2010年 11月 のアーカイブ
耳の文化と目の文化(24)―熟語の1語書きと造語(4)―
2010年 11月 15日 月曜日 筆者: 新田 春夫クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(99)
複数の語から成り立っている動詞の場合は、造語によるものはわずかで、動詞句が熟語化したものが大部分である。その中のあるものはさらに不定詞形、分詞形を1語に書くようになった: Rad fahren「自転車に乗って走る」、teilnehmen「参加する」、freisprechen「無罪放免する」、abfahren「発車する」。動詞と動詞の場合は基本的には分かち書きされるが、比喩的な意味の場合は不定詞形、分詞形を1語に書いてもいい: einkaufen gehen「買い物に行く」、schwimmen lernen「泳ぎを習う」、sitzen bleiben「すわったままでいる」、sitzen bleiben / sitzenbleiben「留年する」。また、sein動詞の場合は常に分かち書きされる:da sein「いる、ある」。
ただ、brandmarken「烙印を押す」、langweilen「退屈させる」、bausparen「住宅貯蓄銀行に積み立てる」などはそれぞれBrandmarke「烙印」、Langweile「退屈」、Bausparkasse「住宅貯蓄銀行」という名詞から造語された動詞である。従って、これらは分離動詞のように、人称変化したときにbrand, lang, bauが分離することはない。ちなみに、staubsaugen「掃除機をかける」も本来Staubsauger「掃除機」という名詞から造語された動詞であるから、staub「埃」とsaugen「吸う」が分離することはなく、人称変化したときもIch staubsauge.「私は掃除機をかける」となる。しかし、Staub saugen「埃を(掃除機で)吸い取る」という動詞句が熟語化したと解釈され、Ich sauge Staub.「私は(掃除機で)埃を吸い取る」という形も生まれた。
最後に、複数の語から成り立っている前置詞、接続詞、副詞であるが、これらはすべて特定の造語パターンによるのではなく、句が熟語化することによって生まれたものであり、意味的な一体化が進むにつれて1語に書かれるようになる:前置詞: in Bezug auf「…に関して」、an Stelle / anstelle「…の代わりに」、anhand「…をもとに」。接続詞:statt dass「…する代わりに」、so dass / sodass「その結果…する」、indem「…することによって。副詞:zu Lande「陸路で」、zu Hause /zuhause「自宅で」、sowieso「いずれにしても」。
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【筆者プロフィール】
新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
専門は言語学、ドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員
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【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。
An Unofficial Guide for Japanese Characters 36
2010年 11月 14日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 35
Musings on “Role” (Part I)
In the previous essay, we looked at the reminiscences of a person who saw everyday life as a show and, against his wishes, had taken on the role of an “honor student” from childhood, whipped from behind by the stage director. I have already stated that this is just one point of view, and is not necessarily correct. However, there is no shortage of similar points of view which try to grasp people’s daily lives from the perspective of roles, and the details of the “roles” brought up in such examples are diverse. We shall ignore for the moment whether this point of view is right or wrong, and instead look at the “roles” themselves briefly.
In his discussion of conversation, Masakazu Yamazaki(1) has this to say about the roles of people when amusing themselves with conversation:
With each of the ever-changing topics of the day, each participant tacitly chooses a role and performs it. A variety of characters emerge —a protagonist of course, the clown who entices laughter from the audience, the antagonist, who intentionally introduces adversity, etc.— to form the show’s troupe. Here, the largest taboo is to be out of place; those incapable of intuitively grasping their place and role are excluded from the troupe.
[YAMAZAKI Masakazu, “Homo Sociabilis: Conversing Humans” 2003]
The roles introduced here—the “protagonist,” “clown,” and “antagonist”—are different (although related) to the characters I have introduced up until now. The characters I have discussed can be envisioned in the absence of conversation with other people, for example the “senior citizen” character who says to himself “moo aki ja noo” (Is it autumn already?).
There are large differences between the two concepts, even when examining incidences of conversation. The roles which Yamazaki discusses are dynamic properties that can change rapidly as the conversation evolves.
That isn’t to say that the characters I have talked about do not have a dynamic component. We have already discussed how a person might quietly change her character (although it generally mustn’t be changed) to suit their conversation partner. For example she might find it difficult to maintain the intense “anego” character all the time, and decide it safer to go with an “imouto” character in some cases (see part 8). Similarly, a person talking to an intense “Tokyo native” character might find himself sucked into becoming a “Tokyo native” character, or he might rebel against it and become an “Osaka native” character (parts 15, 16, and 17).
However, the roles discussed by Yamazaki are even more dynamic than this, and more obvious. This property, which can instantly change with a change of conversation topic —Person A instantly changing from “protagonist” to “antagonist,” while Person B changes from “antagonist” to “clown” in front of everyone— is something which the characters I have discussed do not possess.
Rather, character “cannot be intentionally changed (in general)” beyond the context of play, and are a static property, at least on the surface. Adopting the concept of character, apart from traditional notions of “style” in thinking about language and communication, is necessary exactly for this static property. (To be continued.)
