漢字の現在

第65回 「当て字」の広がり

筆者:
2010年10月5日

10月、大学は後期に入った。この前期と夏休みの前半は、まさに「当て字」に捧げた5か月間だった。

間もなく上梓される『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)は、当初は薄く小さな本にするつもりだった。しかし、際限ない広がりを見せる用例を、容赦なく削除していったのだが、それでも割愛にためらうことも多く、結局は900ページを超える厚みをもつ一冊となってしまった。小説や歌謡曲、漫画、雑誌、WEBなどで日々作りだされており、元より完璧を期すことの困難な対象ではあるが、何とかそこまで中身を拡げられたのは多くの方々の助力の賜物であり、それを辞書の形式に整えられたのは担当の方々の良心的にして献身的な編集のお陰であった。

「当て字」は、世上でよく使われる語だけに、意味が実に多様であってとらえにくい。日常でも、「そんなの当て字だよ」と評される場面があるように、マイナスイメージを与えられがちだ。しかし、実は「時計」も「充分」も「煙草」も「歌舞伎」も当て字である。漢字から見れば本来性や一般性に欠けるところのあるユニークな用字(法)であり、日本語から見れば同じように個性的な表記(法)である。漢字と日本語とを考えるうえで、格好の材料といえる。2万種を超える実例を整理している時には、日本の人々の心性までもうかがえるように思えることがしばしばあった。

「辞典」の名を頂く書籍の中で、この表記を収めたのはたぶん最初だろう、と思うものが少なくない。ただ、先人たちはすでに当て字の辞典の道を切り拓いていた。個々には、シュウオウや「あきざくら」と読まれてきた「秋桜」をコスモスと読ませる熟字訓は、山口百恵以降に広まったものだが、『新潮日本語漢字辞典』がすでに収録の先例を示しており、これは国語辞書にさえ掲載が見られるようになっていた。

辞典へのそうした例の収録には、さまざまな意見があるであろう。しかし、辞典といえども規範主義だけで成り立つものはなく、一方の核となる記述主義に重きを置けば、模範たるべき「鑑」よりも、現実を映し出す「鏡」としての役目を帯びるのは当然のことである。

その種々の素材からは、何が読み取れるのであろうか。この辞典には、すべてを収めたわけではないが、様々に思索を楽しめる部分を詰めこめられたのではないか、と思う。そうした思いが薄らぐ前に、しばらくの間、当て字の世界についてここで考えていきたい。

まずは、「まじめ」という語に対する当て字について取り上げてみたい。(続く)

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。


今月、ついに『当て字・当て読み 漢字表現辞典』が刊行されます。その奥深さを、ほんのちょっと教えていただきたいと編集部がリクエストし、今回、笹原先生に「漢字の現在」の特別編としてご執筆いただくこととなりました。まさに“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』について、数回にわたって、その内容のご紹介や本文におさめきれなかった情報をつづっていただく予定です。