り組む〕という意味。「~ど」は先の川南町の場合と同じです。

 「がんばるぞ! 負けないぞ!」という決意を表すことは、共通語でも方言でも可能ですが、共通語で表現した場合と比べて、やはり方言のもつ訴求力、迫真力、直接性の強さが印象に残ります。《自分たちの強い思いを、実感を込めた自分たちのことばで表現したい!》 これらの横断幕は、その言語効果を考えての方言活用だったと考えられます。
 口蹄疫に負くんなよ! 頑張らんとだめど 宮崎県!!

《参考》川南町のホームページhttp://www.town.kawaminami.miyazaki.jp/index.jsp のトップページ左下にある「広報川南」をクリックすると、『広報かわみなみ』第115号(2010.7.7発行)の表紙=「がんばっどぉ!! 川南」の横断幕の写真が見られます。
 都城市立明道小学校のホームページは、
 http://www.miyazaki-c.ed.jp/miyakonojo-meido-e/を参照。都城でも口蹄疫が発生したことをうけ、児童たちと何かそれに対する活動をしたいと、PTAの発案で横断幕が企画されたことや、体育館で横断幕制作中の写真などが紹介されています。

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【筆者プロフィール】

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
 井上史雄大橋敦夫田中宣廣日高貢一郎山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

日高貢一郎(ひだか・こういちろう)
 大分大学 教育福祉科学部 教授(国語学・方言学) 宮崎県出身。これまであまり他の研究者が取り上げなかったような分野やテーマを開拓したいと、“すき間産業のフロンティア”をめざす。「マスコミにおける方言の実態」(1986)、「宮崎県における方言グッズ」(1991)、「「~されてください」考」(1996)、「方言の有効活用」(1996)、「医療・福祉と方言学」(2002)、「方言によるネーミング」(2005)、「福祉社会と方言の役割」(2007)など。

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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。

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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

社会言語学者の雑記帳6-1 ローマ字の迷宮

2010年 9月 24日 金曜日 筆者: 松田 謙次郎

ローマ字の迷宮

 突然ですが、みなさんは自分の名前を自信を持ってローマ字で書けますか?もちろん、「田中和夫」とか「中村あゆ」(同名の方、申し訳ありません…<(_ _)>)といったどう転んでもローマ字の書き方に差が出ないような名前の方もいらっしゃるでしょう。しかし、世の中には「松田謙次郎」のように、Matsuda なのかMatudaなのか、Kenjiro なのかKenzirouなのか、はたまたKenziroh なのかと一度ならず自分の名前のローマ字表記に迷わざるを得なかった人もいるはずです。

 そもそもローマ字表記とはそもそもどういうものであったのか。ローマ字表記には大別して「訓令式」と「ヘボン式」があること、実際には場合によりどちらも使われていること、などは例えうっすらとでも誰しもご存じでしょう。ごく簡単に言えば、ヘボン式は英語の発音を基礎に、訓令式は音素表記という原則で日本語をローマ字化する体系です。よって例えば「し」「つ」「ち」はヘボン式なら shi, tsu, chi となり、訓令式は si, tu, ti と綴れと言うわけです。我々はこの2つの方式を小学校で習ったはずで、よって誰しもローマ字と言えば「なんとなく2方式があったよなー」と思うわけです(正確には、訓令式にはその先駆けとして、非常に似た「日本式」という方式もあったのですが)。そしてローマ字論争と言うのは、この2つの方式のいずれを採用するべきかという論点を巡ってのものだ、というのが大方の理解でしょう。

 ところが、こうした理解は実はローマ字問題のごく一部をカバーするものでしかありません。ローマ字に関してピカ一の情報量を誇ると思われるサイト「ローマ字相談室」 (http://www.halcat.com/)は、こうした安直な理解が大きな誤りであることを嫌と言うほど教えてくれます。