* * *
(1) 1934– A Japanese drama scholar.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 36
2010年 11月 14日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)论“役割 (yakuwari 社会角色及作用)” (上)
在上节中提到的是,“由于舞台导演挥着鞭子不停驱赶,无奈只得把‘优等生’角色从孩童时代一直演到至今”这种把日常生活看作是演戏的人物的心声。同时,在上节我已经说了这种判断归根到底只不过是一种判断,并不一定是正确的。但是,做出与之相类似的判断, 以“役割 (yakuwari社会角色及作用)”的观点来看待日常生活中的人们的例子并不少见,而且“役割 (yakuwari 社会角色及作用)”的内容实质也是多种多样的。判断的正确与否暂且不提,我们先来看看“役割 (yakuwari 社会角色及作用)”。
在论述所谓的社交活动时,山崎正和先生对于以谈话自娱的人们的“役割 (yakuwari 社会角色及作用)”做了以下论述。
“按照每一天的不同,或每时每刻话题的不同,参加者也心照不宣地选择各自的角色来扮演”。东道主自不必说,逗主客双方开心的丑角、故意挑起争论的反面角色等等,形形色色的人物登场来完成一台戏。在这里最忌讳的是弄错自己的位置,不能直觉性地把握自己的位置和角色的人,就会被抛至戏台之外。”
[山崎正和 《社交する人間—ホモ・ソシアビリス (Syakoo-suru Ningen —Homo Soshiabirisu 社交人类—人・社会性)》2003]
这里提到的“东道主”“小丑”“反面人物”等“役割 (yakuwari 社会角色及作用)”与我提出的“キャラクタ (character 角色、角色形象)”虽有关联却不是一回事。我所提到的是,例如“もう秋じゃのう (moo aki-ja-noo 已经秋天喽)”这样自言自语时使用终助词(语气词)“のう (noo)”,即使没有和他人对话,也能知道说话人是“老人”角色。
另外,单从对话的场面来看,两者也存在着很大的差异。山崎先生举的“役割 (yakuwari 社会角色及作用)”是可以随着对话的进展不断变化的,具有运动性的。
当然,我所提出的キャラクタ (character 角色、角色形象)决不是没有运动性的一面,例如,对方如果是浓重的“大姐”角色,这边也保持一直以来的“大姐”角色是很困难的,以“小妹”角色进行谈话反而更为容易,像这样角色 (虽然不可以改变,但是)因谈话对象不同是有可能悄然改变的,这在第8节中已经叙述过了。被对方浓重的“东京人”角色所吸引 (影响)自己也变成“东京人”角色,或是反而进行排斥变成“大阪人”角色,这也是キャラクタ (character 角色、角色形象) 的运动性(第15节、第16节、第17节)。
但是,山崎先生所提到的“役割 (yakuwari 社会角色及作用)”远远比キャラクタ (character 角色、角色形象)具有运动性,而且是明显可见的。话题一变A马上当着大家的面由“东道主”变成“反面人物”,与此相应B也是当着大家的面马上由“反面人物”变为“小丑”,这种显而易见的运动性,是我提到的キャラクタ (character 角色、角色形象)所不具有的。
倒不如说,我阐述的キャラクタ (character 角色、角色形象),除了玩笑 (玩儿玩儿)以外,是“不能按照意图而随意改变的”,至少在表面上是具有静止性的。从根本上说,在考虑语言和交际时,之所以有必要与原有的“说话方式”相区别,导入“キャラクタ (character 角色、角色形象)”这一概念,正是因为“キャラクタ (character 角色、角色形象)”具有静止性这一性质。(下节再续。)
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
地域語の経済と社会 第125回 「信州・上田弁にひたれるお店」
2010年 11月 13日 土曜日 筆者: 大橋 敦夫地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第125回「信州・上田弁にひたれるお店」
上田と上田弁とラーメンをこよなく愛する柴崎章氏のお店「六文銭ら~めん 真田幸村」(上田市本町)です。
まずは、その外観から。
店名をはさんだ計6枚の看板は、方言によるおすすめメニューになっています。(右から読んでいくと、次のような意味になります。)
- [=六文銭のもつ煮定食は、とてもおいしい]
- [=激辛ラーメンは、無鉄砲に食べるとおなかが痛い]
- [=思う存分、遊んだあとの 生ビール]
- [=あなたも午後のおやつ代わりにみそラーメン]
- [=競争して取り合うようにして、たくさん食べても、あきないねぇ ギョーザ]
- [=大食漢、唐揚げをおかずにして飯4杯]
ラーメンはもちろん、多くの方々に上田弁に親しんでもらいたいとの思いから、かつては地元の新聞に、自作の方言番付を披露したこともある柴崎氏。その力作は、これまた自作の方言カルタ(読み札のみ)とともに、『信州上田藩 上田人養成公式ガイドブック』(私家版)に収録され、店内で、注文の品を待つ間に閲覧することができます。
上田にお越しの際は、足を伸ばされてはいかがでしょう。仮に時間外でも、上田弁による「支度中の看板」が出迎えてくれます。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
大橋敦夫(おおはし・あつお)
上田女子短期大学総合文化学科教授。上智大学国文学科、同大学院国文学博士課程単位取得退学。
専攻は国語史。近代日本語の歴史に興味を持ち、「外から見た日本語」の特質をテーマに、日本語教育に取り組む。共著に『新版文章構成法』(東海大学出版会)、監修したものに『3日でわかる古典文学』(ダイヤモンド社)、『今さら聞けない! 正しい日本語の使い方【総まとめ編】』(永岡書店)がある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
つなぎ語:まとめ表現―『英語談話表現辞典』覚え書き(33)―
2010年 11月 11日 木曜日 筆者: 内田 聖二前回まで反論を考えてきましたが、今回はそれまでの話をまとめる表現を考えてみます。
日本語で「一言で言えば」という表現がありますが、英語でも in a word という文字通りの表現があります。残念ながら本辞典では立項されていませんので、三省堂コーパスからの用例を参考に記述してみます。この表現の基本はそのあとに一語が続くことです。
1 〈自らの話の中で〉一言で言えば、つまり、要するに:If the boy was not legally dead, then removing the heart would be, in a word, murder. その子が法律上の死に該当しているのでなければ、その心臓を摘出することは、一言で言えば、殺人である。
2〈質問に答えて〉一言で言えば、詳しいことは省いて、つまり:‘Do you disagree with the decision?’ ‘In a word yes.’「決定には反対ですか」「一言で言えば、そうです」
