クラウン独和辞典 ―編集こぼれ話―

106 ドイツ語の地域差と独和辞典

筆者:
2011年1月24日

日本語と同じようにドイツ語にもさまざまな方言がある。それらは大きく、北ドイツの低地ドイツ語、中部ドイツの中部ドイツ語、南ドイツ・オーストリア・スイスの上部ドイツ語に三分され、そこからさらに各地域の諸方言に枝分かれしていく。隣接する方言、たとえば南東ドイツのバイエルン方言と南西ドイツのシュヴァーベン方言は相応の類似性を示すが、北ドイツの話者とスイスの話者が各々の方言で理解しあうことはきわめて難しい。もちろん、今日では大部分の人々が標準語を話せるので、ドイツ人とスイス人の間で通訳が必要になることはないし、我々も教科書で習ったドイツ語で不自由なく旅行したり暮らしたりすることができる。

とはいえ、実際にドイツ語圏に赴いてみると、方言はともかく、各地で話される「標準語」(ないし標準語に準ずる日常語)にもかなりの相違があることが実感される。一番目立つのは発音で、たとえば語末の-ig [ıç]は、ドイツ語圏の南部では[ık]となる。また、rは口蓋垂(のどひこ)の[R]が優勢であるが、バイエルン州とオーストリアなどでは巻き舌の[r]が用いられる。このような発音上の偏差は、「習うより慣れよ」で、特に意識しないでも自然に耳に馴染んでくる。

しかし、問題は発音にとどまらない。語彙や表現においてもドイツ語には少なからぬ地域差が見られる。ドイツ語学習者が一番はじめに習う挨拶Guten Tag!「こんにちは」からして、ドイツ語圏の南半分ではGrüß Gott!(南ドイツとオーストリア)、あるいはGrüezi!(スイス)という(ともに「神があなた[がた]に挨拶してくれるように」の意)。もちろん、南部でGuten Tag!といっても十分に通じるが、土地の流儀で挨拶をした方が好感を持たれるであろう。この挨拶表現に関しては、次のサイトに興味深い言語地図が掲載されている。
//www.philhist.uni-augsburg.de/de/lehrstuehle/germanistik/sprachwissenschaft/ada/runde_2/f01/ [Atlas zur deutschen Alltagssprache]

さて、『クラウン独和』ではこれらの表現に対してどのような説明がなされているであろうか。Grüß Gott!については、grüßenの項に「GrüßI [dich/euch/Sie] Gott!《南部・オーストリア》おはよう;こんにちは;こんばんは;さようなら」とある。この挨拶は四六時中使えるため多数の訳語が並べられているが、「おはよう」は実は南部でもGuten Morgen!ということが多い。また、「さようなら」の意味での用法は(方言を除いて)稀であると思われる。スイスドイツ語のGrüezi!はそのまま見出し語になっており、同様の訳語が配されている。

もう1つ例を挙げよう。朝食として好まれる小型の白パンをBrötchen(<Brot「パン」+縮小語尾-chen)というが、これも全ドイツ語圏で使用される語ではない(「理解」はされるが)。地域ごとに(たとえ標準語で話すときでも)、Semmel、Wecken、Rundstück、Schrippeなど区々な呼称がある。クラ独で調べると、SemmelとWeckenは《南部・オーストリア》、Rundstückは《北部》、Schrippeは《ベルリン》となっている。これらの記述は一見マニアックと思われるかもしれないが、実は有益な情報である。かつて旧東独の教授から次のようなエピソードを聞いたことがある。彼が地元のギムナジウムを卒業して、ベルリンで大学生活を始めたころにパン屋で「Brötchen」を求めたところ、店員に「Schrippeですね」といわれたとか。まあ「おのぼりさん」であることが露呈しても特に損をするわけではないし、まして我々外国人がそこまで見栄を張ることもないかもしれないが、現地での暮らしに馴染むために多少の勉強が必要ではある。

このように各地で耳新しい表現に出会ったら、ぜひクラ独で調べていただきたい。「地域限定版」の語彙・語法には、通用域の記載とともに、類義語として「メジャー」な対応語が挙げられている(たとえばSemmelやSchrippeには(→Brötchen)といった形で)。一方、逆方向での(つまり「メジャー」な語から「地域限定版」への)類義語指示は原則としてなされていない。しかし、特に重要な情報は♦印の注として盛り込まれている。ちなみに、Brötchenの項には「♦南部・オーストリアではSemmelという」とある。このような言語上の地域差を、ドイツ語圏文化の多様性の一事例として楽しみながら学ばれてはいかがだろうか。
クラ独は大辞典ではないし、方言辞典でもない。しかし、ドイツ語の標準語~日常語に地域差が存在する以上、学習者に役立つ最低限の情報は提供されてしかるべきであろう。このような点で、クラ独の記述は中型辞典としては充実していると自負する。飽き足りない方は、上述のサイトや、W. König: dtv-Atlas Deutsche Sprache. München (Deutscher Taschenbuch Verlag) 142004をご覧になるようお勧めしたい。同書にはBrötchenの言語地図も収録されている。

筆者プロフィール

『クラウン独和辞典第4版』編修委員 飯嶋 一泰 ( いいじま・かずやす)

早稲田大学文学学術院教授
専門はドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

編集部から

『クラウン独和辞典』が刊行されました。

日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

(第4版刊行時に連載されたコラムです。現在は、第5版が発売されています。)