社会言語学者の雑記帳

6-2 ローマ字の迷宮2

2010年10月1日

ローマ字法の混乱には、また意外な側面もあります。長音の表記は、訓令式やヘボン式では原則的に長音府を母音の上に付けることになっていたはずでした。ところが、ある時「お」の長音を「ou」と表記するローマ字表記が突然世の中に一般化し始めたのです。どうしてだと思います?なんとこれがワープロの普及のせいなのです。1978年に登場したワープロは、瞬く間に日本社会に浸透しましたが、そのワープロのローマ字変換が、長音の「お」を「ou」で出すために、これが正しいローマ字の長音表記と誤解されて広まった、というわけです。テクノロジーの発達が、表記法に影響を与えた例と言えるでしょうが、これは「ワープロ式」と命名しましょう。ワープロ式は、ヘボン式や訓令式の下位区分となりますから、学術的には「ヘボンワープロ式」(例: 装置 souchi, 消灯 shoutou)などと呼ぶべきなのでしょう☆-(^ー’*)b

身の回りを見回すと、我々が普段使うローマ字法には、さらに別な方式もありそうです。先日羽田空港で飛行機に乗ろうとしたら、搭乗口で「ShinMaywa」という表記が目に付きました。調べたら「新明和工業」という会社名でした。また、「東レ」という会社のロゴマークには「Toray」という綴りが踊り、会社のURLにもこの綴りが見られます。ファッションブランドであるISSEY MIYAKE のISSEYという綴りもこの類でしょう。そして私の知り合いには、自分の名前である「井上」のメールアドレス表記に「innoway」という綴りを使っている方もいらっしゃいます。

こうした方式も新たなローマ字法だと認めることにすれば、これは日本語の発音に近い英単語(もしくはその一部)を繋げてローマ字とする、という方式だと言えます。つまり英語を使った「ダジャレ」なわけです。この「ダジャレ式」とでも呼ぶべき方式に従うと、例えば「法務省」はhome show となり、「財務省」はzyme show となるのでしょうか。Zyme Showは「もやしもん」に触発されて酵素をフィーチャーしたバラエティ番組でしょうか?こうなるともう何でもAlleyです ┐(´∀`)┌HAHAHA

ダジャレ方式による表記法を探していたら、この夏に横浜で開催された画家鴨居玲の展覧会で、面白い例を見つけました。鴨居は1928年金沢生まれの洋画家で、1985年に亡くなるまでに数多くの作品を残しました。その展覧会で鴨居の作品を年代順に見ていくうちに、作品に書かれた鴨居のサインが時代と共に移り変わっていることを発見したのです。初期の彼の作品は、Rei Kamoiと、何の変哲もない表記法です。彼が71年にスペインに渡った頃から、そのサインはRey Camoi となり、さらに1977年頃からRey Camoyとなります。このRei Kamoi → Rey Camoi → Rey Camoy という変化は、標準方式からの逸脱なわけですが、逸脱の方向は、語尾のiをyに、語頭のKをCにということから、スペイン人(ないしヨーロッパ人)たちにより受け入れられやすい方向だったと考えられます。このRey Camoyという表記も、一種のダジャレ方式と考えられそうです。これは、もちろん鴨居のスペイン滞在の影響だったのでしょう。

話が脱線しますが、こういう風に相手に受け入れられやすくするために自分の言語行動を変える現象を、社会言語学ではアコモデーションと言います。鴨居の例は、表記上のアコモデーションということになります。

さて、ここまでをお読みになって、なんと嘆かわしい日本のローマ字の現状、と思いましたか?やっぱりローマ字はもっと国がしっかりと管理しなくては。無知蒙昧な国民に任せてはこの先どうなるかわかったもんじゃない、とか?

甘い甘い ヽ( ´ー`)ノ フッ

こうした表記の「乱れ」は、実は……(次回へつづく)

筆者プロフィール

松田 謙次郎 ( まつだ・けんじろう)

神戸松蔭女子学院大学文学部英語英米文学科、大学院英語学専攻教授。Ph.D.
専攻は社会言語学・変異理論。「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」と称して、自然談話データによる日本語諸方言の言語変化・変異現象研究や、国会会議録をコーパスとして使った研究などを専門とする。
『日本のフィールド言語学――新たな学の創造にむけた富山からの提言』(共著、桂書房、2006)、『応用社会言語学を学ぶ人のために』(共著、世界思想社、2001)、『生きたことばをつかまえる――言語変異の観察と分析』(共訳、松柏社、2000)、『国会会議録を使った日本語研究』(編、ひつじ書房、2008)などの業績がある。
URL://sils.shoin.ac.jp/%7Ekenjiro/

編集部から

「社会言語学者の雑記帳」は、「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」者・松田謙次郎先生から キワキワな話をたくさん盛り込んで、身のまわりの言語現象やそれをめぐるあんなことやこんなことを展開していただいております。