特に第2例のような使い方は「言いたいことはいろいろあるが」という含みがあることを伝えます。また、次例のように、それまでの主張、意見をまとめて述べることにも用いられます。
3〈前文をまとめて〉つまり、要するに:Roger Moore failed to convince audiences that he was a successor to the role of James Bond. In a word, he simply lacked the magic of Sean Connery. ロジャー・ムーアはジェームズ・ボンド役を受け継いだということを観客に納得させることはできなかった。要するに、彼にはショーン・コネリーがもっていた魅力がなかったということだ。
「一言」ではありませんが、in brief もまとめて簡潔に表現する働きがあります。次は本辞典からの引用です。
1 つまり, 要するに(◆文頭で):That is the situation with the company, gentlemen. In brief, we must change our business strategy or we will go bankrupt. それが会社の現状なのだ, 諸君. 要するに, 企業戦略を変えなければ倒産するということだ.
さらに、in brief は文尾に置くこともできます。
2 要約して, かいつまんで(◆文尾で):I’d like to comment on the report in brief, please. その報告書について手短にコメントしたいのですが / And now for the news in brief. 続いてニュースを手短にお伝えします.
また、in a nutshell という語句もまとめ表現としてよく使われます。同じく本辞典からの引用です。
1 簡潔に言うと, 要するに:And that, in a nutshell, is the answer to your question. それで, 要するに, それがあなたの質問に対する答えです.
3 (いろいろ言いたいことはあるが)つまり:I’ve told you the whole story now. In a nutshell, he doesn’t want to marry me next week. 以上洗いざらいお話しました. 要するに, 彼は来週私と結婚式を挙げたくないということなのです.
この延長線上に、言いにくいことを口にするような状況にも用いられます。
2 〈話し手の決心を述べて〉つまり:In a nutshell, I want to stay in Japan for another year. つまり, 私はもう1年日本に滞在したいのです.
4 〈うまくことばにならなくて〉えー つまり:《生徒が先生に言い訳して》 Ma’am, I couldn’t study at all last night because I had many things to do, washing-up, cleaning the rooms …, in a nutshell, I was busy. 先生, 昨夜はいろいろあって全然勉強できなかったのです. 食器洗いや掃除など…えー, つまり, 時間がなかったのです.
語義2ではほのめかしてはいても言いにくかった本心を述べている状況が考えられます。語義4はそれ以上言い訳が思いつかなくて、単純な言い方で終わっている例です。
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【筆者プロフィール】
内田聖二(うちだ・せいじ)
奈良女子大学教授
専門は英語学、言語学(語用論)
主な業績:『英語基本動詞辞典』(1980年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基礎語彙の文法』(1993年)英宝社(衣笠忠司、赤野一郎と共編著)
『関連性理論-伝達と認知-』(初版1993年、第2版1999年)研究社(共訳)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(第2版1994年)小学館(小西友七・安井稔・國廣哲弥・堀内克明編、分担執筆)
Relevance Theory: Applications and Implications, 1998, John Benjamins.(Robyn Carstonと共編著)
『英語基本名詞辞典』(2001年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『ユースプログレッシブ英和辞典』(2004年)小学館(八木克正編集主幹、編集委員)
『新英語学概論』(2006年)英宝社(八木克正編、共著)
『思考と発話』(2007年)研究社(共訳)
『子どもとことばの出会い』(2008年)研究社(監訳)
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【編集部から】
語用論的な情報をふんだんに盛り込んだ、日本発の本格的な発信型会話・談話表現辞典、『英語談話表現辞典』について、編者の内田聖二先生にご紹介いただきます。
書籍購入者は、http://dce.dual-d.netにて本辞典の全データを収録したウェブ版辞典を無料でお使いいただけます。
漢字の現在:「本気(マジ)」の登場
2010年 11月 9日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第70回 「本気(マジ)」の登場
「まじ」という語は、前回記したように、仮名では表しきれないニュアンスをもつことがあるようだ。曲名や歌詞においては、ローマ字表記にした「Maji」まで現れる。1997年当時、溌剌とした女子高校生であった広末涼子の清々しさを竹内まりやが読み取って、「Koi」(恋)などと揃えた表記だったのではなかろうか。これも、個別にはあちこちの手紙などで使われていたのかもしれない。
現在では、ケータイでも、「マジ」や「Maji」が変換候補の中に挙げられる機種が出現している。WEB上では、「MAZI」という、いわゆる訓令式の綴りも多数見られる。これはあまり英語っぽくはないが、「Z」という字の形のかっこよさ、アルファベットの最後を飾る文字という価値が見出されたのではなかろうか。ほかにも、どの字を大文字、小文字にするかということにも、表現上の意味をもたせるケースもあるようだ。
こうした文字体系の多様性は、微妙なニュアンスによって個々を使い分けようとする日本人の繊細ともいえる意識によって支えられていることがある。そこには、世界に類を見ない臨機応変な柔軟性が感じ取れることであろう。しかし、そこに留まらない。さらに漢字が加わってくる。目まぐるしいほどの多彩さは、これからである。
戦後は、当用漢字表内の漢字で、この「まじ」という語を何とか書き表そうとする例が現れてくる。ニュアンスの分かる漢字を選び、それを用いることで仮名表記よりもきっちりと表現し、その語の持つインパクトをしっかりと示して読む者に伝えたい、という意識をもつ向きがあるのであろう。