 このサイトに曰く、日本語ローマ字表記法には少なくとも9つ(うち一つはこのサイトオーナーである海津知緒さん考案の方式)あり、中には国際規格であるISOで定められたものまである。曰く、ヘボン式と言われるが、そのヘボン式とはどういうものか、その方式を記述した文章はないらしい(つまり公的規格ではない)。曰く、パスポートに用いられるローマ字方式は、厳密にはヘボン式とは異なり(長音を表す^や ̄ などの符号を使わない)、「外務省式」という独自方式である、などなど。そうです、このサイトを読むだけで、我々のローマ字理解は大きく揺らぎ出しますね。なんと9つの方式。ローマ字こそ表記バリエーションの王国だったわけです。かな遣いと比べれば、そのアナーキーさが分かろうというものです (((( ;゚д゚))))アワワワワ

 ローマ字法の混乱には、また意外な側面も……(次回へつづく)

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【筆者プロフィール】

松田謙次郎(まつだ・けんじろう)
神戸松蔭女子学院大学文学部英語英米文学科、大学院英語学専攻教授。Ph.D.
専攻は社会言語学・変異理論。「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」と称して、自然談話データによる日本語諸方言の言語変化・変異現象研究や、国会会議録をコーパスとして使った研究などを専門とする。
『日本のフィールド言語学――新たな学の創造にむけた富山からの提言』(共著、桂書房、2006)、『応用社会言語学を学ぶ人のために』(共著、世界思想社、2001)、『生きたことばをつかまえる――言語変異の観察と分析』(共訳、松柏社、2000)、『国会会議録を使った日本語研究』(編、ひつじ書房、2008)などの業績がある。
URL:http://sils.shoin.ac.jp/%7Ekenjiro/

【編集部から】
「社会言語学者の雑記帳」は、「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」者・松田謙次郎先生から キワキワな話をたくさん盛り込んで、身のまわりの言語現象やそれをめぐるあんなことやこんなことを展開していただいております。

人名用漢字の新字旧字:「亘」と「亙」

2010年 9月 23日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第72回 「亘」と「亙」

新字の「亘」は、人名用漢字なので子供の名づけに使えます。旧字の「亙」も、人名用漢字なので子供の名づけに使えます。つまり、「亘」も「亙」も出生届に書いてOK。実は、「亘」と「亙」は全く異なる別の字なのですが、ここではあえて、「亘」を新字、「亙」を旧字と呼ぶことにしましょう。

昭和15年12月、国語協会は『標準名づけ読本』を発表しました。『標準名づけ読本』は、やさしくわかりやすい名前を子供につけることで国字運動の一翼を担おう、という意図のもとに編纂されたもので、端的に言えば、子供の名づけに用いる漢字を500字に制限しようとするものでした。この500字の中に、旧字の「亙」が含まれていました。一方、昭和17年6月17日に国語審議会が答申した標準漢字表2528字には、新字の「亘」が収録されていました。「亘」と「亙」に関しては、国語協会と国語審議会とで見解が微妙に異なっていたのです。

ところが、昭和21年11月16日に内閣告示された当用漢字表には、「亘」も「亙」も収録されていませんでした。昭和23年1月1日の戸籍法改正で、子供の名づけに使える漢字は、この時点の当用漢字表1850字に制限されました。この結果、「亘」も「亙」も子供の名づけには使えなくなってしまいました。

昭和26年3月13日、国語審議会のもと発足した固有名詞部会では、子供の名づけに使える漢字を、当用漢字以外にも増やす方向で議論が進みました。固有名詞部会は『標準名づけ読本』の500字をチェックし、500字のうち75字が当用漢字に含まれていないことを確認しました。この75字の中に、旧字の「亙」が含まれていたのです。固有名詞部会は、この75字に17字を加えた92字を、追加すべき人名用漢字として国語審議会に報告しました。これを受けて、国語審議会は昭和26年5月14日、人名漢字に関する建議を発表しました。翌週25日、この92字は人名用漢字別表として内閣告示され、旧字の「亙」が子供の名づけに使えるようになりました。

2週間後の昭和26年6月9日、名古屋法務局長は、旧字の「亙」に加えて、新字の「亘」を名に含む出生届を受理してよいかどうか、法務府民事局長に照会しました。当時「恆」と「恒」の両方が子供の名づけに使えたので、これを「亙」と「亘」にも援用できるかどうか、たずねたのです。これに対する法務府民事局長の回答(昭和26年6月27日)は、新字の「亘」も受理してさしつかえない、というものでした。

