社会言語学者の雑記帳

6-3 ローマ字の迷宮3

2010年10月8日

こうした表記の「乱れ」は、実はローマ字の「大本山」である、文化庁のお膝元でも見られるものなのです。麻生政権時に「国立漫画喫茶」とさんざ揶揄された「国立メディア芸術総合センター」という計画をご記憶でしょうか。この設立を巡って文化庁では会議を開催しましたが、その一つの会議の文書が置いてあるURLは、//www.bunka.go.jp/oshirase_kaigi/2009/kokurithumedeia_1.html となっています。oshiraseとヘボン式が使われているのはまだ許せるとしても(国の行政組織なので本来は訓令式であるべきですが)、その後のkokurithumediaには、もう口をあんぐりという他はありません。「つ」=「thu」( ゚д゚)ポカーン これは未だどんな方式でも使われていない、革新的な綴りです。まさにお膝元の反乱です(T▽T)

文化庁のために一言すれば、このURLを設定したのはおそらく文化庁の官僚ではなく出入りの業者、ないしそこのウェブデザイナーの方なのでしょう。さらにもう一言付け加えれば、ローマ字の混乱状態は他の官庁も似たりよったりなのです。厚生労働省の「調達情報」のページのアドレスは、//www.mhlw.go.jp/sinsei/chotatu/index.htmlと、ヘボン式と訓令式と折衷方式(chotatu)を採っています。財務省でも「法令適用事前確認手続」となにやら厳めしいページのアドレス //www.mof.go.jp/jouhou/sonota/e-j/jizen/tetuduki.htm には、見事にヘボン式(jizen)、日本式(tetuduki ※訓令式ならtetuzuki)、ワープロ式(jouhou)が揃っています。訓令式がないのが惜しまれますが、いつかwww.zyme_show.go.jpとダジャレ式がここに加わるかも知れません。

上の例のように,一つの単語ないしまとまりに異方式が同居するというのは,典型的な誤りのパターンであり,例えば東国原宮崎県知事のツイッターアカウント名は「@higashitiji」と、ヘボン式と訓令式のミックスになっています。この「ヘボ訓式」は、日本中至る所に溢れているので、ぜひ身近な用例を発見して下さい。

ローマ字の混乱を巡る以上のような状況は、まさに迷宮と呼ぶにふさわしいものです。一つの問題が見つかると、さらに次の問題も見つかり、表記を仕切っているはずの官庁のお膝元でとんでもない表記が見つかる。教育に解決の糸口を求めようにも、学校で習ったのは遙か昔の小学生時代で、考えてみればそれからずっと大学卒業まで体系的にローマ字を習ったこともない。そもそも入試にも出題されないだけに学生も勉強しない。一方、テクノロジーの進歩も新たな表記法をもたらすし、そうこうするうちに、次から次へと新たなローマ字表記法が出現して日本中を覆う。

「日本語は漢字と平仮名と片仮名で十分」とはとても言えないグローバルな時代に我々は生きており、何らかの形で標準化が進められなければならないことは火を見るより明らか。しかし常用漢字だUnicodeだと折に触れて脚光を浴びる漢字に比べて、ローマ字はどことなくミソッカスっぽい。こうして今日も出口のない輝ける迷宮で、密かに新たなローマ字法が生み出される。higashitijiではないが,まさにローマ字の現状はどげんかせんといかん。ほら、そう言えばあの店の看板のローマ字は……。

筆者プロフィール

松田 謙次郎 ( まつだ・けんじろう)

神戸松蔭女子学院大学文学部英語英米文学科、大学院英語学専攻教授。Ph.D.
専攻は社会言語学・変異理論。「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」と称して、自然談話データによる日本語諸方言の言語変化・変異現象研究や、国会会議録をコーパスとして使った研究などを専門とする。
『日本のフィールド言語学――新たな学の創造にむけた富山からの提言』(共著、桂書房、2006)、『応用社会言語学を学ぶ人のために』(共著、世界思想社、2001)、『生きたことばをつかまえる――言語変異の観察と分析』(共訳、松柏社、2000)、『国会会議録を使った日本語研究』(編、ひつじ書房、2008)などの業績がある。
URL://sils.shoin.ac.jp/%7Ekenjiro/

編集部から

「社会言語学者の雑記帳」は、「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」者・松田謙次郎先生から キワキワな話をたくさん盛り込んで、身のまわりの言語現象やそれをめぐるあんなことやこんなことを展開していただいております。