文字や表記は、概して口頭語よりも保守性が強いといわれる。過去には、さまざまな動きがあったものの、現代では変化が止まっているかに見えることもある。しかし、この「まじ」という語では、むしろこの1世紀のうちの僅か1/3の期間における変化は、目をみはるほど激しいものがある。文字・表記の歴史の大きな方向とは逆の動きを呈している、とも言えそうだ。
平仮名などれっきとした文字による表記がすでにあるのに、しかし実質的な意味を持つ語を、それを強調するにふさわしく漢字で、それもしっかりと意味や音を表したいという要求は、良いか悪いかは別として日本の人々の中に、古くから脈々と受け継がれているかのようである。
きっちりとした漢字で意味を示し、誰でも読める振り仮名を添えることで実際の会話でのいきいきとした発音を示す、という二重の表現が登場する。漢語の「本気(ホンキ)」には、かっちりとしたイメージがあろう。それを2字の、仮名よりも字画が複雑な漢字に凝縮しつつ、別の近い意味を持つ語をもってくることで、気持ちが立体的に伝わるというのであろう。
日本では、漫画が大人にも享受される一つの文化と目されるまで成長した。四半世紀ほど前、その漫画において「まじ」という語に漢字表記が当てられ始める。『当て字・当て読み漢字表現辞典』の帯に、漫画家の高橋留美子氏から許可を頂き、引かせていただいた漫画のコマ(1985)が今のところ古い例である。前のコマには、普通の「本気」が使われている(「めぞん一刻」9巻)。
これは、若い女性の日常生活での勢いある口頭語を示しつつ、きっちりとした意味とニュアンスを伝えるべく漢字で補ったのであろう。それを描いた高橋留美子氏は、オリジナルの表記とは意識されていないということなので、自然に記されたものか、あるいはより古い例があったのであろう。この漫画は、高校時代の友人の蔵書であったもので、遺された品として頂いたものであった。単行本を読み、この実例と出逢うきっかけを与えてくれた彼に心から感謝したい。なお、芸能人の明石家さんまが造ったという話もあるようだが、証拠が見つからない。
次いで、これを主人公の名前に用いた漫画も登場する。(つづく)
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【編集部から】ついに『当て字・当て読み 漢字表現辞典』が刊行されました! その奥深さを、ほんのちょっと教えていただきたいと編集部がリクエストし、笹原先生に「漢字の現在」の特別編としてご執筆いただくこととなりました。まさに“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』について、数回にわたって、その内容のご紹介や本文におさめきれなかった情報をつづっていただきます。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「本気(マジ)」な「当て字」」でした。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(39)
2010年 11月 9日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(39) 職曹司の雪山作り~定子参内の意味~
雪山の賭けの途中で定子が内裏に参入したことは、歴史上、重大な事件だったと前回書きました。それは、長徳の変以降に定子が初めて参内したことを言っているだけではありません。現存している他の歴史資料に見えず、『枕草子』のみに記されているこの時の定子参内が事実であったことは、同年冬に一条天皇の第2子が誕生することによって証明されます。生まれたのは男児でした。定子腹の第一皇子の誕生は、中関白家再興の可能性が生まれたことを意味しています。つまり、道長に傾いていた政権の行方を中関白家に引き戻しかねない重大事件だったのです。
長保元年11月7日敦康(あつやす)親王誕生の日、宮中では道長が、一条天皇の御前に多くの殿上人を集め、長女彰子の女御宣下の儀を挙行しました。皇子誕生の当日に合わせて、12歳の娘を天皇后にする道長の焦りが推察されます。
ところで、『枕草子』の日記的章段では年月日が明確に記された章段はそれほど多くありません。特に日にちまで記されるのは、特別な行事が行われたか、何らかの事情でその日を書きとめる必要がある場合と考えられます。しかし、雪山の段では、12月中旬に大雪が積もった日から清少納言が予想した雪山消失の当日まで、作者は日にちを詳細に追って記しています。話の展開が、賭けの勝敗を決する日に向かって進められているのですから当然なのですが、その日にち記載の途中に定子参内の日付が入り込んでおり、それが特別なこととして扱われていないところに、かえって問題がありそうです。
中関白家に重大な慶事をもたらすことになる定子参内は、『枕草子』に書きとめる必要のある記事だったと考えます。『紫式部日記』が彰子の産んだ敦成(あつひら)、敦良(あつなが)両親王の誕生記録であることから見れば、『枕草子』にも敦康親王誕生の記事があってもいいと思われるのですが、それはありません。そもそも皇子誕生の事実こそ、道長の政権掌握を最も脅かすものでした。その記事を書くことは、すでに政権の中心にある道長を刺激することになります。当時の社会情勢から考えて、敦康親王の身の危険を招く不安もあったでしょう。そこで作者は、雪山の賭けを利用して皇子誕生の発端となる出来事、つまり天皇の要請による定子参内の日を暗に示しておいたのではないでしょうか。
そのように考えると、この段の登場人物の中に、内裏の一条天皇と職曹司の中宮定子を結びつける役割を担った人物がいることに気付きます。それは、天皇から定子への文を届けにきて清少納言に歌を詠みかけた式部丞忠隆と、定子から常陸の介の話を聞いて興味を示す天皇付きの女房右近内侍です。ちなみに常陸の介は、ここで右近登場を導く役目を担っています。
『枕草子』の記事からは、一条天皇がこの時、政治的状況によって長い間、仲を引き裂かれていた最愛の妻に何とかして会おうと思い、忠隆や右近という身近な使いを職曹司に遣わして、内内に定子参内を働きかけていたことが読み取れます。作者はそのことを、自分自身の笑い話として展開していく雪山の賭けの話に取り込んで、しっかりと書き記したのだと思います。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
ドイツの香料―ヴァルトマイスター―
2010年 11月 8日 月曜日 筆者: 石井 正人クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(98)
たとえば緑色のジュースがあったとしたら、日本人なら何味を期待するだろうか。緑茶の系統ではないとすれば、普通はメロン味ということになっている。日本ではソーダ水というと緑色でメロン味のものを指すことになっていたから、その影響だろうと思う。ソーダ水といえばメロンソーダという日本のこの決まりは何時から、どういうきっかけで始まったのか誰か教えてくれないだろうか。
めったに見かけないが、もしドイツで緑色のお菓子やジュースがあったら、もちろんメロン味ではない。緑色のグミは、酸味のある青リンゴ味である。ではジュースなら?それが、ヴァルトマイスター Waldmeisterという「ヤエムグラ属」の植物からとった香料の風味である。古くから香料として使われており、パンチ酒Bowleによく用いて、ヴァルトマイスター入りパンチのことを特にMaibowleと呼んだりする。