昭和56年10月1日、常用漢字表が内閣告示されると同時に、戸籍法施行規則も改正され、新字の「亘」も人名用漢字になりました。それが現在も続いていて、新字の「亘」も旧字の「亙」も出生届に書いてOKなのです。


【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。

報告:深谷先生の辞書引き学習体験会(9月18日)

2010年 9月 22日 水曜日 筆者: ogm

★辞書をどんどん自分のものにしていく子どもたちの姿が印象的でした★

イベント会場で初めて手にしたはずの辞書。1時間半のイベントがお開きになる頃には、もう立派な「マイ辞書」になっていました。

旭屋書店池袋店イベントの様子9月18日に旭屋書店池袋店主催でおこなわれました“「辞書引き学習」開発者・深谷圭助先生の「辞書引き学習」体験会”。体験会の終盤には、なんと貼った付箋が300枚を超える子が続々と。きっと、ページをめくるたびに、自分の知っていることばが目に飛び込んでくるのでしょう。えんぴつを持つ手が止まらない様子でした。スタッフは予備で用意してあった付箋もなくなるのではないかと、実はちょっと心配でした……。

旭屋書店池袋店イベントの様子皆さんに使っていただいた辞書は『三省堂 例解小学国語辞典』。一心不乱に辞書を引いている後ろから、どんなことばを調べているのかのぞくと、(当たり前のことかもしれませんが)みなそれぞれ違うことばを引いています。そのことばそれぞれに、その子の個性が現れていて、初めて会ったはずなのに、なんだか普段の生活まで垣間見ているような気にさえなります。辞書は、本当にどの子にも扉が開かれているんだなぁと感じた瞬間でもありました。

ぜひ皆さまにご体験いただきたいこの体験会。今度は10月31日(日)にリブロ 池袋本店さん主催にて開催予定です。興味をお持ちの方は、ぜひご検討をと思います。お近くでない方にはたいへん恐縮ですが、ぜひご家庭で、学校で 辞書引き学習を体験していただきたく、「辞書引き学習」基本のステップのご紹介や、深谷先生のインタビューをこのウェブサイトに掲載していますのでそちらもご覧くださいませ。また、今後もイベントを開催する際にはお知らせを掲載いたしますので、どうぞご覧いただければと思います。

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【編集部からのお知らせ】

■最新のイベント情報は右にあります「おすすめ記事」からご覧ください。今後のイベント情報、また、これまでの報告など関連情報は以下からもご覧いただけます。
 ⇒辞書引き学習についての情報

■「辞書引き学習」基本のステップは五つ! 今すぐ始めたい方はこちらをご覧ください。
 ⇒「辞書引き学習」とは(監修:深谷圭助)
 「やってみよう!」 「辞書引き学習」への取り組み―先生方・保護者の方へ―

■このウェブサイトにて、深谷先生のインタビューを掲載しています。以下をご覧ください。
 ⇒インタビュー「辞書引き学習」の深谷圭助先生《前編》
 ⇒インタビュー「辞書引き学習」の深谷圭助先生《後編》

■編集部で立命館小へうかがいました。以下に訪問記を掲載しています。
 ⇒「辞書引き学習」の立命館小訪問記1
 ⇒「辞書引き学習」の立命館小訪問記2

★深谷先生から推薦をいただいております

例解小学国語辞典 第四版
編者:田近洵一
B6判 1,216ページ 1,995(本体1,900)円 ISBN 978-4-385-13821-3
[ワイド版] A5判 2,205(本体2,100)円 ISBN 978-4-385-13822-0

 

例解小学漢字辞典 第三版 新装版
編者:林 四郎(主幹)・大村はま
B6判 1,152ページ 1,995(本体1,900)円 ISBN 978-4-385-13817-6
[ワイド版] A5判 2,205(本体2,100)円 ISBN 978-4-385-13818-3

