社会言語学者の雑記帳

6-1 ローマ字の迷宮1

2010年9月24日

突然ですが、みなさんは自分の名前を自信を持ってローマ字で書けますか?もちろん、「田中和夫」とか「中村あゆ」(同名の方、申し訳ありません…<(_ _)>)といったどう転んでもローマ字の書き方に差が出ないような名前の方もいらっしゃるでしょう。しかし、世の中には「松田謙次郎」のように、Matsuda なのかMatudaなのか、Kenjiro なのかKenzirouなのか、はたまたKenziroh なのかと一度ならず自分の名前のローマ字表記に迷わざるを得なかった人もいるはずです。

そもそもローマ字表記とはそもそもどういうものであったのか。ローマ字表記には大別して「訓令式」と「ヘボン式」があること、実際には場合によりどちらも使われていること、などは例えうっすらとでも誰しもご存じでしょう。ごく簡単に言えば、ヘボン式は英語の発音を基礎に、訓令式は音素表記という原則で日本語をローマ字化する体系です。よって例えば「し」「つ」「ち」はヘボン式なら shi, tsu, chi となり、訓令式は si, tu, ti と綴れと言うわけです。我々はこの2つの方式を小学校で習ったはずで、よって誰しもローマ字と言えば「なんとなく2方式があったよなー」と思うわけです(正確には、訓令式にはその先駆けとして、非常に似た「日本式」という方式もあったのですが)。そしてローマ字論争と言うのは、この2つの方式のいずれを採用するべきかという論点を巡ってのものだ、というのが大方の理解でしょう。

ところが、こうした理解は実はローマ字問題のごく一部をカバーするものでしかありません。ローマ字に関してピカ一の情報量を誇ると思われるサイト「ローマ字相談室」 (//www.halcat.com/)は、こうした安直な理解が大きな誤りであることを嫌と言うほど教えてくれます。

このサイトに曰く、日本語ローマ字表記法には少なくとも9つ(うち一つはこのサイトオーナーである海津知緒さん考案の方式)あり、中には国際規格であるISOで定められたものまである。曰く、ヘボン式と言われるが、そのヘボン式とはどういうものか、その方式を記述した文章はないらしい(つまり公的規格ではない)。曰く、パスポートに用いられるローマ字方式は、厳密にはヘボン式とは異なり(長音を表す^や ̄ などの符号を使わない)、「外務省式」という独自方式である、などなど。そうです、このサイトを読むだけで、我々のローマ字理解は大きく揺らぎ出しますね。なんと9つの方式。ローマ字こそ表記バリエーションの王国だったわけです。かな遣いと比べれば、そのアナーキーさが分かろうというものです (((( ;゚д゚))))アワワワワ

ローマ字法の混乱には、また意外な側面も……(次回へつづく)

筆者プロフィール

松田 謙次郎 ( まつだ・けんじろう)

神戸松蔭女子学院大学文学部英語英米文学科、大学院英語学専攻教授。Ph.D.
専攻は社会言語学・変異理論。「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」と称して、自然談話データによる日本語諸方言の言語変化・変異現象研究や、国会会議録をコーパスとして使った研究などを専門とする。
『日本のフィールド言語学――新たな学の創造にむけた富山からの提言』(共著、桂書房、2006)、『応用社会言語学を学ぶ人のために』(共著、世界思想社、2001)、『生きたことばをつかまえる――言語変異の観察と分析』(共訳、松柏社、2000)、『国会会議録を使った日本語研究』(編、ひつじ書房、2008)などの業績がある。
URL://sils.shoin.ac.jp/%7Ekenjiro/

編集部から

「社会言語学者の雑記帳」は、「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」者・松田謙次郎先生から キワキワな話をたくさん盛り込んで、身のまわりの言語現象やそれをめぐるあんなことやこんなことを展開していただいております。