ヴァルトマイスターの風味はクマリンという成分に由来するのだそうで、日本だと桜餅の風味(つまり塩漬けにした桜の葉の香り)がそれだという。さわやかな青臭さとでもいうべきか。このヴァルトマイスターをレモネードにひたしてシロップを作るのだが、本当は緑色にはならない。森の香りのイメージから、緑色に着色しているらしいのだ。
特に驚くのは、ヴァイツェン・ビールWeizenbier, Weißenbier, Weißeとのカクテルである。ベルリーナー・ヴァイセBerliner Weißeというベルリン名物のビールがあって、キイチゴ(Himmbeere)かヴァルトマイスターのシロップと混ぜて飲む。赤や緑の甘酸っぱいビールを、特別のグラスに入れて、ストローで飲むのが決まりである。私は酒が飲めないのでよく知らないのだが、ビールをカクテルにして飲むというのはドイツでよく行われているらしい。ビールとコーラを混ぜたものは、コーラ・ビールだのビール・コーラだのディーゼルだの各地にいろいろな名称があるそうだ。レモン・ジュースとビールを混ぜた「ロシア人Russe」というのも、友人のドイツ人が一時期凝っていた。
若くして惜しまれつつ急逝したドイツ文学者のF氏とドイツでレストランに入った際に、メニューを見てニヤリと笑った彼は、「お前は酒が飲めなくて見る機会がないだろうから、面白いものを見せてやろう」と言って、Berliner Weißeを注文してくれた。ストローで飲む緑色の飲み物がビールだと聞いて、酒を飲めない私も仰天した。驚く私の様子をおもしろがっていたF氏の優しい笑顔が忘れられない。
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【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
専門はドイツ語史
『クラウン独和第4版』編修委員
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【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。
An Unofficial Guide for Japanese Characters 35
2010年 11月 7日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 34
Must the Show Go On?
“Role” is a primarily teleonomic word. For example: the role of a lookout is to assure that secret operations go off without being discovered; the role of a goalkeeper in soccer is to protect her team’s goal from their opponents. In cases such as these, the role is clear if the objective is clear.
There is no role without an objective. If asked what the role of an injured person is, we cannot answer. This is because no objective comes to mind. Even if we did think about it for a while, we could only come up with forced, far-fetched objectives such as “injured people live to become teachers in our society so that such accidents don’t occur again” or “whether real of pretend, injured people are necessary to create opportunities for emergency training.”
Even if we go through our daily lives without purpose or plan, we can, after a fashion, make a living (albeit an “aimless” one). However, setting objectives, and superimposing “roles” on people living around one, is a kind of point of view.
*
…I feel that whatever I do, I am merely an actor going on stage to play a role. I feel that behind this role I’m playing, there must exist something else. I feel that because I have always been driven forward, that something has never had time to awaken. The studious child, the studious student, the studious bureaucrat, the studious exchange student are all part of this role. I want to wash the red and black from my face and step down from the stage, just for a moment, to think quietly about myself and to glimpse the face of that something behind the role, but the stage director whips my back, and so I just continue moving from one role to another. I cannot believe that this role is the entirety of my life. I think that the thing behind the role is perhaps my real life. However, the more I try to awaken this thing, the more it dozes off. (…) When I cannot sleep at night, I sometimes wonder if I’ll spend the rest of my life playing such roles.