 

★立命館小学校で使われています

クラウン学習国語百科辞典
監修:金田一春彦 編者:三省堂編修所
A5判 1,200ページ 3,990(本体3,800)円
ISBN 978-4-385-15048-2

An Unofficial Guide for Japanese Characters 28

2010年 9月 19日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki

<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 27

Discovery “ta” and speech characters

It would be the easiest thing in the world to explain the speech of “child” and “adult” characters by saying that “children” characters and “adult” characters are by nature thus and so, and therefore they use certain sorts of words. However, as we discussed last time, there are facets of the wording used by “child” and “adult” characters that are beyond the grasp of such “common-sense linguistics.” Let’s look a little more at some “adult” character speech that cannot be understood with “common-sense.”

Sometimes we say, “A, atta!” (Ah! It was here!) when we find something. Although the item is there, in front of our eyes, the feeling of discovery causes us to naturally savor the syllable “ta” in “atta” and for this reason, this “ta” is sometimes called the discovery “ta”(1) in Japanese linguistics.

Here I will get technical for a moment. There is a divide over this discovery “ta” as to whether or not it requires the speaker to anticipate finding an object in a general location. For example, one line of thinking is that in the sentence “A, techou atta!” (Ah! My bankbook was here!) it is not sufficient to have simply discovered the bankbook to pronounce the discovery “ta;” there must be some anticipation, no matter how faint, of finding the bankbook in that overall location. If one unexpectedly found one’s bankbook, some argue, one would be more likely to say “A, techou ga aru!” (Ah, here’s my bankbook), not “A, techou atta!” The schools of thought regarding this issue are divided into camps—those who believe prior anticipation is necessary, and those who believe it unnecessary. However, each camp simply accumulates descriptions of cases in which it is “necessary” or “unnecessary,” without any debate actually occurring between the two camps.

With regards to this problem, Dr. Hideo Teramura (1928–1990) stated that he did not think prior anticipation to be necessary. As grounds for this, Teramura cited a passage from Masuji Ibuse’s (1898–1993) novel Ekimae Ryokan(2) (1956–1957). In the passage, a spa attendant named Shono explains the eccentricities of Takazawa, another attendant.

 

This man had some strange mannerisms. When no one was looking, he had the odd habit of hiding his own coins between cracks in walls, then saying “Oya, koko ni zeni ga atta. Koitsu de ippai nomoo” (Oh! There was some money in here. Let’s use it to have a drink.) and then treating his companion to a drink.

(Masuji Ibuse Zenshuu Vol. 18, Chikumashobo Ltd.(3) [with modernized Kana orthography]).

 

Takazawa had no prior anticipation behind his utterance of “ta” in “Oya, koko ni zeni ga atta,” since, according to Shono’s reminiscence, Takazawa was acting as if he had, without any anticipation, innocently peeked into a crack in a wall and unexpectedly discovered some money. Because this “ta” can be produced naturally with no prior anticipation, Teramura believes prior anticipation to be unnecessary.

However, if we try constructing an example similar to Teramura’s, it doesn’t work very well. Consider the following scenario. You go hiking in the mountains with a friend. You glance up and, completely unexpectedly, see a monkey on top of a cliff. You point at the monkey so as to tell its existence to your friend. When college students were asked whether or not it would be natural to say “ta” in this situation—e.g. “Hora mite, anna tokoro ni saru ga ita yo” (Look! There was a monkey there, of all places.)—almost half responded that it would be “unnatural.” Despite this, nearly all college students surveyed accepted the “Oya, koko ni zeni ga atta” from Ekimae Ryokan as “natural.”

Teramura’s explanation is short, almost blunt, and ends concisely, but when asked, one of Teramura’s pupils (now retired from university) stated that, at the time, Teramura spent considerable time finding this example. So we can probably say that this example from Ekimae Ryokan was very carefully aimed.

So, is this Ekimae Ryokan example the only one that works? What exactly was Teramura “carefully aiming” at? Unfortunately, he is no longer with us and cannot answer these questions. We can only think about them for ourselves.

