漢字の現在

第78回 三河の「圦」

筆者:
2011年1月11日

秋の岡崎の地で、「いり」つまり用水路や水門が設けられているであろう池を求めて歩いていると、風邪のせいでフラついてきた。ちょうどタクシー会社の前にたどり着く。一旦は通り過ぎたが、誘惑に負けて扉を開き、タクシー無線を操る大きな男性に聞いてみた。「いり」が付く地名には、「「どうじょういり」がある」。パソコンを叩くと、画面には「入」。残念、土偏が付かない。

「なかがいり」「うさぎがいり」など、ほかも同様だった。しつこく、「何かあるのではないか」と食い下がって画面を覗き込むと、地名が並んだ下の方に「宮ノ圦」が表示されていた。行き場所は決まった。そもそも、「見ないでね」と笑って言われる物がたくさん貼ってある事務所に、「どうぞ」と入れて、座らせてくれるような何やら醇朴で温かい風土を感じさせるところだ。

「いり」とは何かと尋ねると、「字(あざ)名は、本当に分かりにくい」とその男性は知らないと言い、また年配のタクシー運転手も分からないようだ。地元では、地名に残る化石のような語と字のようである。日常語としては死語となっており、字も「死字」となることを予感させた。

プリントアウトしてくれたその画面の地図を片手に、タクシーに乗り込む。駅に向かうタクシーで、現地に着くと、大きな寺社の池に隣接し、そこに流れ込む用水路を持つ場所であった。地元の住民の方々に話を聞けた。やはり、中高年層でも地名の意味は認識されていなかった。


土偏に入るって書く。書かれた看板や電柱などは無いのではないか。(女性)

ここに来て38年だけど、この土に入るという字が初めは分からなかった。明治のころの地名か。パソコンでこの漢字が出ない。手紙では使うが、「土入」となって届く。(男性)


この字はJISの第2水準にはあるのだが、この男性は、「みやのいり」ないし「いり」という読みからそれを呼び出せなかったのだろう。

この地名が書かれたものは町中には無いと、揃って言う。近年脚光を浴びている「言語景観」の視点からは、この現地での「圦」の使用はゼロであった。しかし、そこの実際の暮らしの中では確かに地名として使われているのである。

せっかく来たので、実際にこの字が使われている物を隈無く探してみた。しかし、確かに見当たらない。かつては「みやのいりそう」なるものもあったそうだが(この「そう」は「荘」ならむ)、すでになくなっているとのこと。古びたアパートで、やっと「MIYANOIRI」とローマ字で書かれた外国の方の郵便受けを見かけた。こういう時に意外と頼りになる自動販売機も、そこでは1台しか設置されておらず、そこには誤って「宮ノ込」と手書きされていた【写真】。恐らく会社の人が書いたものであろう。これも誤表記といえばそういえるが、視点と価値観を変えれば、一般的な字に交替する「共通字化」の一種と捉えられるものだ。

【写真】

今、改めて調べてみると、この辺りにはほかにも「圦」地名は散見されるのだが、「大圦」などは「竜美大入町」となっているように地図上では見え、ここだけの状況ではないことがうかがえる。そして、「圦」を用いたその他の地でも、同様の事態が人知れず進んでいる可能性が頭をよぎった。

いくつも見られる地名の「入」にも、元は「圦」だったものがあるのではなかろうか。尾張の「杁」に拮抗する形で、近世以降、この辺りでは、江戸幕府も用いる共通文字の「圦」が使われていたのだが、戦後、当用漢字表や常用漢字表による「新たな共通字化」が進展した。そして、見慣れた漢字に書き換えられた結果が「込」だと考えると、この「宮ノ圦」という字の行く末も、決して安泰ではないように思われた。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。