[Mouzou (1911)]
*
We have to give props to the “serious student” character. He certainly accumulates a lot of stress. Apparently, quite a few people wish they could quit their character, or live on their own terms a little more. I know I’m preaching to the choir here, but my advice to such people would be to lighten up, just a bit.
The “stage director’s whip” may hurt, but what if you just ignore it? If it exists at all. People often say that “the show must go on,” but life does go on, one way or another, whether we like it or not. Regardless of what you do or don’t do, sunset will follow sunrise, and the days will roll on; there is no need to think of this as a “show” in which you must assume a “role” “in order to” ensure its continuation. If you don’t like the “serious student” character, you can leave it.
However, even if you quit the “serious student” character, it is quite difficult to step off the stage. In the final analysis, you would just become a “delinquent” character, a “slacker” character, or some other character. This is not “to” ensure the continuation of some show; it just happens naturally.
I beg your pardon. I have let myself go off on a tangent. If you have found this essay disagreeable, please disregard it. I hope you feel better soon.
To Dr. MORI Ogai(1), the author of “Mouzou”
* * *
(1) 1862–1922 Novelist, poet, and doctor.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 35
2010年 11月 7日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)戏要一直演下去吗?
日语中的“役割yakuwari”原指分配到的任务、职责,进而指分配到的角色(社会角色)或起到的作用,其本身是用于目的论的语言。例如,搞监视的人其角色或作用是“为了”在不为人知的情况下秘密地开展工作;守门员的角色或作用是“为了”防止敌队的球进入本队球门。像这样,目的明确的话其被分配到的角色或起到的作用也就相应明确。
没有目的也就没有作用。例如如果有人问“伤者的角色或作用是什么?”,我们难以回答。这是因为我们想不出伤者的目的是什么。经过片刻考虑之后我们如果做回答的话,也许会说,“伤者是‘为了’今后不再让我们的社会发生同样事故的一种生存教诲”“‘为了’使避难训练得到充分完成,伤者无论是真的还是假的都是需要的”等等,其实这些只不过是目的的强搬硬套、牵强附会而已。
即使是毫无意图毫无计划,我们的日常生活也是照样过(即使是“无为的”),但是我们还是认为这是有目的的,把生活在其中的人与“角色或作用”结合起来考虑,其实这也只不过是我们的一种选择判断而已。
“……感觉自己做的只不过像是演员登上舞台在表演某个角色。并且在那角色的背后,似乎必须存在着一个别的什么东西。因为一味地被被鞭策被驱赶,那个东西没有觉醒过来的时间。从学习的孩子到学习的学生、到学习的政府工作人员、到学习的留学生,等等都是拼命学习的角色。想什么时候洗净被涂得红红黑黑得脸,暂时从舞台上走下来,静静地考虑一下自己这个人,窥视一下背后的那个东西,但是舞台导演的鞭子却抽在身上,只能从一个角色到另一个角色不停地演下去。这角色难以让人感觉是真实的。背后的那个东西才让人感觉是真正真实的。”但是,背后的那个东西多次想睁开双眼,却又昏昏沉沉地睡过去。”“……有时候,在夜不能寐之时,就会问自己真的就这样一直站在舞台上了此终生吗?”
“优等生”角色,辛苦了!的确,“优等生”角色是经常处在紧张压力状态下的。“不想做这个角色”“想做真正的自我”等这样想的人似乎很多。我也许无论说什么都是圣人门前卖字,但是我还是要说一声,请稍微休息一下吧!
“舞台导演的鞭子”,即使多少有些疼痛,也请暂且忽视一下。细想来,“舞台导演的鞭子”这种东西,真的存在吗?都说“戏要一直演下去”,其实人生是不需要谁的推进、自然而然地继续的,做什么或不做什么,白天都会来夜晚都会来一天会过去,而把这称之为“戏”,“为了”使戏演成,必须让每个人有其“角色(作用)”,这样的认定真的需要吗?不喜欢做“优等生”角色,那就从“优等生”的角色圈子跳出来好了。
但是,不再做“优等生”角色,“从舞台上走下来”,这,是很难的。其结果只能是变成“阿飞”角色或“懒人”角色,或是变成别的什么角色。其实,不是“为了”使戏演成,是戏不知不觉自然而然地形成了。
啊,对不起!不由得说了随意之言。如果让您感觉到了不悦就请扔掉(忘记)这篇文稿。无论如何请注意身体。
《妄想(Moozoo)》(1911年) 作者:森欧外先生
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
地域語の経済と社会 第124回 「おいしい方言(島根県)」
2010年 11月 6日 土曜日 筆者: 山下 暁美地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第124回「おいしい方言(島根県)」