What are the differences between the Ekimae Ryokan case and the hiking case?

 

The character of the speaker.

In the hiking example, the speaker of the syllable “ta” in “anna tokoro ni saru ga ita yo” is assumed to be the person responding to the survey (a college student). However, in Ekimae Ryokan, the speaker is a rather old fashioned “adult” spa attendant who calls money “zeni” and invites people to drink with him using the phrase “koitsu de ippai nomoo.”(4)

In short, nearly half the college students judged that using the discovery “ta” without prior anticipation was not something that they themselves would do. But, it was an OK speech pattern for a stodgy old “adult” to use. This fact becomes even clearer when an “adult” is placed in the mountain hiking scenario. For example, if the hiking organizer is described as an officious older woman, who takes the liberty of deciding the trip on behalf of her entire group, the discovery “ta” becomes much easier to accept. Consider the below dialog.

Uwaa, suggoi kooyoo janai desukaa yappari kite mite yokatta deshoo. Doo desu ka, Tanaka-san. Nee. (Wow! Aren’t the autumn leaves lovely! I’ll bet you’re glad you came, Tanaka-san. Right?) Sooon mo nai shi, kuuki mo kiree da shi, a, mite mite, hora, anna toko ni saru mo imashita yo doo desu koree. (There’s no noise, and the air is fresh. Oh! Look look! There was a monkey there, of all places. How about that?)

As this example illustrates, whether or not one can say the discovery “ta” without prior anticipation depends in part on the speaker’s character.

Character is not just a matter of whether you refer to yourself as “ore,” “washi,” or “atashi,”(5) nor a matter of whether you express agreement with “soo desu,” “soossu” or “soo de ojaru,” nor even a matter of whether or not you add “pyoon” to the ends of your sentences like “soo da yo pyoon”. Character is also related to more “grammatical” uses of language, as we can see in the use of the discovery “ta” with no prior anticipation.

 

In Vaacharu Nihongo Yakuwarigo no Nazo (Iwanami Shoten 2003), Satoshi Kinsui states that “when we can imagine a specific profile (age, gender, occupation, status, era, features, appearance personality, etc.) from a specific language usage (vocabulary, wording, expressions, intonation, etc.), or when we are presented with a specific profile and can imagine the type of language people of that profile will probably use, this is called Role Language (yakuwarigo).”

If we assume that here “profiles” are equivalent to the “characters” we have been discussing, then the scope of the above Role Language turns out to be unusually broad; even expressions that seem usable by anyone, such as the discovery “ta” have a tinge of role language about them.

It is probably best to assume that “everything is Role Language,” then go back and make corrections if we turn out to be wrong about this.

 

The reason this entry has been rather longer than usual is that I wanted to introduce this topic of Role Language. In fact, Dr. Kinsui and myself will be jointly holding a symposium on “Role Language, Character, and Speech” at Kobe University on March 28 and 29 (Sat.–Sun.). I will just be making a presentation on the above topic, but a number of eminent scholars, such as Dr. Kinsui and Dr. Tomofusa Kure, and some fresh young researchers will also be giving talks. I encourage all of you to go. Admission is free, but you should inquire by email no later than March 10 if possible, as per the symposium website’s directions.

See here for further details(6) :

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/char-sympo-2009.htm

* * *

(1) In Japanese, “hakken no ‘ta’.”
(2) Ekimae Ryokan translates as “the inn at the station.”
(3) Complete Works of Ibuse Masuji, Vol. 18, Chikumashobo Ltd.
(4) “Zeni” is a now fairly out of fashion word for money, although it’s still used in some parts of Japan. Similarly the use of the demonstrative pronoun “koitsu” instead of the more usual “kore” has a rather crusty ring to it.
(5) All of these are forms of the pronoun “I.” As explained elsewhere, “ore” and “atashi” are masculine and feminine respectively. According to the Daijirin dictionary (2nd Ed.) “washi” is used when the speaker is of higher status or rank than the listener.
(6) Unfortunately, this symposium was held in 2009. However, the website is still up, so readers can still read about it there (Japanese only).

