『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて

(38) 職曹司の雪山作り~賭けの始まり~

2010年10月26日

長徳4年12月中旬、京都に大雪が降りました。大雪といっても、平安貴族たちの日常に一興を添える程度の量だったようで、あちらこちらの御殿の庭で雪山が作られたと、内裏からの使者が清少納言に話しています。

職曹司の女房たちも、最初は下級の女官たちに雪を運ばせ、縁側に小さな山を作っていたのですが、そのうち、庭に本当の雪山を作ろうということになり、本格的な雪山作りが始まりました。

雪山作りの作業は中宮からの命令として下されたため、清掃係りの宮中役人や職曹司勤めの役人が次々と集まって、日当まで補充されることになります。それを聞きつけた者がさらに加わって、総勢20名ほどの男たちの手で制作したというのですから、かなり大きな雪山が完成したことでしょう。

職曹司の役人たちが報酬を受け取って退出した後、中宮定子は女房たちに、「この雪山はいつまで消えないであるかしら」と問いかけます。女房たちが、「十日はあるだろう」「十数日はあるだろう」など、年内の期日ばかりを予想する中で、清少納言だけが翌年正月の中旬という遠い日にちを答えます。中宮も「そこまではもたないだろう」と思っている様子、他の女房たちも皆、口をそろえて、「年末まではもたないだろう」と言うので、さすがの清少納言も自信がなくなってきます。心中では、「あまり遠い日にちを言ってしまったかな。皆が言うように、そこまではもたないだろうな。せめて年明け早々と言えばよかった」と後悔するのですが、そこは彼女らしく、「一度口に出したことは撤回しないでおこう」と意地を張ります。

さあ、雪山の賭けの始まりです。二十日頃に雨が降り、雪山は少し小さくなりました。清少納言は雪深い北陸の白山の観音様に向かって祈ります。雪山は消えないまま年を越し、一日の夜には新雪が降り積もりました。しかし、賭けの約束とは違うということで、中宮からクレームがつき、新雪は捨てられました。それでも消えそうもない雪山を見て、清少納言は賭けに勝ったと思います。

賭けの決着のつく日を皆が心待ちにしていたところ、正月三日に定子が内裏に参入することになりました。清少納言はもとより中宮まで、賭けの結果を直接見られないのを残念に思うのですが、実はこの突然の中宮参内は、歴史的に見ると大変重大な事件でした。

長徳2年春、伊周・隆家の不祥事により内裏退出を余儀なくされた中宮定子は、それ以降も立て続けに起こった不幸を乗り越え、ようやく職曹司に参入し滞在していました。しかし、まだ内裏に入ることは許されない状況でした。長保元年正月の定子内裏参入は、二年近くの時を経て、久しぶりに一条天皇と中宮定子が再会することを意味しています。

清少納言もどれほどこの時を待っていたかしれません。そんな二人の再会を意味する記述が、雪山の賭けの結果が見届けられなくなる理由として、さりげなく挟み込まれているのです。この時の定子参内は、公式記録には書き留められない極秘のものだったようです。それがなぜ、『枕草子』に記されたのか。当時の歴史的背景を対照させながらこの段を読むと、作者の意図していたことが見えてくるように思います。次回に続きます。

筆者プロフィール

赤間恵都子 ( あかま・えつこ)

十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

『枕草子 日記的章段の研究』

編集部から

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。

著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。