「うまいがん」【写真1】は、写真を見ると「出雲地方のおいしいという方言です」と説明があります。「~がん」は、鳥取県西部や出雲地方で「おいしいじゃない」「おいしいよ」という意味で用いられています。終助詞の「~がの」が「~がん」と変化して、軽い同意や念押しを表します。この地方では、「~がね」「~がや」など終助詞の組み合わせによって微妙なニュアンスを表現する終助詞が数多く見られます。
ショーケースの中に、「うまいがん」の隣に、「うんまいな」(おいしいな)【写真2】が並べてありました。これは、麹菌(こうじきん)が入った塩の袋に手書きで書かれていたラベルです。「うんまいな」できゅうりをもんで、一夜漬けにしていただくとおいしいと書いてあります。島根県出身の生産者からじきじきに買ってきて、さっそくいただきました。
島根県という同じ県内で「おいしい」と伝えるにも、いろいろ表現があって方言が使えると豊かな気持ちになりませんか。
「ぼてぼて茶」【写真3】は、出雲地方に伝わる庶民の間食用のお茶です。その昔、松平治郷(まつだいら はるさと・号は不昧)という松江藩第7代藩主が松江に日本茶を広めたと言い伝えられ、出雲人のお茶好きは、有名です。「ぼてぼて茶」は、茶の花を入れて煮だした番茶を熱いうちに茶筅で泡立て、その中に赤飯、煮豆、漬物などを入れて箸を使わず飲むようにして食べるお茶です。泡立てるときに「ぼてぼて」と音がするのが名前の由来だそうです。沖縄の「ぶくぶく茶」、富山の「ばたばた茶」などと共通点があって、泡立てて飲みます。
島根県の「だんだん」(ありがとう)と書かれたTシャツ【写真4】を着た店員さんがいたので、背中を写させていただきました。もともと「だんだん(重ねがさね、次から次へと、あれやこれやと)お世話になりました」と使われていましたが、後ろの「お世話になりました」がとれて、「だんだん」だけで「ありがとう」の意味を表すようになりました。
このシリーズでも「出雲弁だんだんかるた」(第35回・大橋敦夫氏)、「よこただんだん市場」(第76回・田中宣廣氏)で紹介されていますから参考にしてください。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

山下暁美(やました・あけみ)
明海大学外国語学部・大学院応用言語学研究科教授。博士(学術)。
専門は、日本語教育学・社会言語学。研究テーマは、移民百年を迎えた、ブラジル、アメリカ合衆国などにおける日本語の変化、外国人の日本定住化による共生時代の日本語教育政策。
著書に『書き込み式でよくわかる日本語教育文法講義ノート』(共著、アルク)、『海外の日本語の新しい言語秩序』(単著、三元社)、『スキルアップ文章表現』(共著、おうふう)、『スキルアップ日本語表現』(単著、おうふう)、『解説日本語教育史年表(Excel 年表データ付)』(単著、国書刊行会)、『ふしぎびっくり語源博物館4 歴史・芸能・遊びのことば』(共著、ほるぷ出版)などがある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
人名用漢字の新字旧字:「篭」と「籠」
2010年 11月 4日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第75回 「篭」と「籠」
新字の「篭」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。旧字の「籠」は、今は子供の名づけに使えませんが、今月末で常用漢字になるので、それ以降は子供の名づけに使えるようになります。でも、今の時点では「篭」も「籠」も、出生届に書いてはダメなのです。
昭和53年1月1日に制定された漢字コード規格JIS C 6226では、旧字の「籠」が第1水準漢字、新字の「篭」が第2水準漢字でした。ところが、昭和58年9月1日の規格改正で「籠」と「篭」は入れ換えられ、新字の「篭」が第1水準漢字に、旧字の「籠」が第2水準漢字になってしまいました。
平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、平成12年3月に文化庁が書籍385誌に対しておこなった漢字出現頻度数調査、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。旧字の「籠」は漢字出現頻度数調査の結果が233回でしたが、全国50の法務局から不受理の報告はありませんでした。もし「籠」が第1水準漢字だったなら、出現頻度233回なので、人名用漢字の追加候補になれるはずでした。しかし、「籠」は第2水準漢字だったので、法務局数が0であれば、出現頻度に関係なく追加候補から外されました。一方、新字の「篭」は出現頻度31回で法務局数が1だったので、追加候補にはなりませんでした。
漢字出現頻度数調査には、「籠」とは別に「7画目が横棒の籠」(画像参照)も含まれていて、出現頻度3789回とダントツだったのですが、人名用漢字部会はこの字をあえて無視しました。
この結果、「篭」も「籠」も「7画目が横棒の籠」も、人名用漢字になれませんでした。ですので、今日現在の時点では、「篭」も「籠」も「7画目が横棒の籠」も子供の名づけに使えません。しかし、話はこれで終わりではないのです。
平成18年3月、文化庁は新たに、書籍860冊を対象とした漢字出現頻度数調査を公表しました。文化審議会国語分科会のもと発足した漢字小委員会が、常用漢字表の改定作業を進めており、その基礎資料とするためです。新たな漢字出現頻度数調査では、「篭」が31回、「籠」が507回、「7画目が横棒の籠」が6823回という結果でした。ところが、漢字小委員会が国語分科会に報告した「新常用漢字表(仮称)」に関する試案(平成21年1月27日)では、「籠」を常用漢字に追加すべきだとしていました。「篭」や「7画目が横棒の籠」ではなく、「籠」が常用されている、と漢字小委員会は判断したのです。
平成22年6月7日、文化審議会は改定常用漢字表を答申しました。改定常用漢字表には「籠」が収録されていましたが、「篭」も「7画目が横棒の籠」も含まれていませんでした。そして、今月末には新しい常用漢字表が内閣告示されて、「籠」は常用漢字になる予定です。
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【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。
漢字の現在:「本気(マジ)」な「当て字」
2010年 11月 2日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第69回 「本気(マジ)」な「当て字」