An Unofficial Guide for Japanese Characters 29 >>

author

Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems)Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

角色大世界――日本 28

2010年 9月 19日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)

<< 角色大世界――日本 27

发现的“た(ta)”与角色

如果用“‘孩子’就是这样的一种人,所以‘孩子’角色会这样说话”能解释“孩子”角色的说话方式,用“‘大人’就是这样一种人,所以‘大人’角色会这样说话”能解释“大人”角色的说话方式,相信这是再轻松不过的事情了。但是,“孩子”角色、“大人”角色的说话方式中,存在着用这种“常识语言学”难以解释清楚的情况—在上一节中我们对此做了一定的讨论。在这节中,让我们对“常识语言学”难以解释清楚的“大人”角色的说话方式再做一下观察。

当找到(发现)了什么时,日语可以说“あ、あった!(a、atta!啊,有了!)”。虽然找到(发现)的物体现在仍然存在于眼前,但是由于带有发现(某事物)的心情,所以我们觉得用过去时的“た(ta)”是自然的,所以这个“た(ta)”被很多人称为表示发现的“た(ta)”。

让我们谈一下专业点的语言学问题。对于发现的“た(ta)”的使用,是否需要“这儿(这附近)或许会有吧”这种事前的预测,一直是讨论的焦点。例如,有的人认为,在发现记事本时,日语可以说“あ、手帳がある!(a、techo-ga aru!啊,有记事本!)”,但是“ あ、手帳があった!(a、techo-ga a-tta!啊有,有记事本了!)”应该不可以说,对于这一说法,有的人则持反对意见。对于这个问题,研究者分为“需要事前的预测”与“不需要事前的预测”两派,但是只是在“需要”与“不需要”上加深各自的论述,两派之间并没有产生过争论。

对于这个问题,语言学家寺村秀夫先生曾经做过“事前的预测是不需要的”这样的论述。其根据来源于井伏鳟二的小说《站前旅馆》(1956-1957)中的一节描述。在这节小说中,一个叫生野的领班对于一个叫高泽的领班的怪癖做了以下讲述。

这个男的,还有其他奇怪的癖好。在别人不知道的时候,把自己的钱藏到石崖缝里或是什么地方,然后和别人一起到那里,好像发现到了(别人的)钱似的说“おや、ここに銭があった。こいつで一ぱい飲もう(oya、koko-ni zeni-ga a-tta。Koitsu-de ippai nomo-u 噢,这儿有票子了。用这票子去喝个痛快)”,有用这种方式请人吃饭的怪癖。

(《井伏鳟二全集 第十八卷》筑摩书房。假名改为现代写法)

在领班生野的叙述中,高泽这个人并没有做出在事前预测之后而故意去找的样子,而是做出不经意地窥视一下石崖后突然发现了钱的样子,所以,高野这句“おや、ここに銭があった(oya、koko-ni zeni-ga a-tta)”的“た(ta)”可以说是没有事前预测的。即使没有事前的预测,这时的“た(ta)”也很自然地成立,所以寺村秀夫先生认为事前的预测是不需要的。

但是,我们做了与寺村先生提到的例子相接近的例子,在大学里进行问卷调查,其结果并不令人满意。例子的内容是“你和朋友一起去登山,不经意地看了一眼前面的山崖,发现山崖上竟然有一只猴子,你把这个告诉旁边没有注意到猴子的朋友。”你对朋友说“ほら見て、あんなところにサルがいたよ(hora mi-te、anna tokori-ni saru-ga i-ta-yo 你看,那种地方有了猴子)”,你觉得用“た(ta)”的这种说法自然吗?其结果是接近半数的大学生认为不自然。但是,《站前旅店》的“おや、ここに銭があった(oya、koko-ni zeni-ga a-tta)”这个例子,却能为大学生所接受,在做的问卷调查中几乎所有人都认为自然。

寺村先生当时的论述非常简洁,甚至让人觉得他对这个问题并不是很关心。但是对寺村先生当时的学生(这位学生现在已经到了大学退休的年龄)进行讯问时,才知道寺村先生为了找这个例子费了相当长的一段时间。这样看来,也许可以说《站前旅馆》是寺村先生瞄准目标后强有力的一击。

那么,为什么只有《站前旅馆》的情节自然呢?寺村先生是怎样“瞄准目标”的呢?虽然很想询问一下,但是寺村先生已经过世了,是难以得到答案的。只有自己来考虑了。

《站前旅馆》的例子和登山的例子有什么不同呢?