前回まで、「まじめ」の表記について取り上げて検討してみた。それと語形が似ていて、語義にも関連性が感じられる語に「まじ」がある。比較的若い年齢層での会話などで、「まじムカつく」、「ウソ、まじで?」など口語として出てくるその語は、文字化される際には、どのような表記がなされるのだろうか。
「まじ」は「まじめ」の短縮形だ、という有力な語源説とは別に、さまざまな語源解釈も一般に行われる。それは、多くの人に馴染み深い語となっていることの表れでもあるようだ。中には「まじめ」という語が、この「まじ」に「め」が付いたものと逆に解する学生もある。さらに、互いに全く別々の語だ、と思っている人も意外に多い。
このことばは、現代の学生たちもよく使う。また、年配の方から耳にすることもなくはない。私は、この語が好きか嫌いかといえば、その響きやニュアンスが好きになれず、使うことはまずないのだが、研究者としてはその存在を認めないわけにはいかない。批難する向きもあるが、その場その場で相手や状況に適した言葉遣いができるのであれば、それは構わない、相互のコミュニケーションにとって摩擦がなく、逆に十分に円滑になるのならば否定するどころか、むしろ良いことなのでは、とも思っている。まして語や表記の現実を研究するうえでは、扱わなくてはならない素材だと考えている。
「まじ」は、「まじめ」を省略することから生じた語であると考えられる。これは実は江戸時代のうちに起きており、230年ほど前の文献(洒落本『にゃんのことだ』 天明元年)以降、しばしば出現する。天明から寛政、享和頃に、江戸の遊里でもっぱら行われた語だという(『江戸時代語辞典』)。これは、江戸時代から本気(で)、という意味で使われ、楽屋言葉として残っていたものだったようだ。
それが、1980年代ころから、テレビ番組で若手の男性タレントたちが連発するようになり、若者ことばとして盛んに使われ始めた。1970年代に水谷豊が歌詞で「マジナハナシ」と歌ったことについて、その作詞家の阿木燿子氏にうかがったところ、斜に構えた若い人が使っていたように思うとのことで、(宇崎竜童が使っていたわけではなく)水谷豊が「傷だらけの天使」で演じた亨(あきら)君が言うイメージをおもちであることを教えて下さった。
表記としては、江戸時代から平仮名が多く、漢字では「不酔(まぢ・まじ)」「真地(まぢ)」と書かれた例があるにはあり、意味のとらえ方が漢字表記に現れているようだ。漢字の字義をどこまで意識したのか、字の発音だけを用いたのかは、こちらが解いていかなくてはならない。ともあれ、戦前まで、通常選ばれる表記は「まじ」であった。
日本語は、漢字だけでなく、ひらがな、カタカナ、ローマ字なども表記に用いられるため、表音文字で書けばそれで済むはずだ。この「まじ」はもちろんのこと、「マジ」とも書かれる。前者は、しぶがき隊の曲名にもあった(1984)。後者は、『当て字・当て読み漢字表現辞典』(漢字の位置を確認するために仮名表記、ローマ字表記、記号による表記も収めた)に引いた例のほか、1982年の近藤真彦「ハイティーン・ブギ」(松本隆作詞)でもこの表記であった。今をときめくAKB48は、テレビでドラマ「マジすか学園」(2010)に主演し、その主題歌として「マジスカロックンロール」を歌っている。
同じ仮名でも少し変えて、擬古的にすることで個性を発露させるためか、「まぢ」や「マヂ」とも、女子生徒らの間で、書かれることがある(歴史的仮名遣いには合っていない)。個性とは逆に、これを共有する自己の属するグループに埋没する意図もなくはなさそうだ。また何らかのキャラクターを演じることで、照れ隠しをしようとする意識も感じ取れることがある。
しかし、やはり仮名では、「まじ」のもつ語勢や語義に匹敵しえず、しっかりと位置付けることができない、という不満が残った人もいたのであろう。このタイトルに用いたような漢字による、様々な当て字表記が模索されていくのである。(つづく)
* * *
【編集部から】ついに『当て字・当て読み 漢字表現辞典』が刊行されました! その奥深さを、ほんのちょっと教えていただきたいと編集部がリクエストし、笹原先生に「漢字の現在」の特別編としてご執筆いただくこととなりました。まさに“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』について、数回にわたって、その内容のご紹介や本文におさめきれなかった情報をつづっていただきます。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「真面目」復権への道のり」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

















![『新明解国語辞典 第七版[机上版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の机上版。判型は並判より大きいA5判で、さらに文字が大きく見やすい。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[机上版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kijo.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[小型版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の小型版。並判より一回り小さいA6変型判で、携帯にも便利。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[小型版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kogata.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[革装版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の革装版。丈夫で使うほどに手になじむ。判型は並版・特装版と同じB6判。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[革装版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kawaso.jpg)
















































































































































2007年