我们认为是说话人角色形象不同。

登山的例子中,“ほら見て、あんなところにサルがいたよ(hora mi-te、anna tokori-ni saru-ga i-ta-yo 你看,那种地方有了猴子)”这句话的说话人被设定为接受问卷调查的大学生本人。但是,《站前旅馆》中,说话人高泽领班是一个把“金(kane 钱)”说成“銭(zeni 票子)”、用“こいつで一ぱい飲もう(koitsu-de ippai nomo-u 用这票子去喝个痛快)”这样的话邀他人喝酒的、上了些年纪的“大人”。

就是说,接近半数的大学生认为,在没做事前预测情况下发现某事物时,对于过去时的“た(ta)”,“自己不会使用,但是,有些上了年纪的“大人”是可以说的。如果把登山的人换成“大人”就会一目了然。如下例,让决定登山时说“(听我的!)大家(就)一起去吧” 这样一个爱管事的“大妈”使用发现的“た(ta)”就很容易被接受。

うわー、すっごい紅葉じゃないですかーやっぱり来てみてよかったでしょー、どうです田中さん。ねー。騒音もないし、空気も綺麗だし、あ、見て見て、ほら、あんなとこにサルもいましたよどうですこれー。

(Uwaaa、suggoi momiji-janai-desu-kaa yappari ki-te-mi-te yokatta-desyoo、doo-desu tanaka-san。Nee。Sooon-mo nai-shi、kuuki-mo kiree-da-shi、a、mi-te mi-te、hora、anna toko-ni saru-mo imashi-ta-yo doodesu koree。)

(哎哟―,这枫叶可真漂亮!― 还是来对了吧!怎么样田中先生。对吧!没有噪音,空气又清新!啊!快看快看,你看那儿,那地方竟然也有了猴子!怎么样(好地方吧)―)

这样看来,在没有事前的预测的情况下,是否能够使用发现的“た(ta)”与说话人的角色形象相关。

称呼自己时,用有些自大意思的“オレ(ore)”是男性、“わし(washi)”是老人、“あたし(atashi)”是女性(女孩子);表示同意时,用“そうです(soo-desu)”是有礼貌的人、用“そうっす(soossu)”是搞体育的或是说话有些随便的年轻人、用“そうでおじゃる(soo-deojaru)”是平安时代的贵族、用“そうだよぴょーん(soo-da-yo-pyoon)”在句尾加“ぴょーん(pyoon)”是可爱温和的“ぴょーん(pyoon)”人(第20节)。等等这些都与角色形象有关联。但是不仅如此,在没有事前预测情况下使用“た(ta)”,已经不仅仅是单纯的“语法”范畴的问题,同样与角色相关联。

大阪大学的金水敏先生在《ヴァーチャル日本語 役割語の謎(Vaacharu Nihongo Yakuwarigo-no-Nazo 假想世界的日语 角色语言的奥秘)》(2003年 岩波书店)中曾经做了如下论述。人们一听到某些特定的语言表达(词汇、语法、措辞、语调等),就会联想到某类特定的人物形象(年龄、性别、职业、阶层、时代、姿容、风度、性格等);或者,一提到某类特定的人物形象,马上就会联想到该人物形象会使用的某些特定语言表达。我们将此类语言表达称作“人物形象语言(角色语言)”。

如果能够把金水敏先生所说的“人物形象”和我们所说的“角色”等同来看,那么,人物形象语言(角色语言)的范围其实很宽,像发现的“た(ta)”这样,虽然似乎谁都可以使用,但是其也具有作为角色语言的一面。

错了以后可以改正,现在暂时“把所有的语言表达都看作角色语言”似乎也是可以的。

第一次把一节写得这么长,其实是因为在2009年的3月28日、29日,与金水敏先生合作,在神户大学召开了“角色语言 角色 语言”论坛,我做了与以上内容相近的报告,以金水敏先生、吴智英(评论家、日本漫画学会会长)为首的许多杰出的学者和年轻的研究人员也做了报告。简单的情况请参照以下主页⇒http://www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/char-sympo-2009.htm

角色大世界――日本 29 >>

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《烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系》(筑摩新书,2008)定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。

地域語の経済と社会 第117回 北海道の方言みやげ―新方言「なまら」の増殖

2010年 9月 18日 土曜日 筆者: 井上 史雄

地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第117回「北海道の方言みやげ―新方言「なまら」の増殖」
Dialect souvenirs of Hokkaido — Proliferation of new dialect “namara”

 北海道には方言がないと思っている人が、以前にはいました。しかし、方言みやげはちゃんとあります。去年と今年の夏、続いて札幌に行きました。行動圏はほぼ同じなのに、目にするものは違っていました。方言グッズは転変が激しいのです。

 今年新しくコレクションに加えたのは扇子です。たくさんのことばが並んでいたのですが、文字を記してみたら、5種類だけでした。【写真1】

【写真1 北海道の方言扇子】
【写真1 北海道の方言扇子】
(クリックで拡大します)

 「めんこい したっけねぇ♡ だべ? なんまら わやっ」

 ハンカチも4枚同じ売り場にありました。

 「めんこい したっけねぇ♡ だべ? なんまら」です。

 同じ店で目についたのはTシャツです。それぞれ次の5単語ですが、書き方が違います。

 「めんこいしょ♡ したっけね♡ だべさ♡ なまらっ♡ わやっ」

 売り場の訳語付きのパネルでは、意味がこう書いてありました。

 「かわいい そしたらね でしょう すんごい ひどい」

 小樽のみやげ店には当店特製というTシャツがあり、親切に、本体に訳が付いていました。

  なまら めんこい(凄くかわいい)
  たいした あずましい(とても落ち着く)
  しばれて ゆるくない(寒くてつらい)

 以上の方言グッズの多くに登場したのが強調語「なまら」です。固有名詞にも採用されています。

【写真2 無料宣伝誌namara】
【写真2 無料宣伝誌namara】
(クリックで拡大します)

  無料宣伝誌namara【写真2】
  ホルモン焼き店 なまら

 また地下鉄吊り広告のパチスロ店の広告に「なまら凄い1週間」とありましたし、観光客向けのリーフレットの呑み屋の広告には「なんまら旨い海鮮丼」と書いてありました。

 ちょうどモスバーガーで地域限定の品を出しており、北海道は「ザンギバーガー」(鶏唐あげの北海道弁)。そのトレイシートには「なまら、うまい」と書いてありました。

 北海道と新潟で使われている新方言「なまら」。今勢いが強まっているようです。そうなると別の言い方も増殖させます。「なんまら」です。さらに「なんま」が広がっているそうで、2008年にNHK北海道で番組を作りました。街の景観の文字としてはまだ見ていません。目撃した方、教えてください。

* * *

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【筆者プロフィール】

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
 井上史雄大橋敦夫田中宣廣日高貢一郎山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

『社会方言学論考―新方言の基盤』『日本語ウォッチング』井上史雄(いのうえ・ふみお)
明海大学外国語学部教授。博士(文学)。専門は、社会言語学・方言学。研究テーマは、現代の「新方言」、方言イメージ、言語の市場価値など。
履歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/inouef/
英語論文 http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/affil/person/inoue_fumio/ 
「新方言」の唱導とその一連の研究に対して、第13回金田一京助博士記念賞を受賞。著書に『日本語ウォッチング』(岩波新書)『変わる方言 動く標準語』(ちくま新書)、『日本語の値段』(大修館)、『言語楽さんぽ』『計量的方言区画』『社会方言学論考―新方言の基盤』(以上、明治書院)、『辞典〈新しい日本語〉』(共著、東洋書林)などがある。

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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。

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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

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