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漢字の現在:尾張の「杁」

2011年 2月 22日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第84回 尾張の「杁」

 名古屋郊外の大学校舎に向かう。リニアモーターカーは、子供の頃から、夢のまた夢だったが、何年も前にこの地で実現していた。新しい物好きではない私にはちょうどよい、またそれしかない交通手段だ。丘陵地を見晴らせるそれに乗り込む。

 講義の前の短い間だが、途中下車したのが、「杁ヶ池公園」駅である。初めの3字は「いりがいけ」と読む。そこから、尾張の地域文字である「杁」を含む地名を探しながら歩くと、次第に目が覚めてきた。そこには当たり前のように、この地域文字が使われている【写真1】。


【写真1】

 かつて江戸時代の初めに尾張では、「木偏」のこの字が用いられ始めている。一方、江戸幕府や他の藩では、同じ用水路や水門を意味する「いり」には土偏の「圦」という字を使っていた。「杁」は、それに先がけて現れた国字のようだ。「いり」という訓義をもつ「入」を旁に配した形声文字のようなやや珍しい構造となっている。尾張藩では、途中、幕府も公用する土偏の字に変えるようにお触れが出されたことさえあった。個別的な漢字政策と目される。が、地元での使用習慣は容易には変わらなかった。

 このため、この辺りでは、この「杁」というローカルな字を皆がきちんと「いり」と読める。「いる」が終止形だと、類推によって思っている人も多い点は意外だった。第78回の三河の「圦」とともに、現地では字義そのものはすでに忘れ去られているものの、化石のようになって地名の中に残っている。


【写真2】

 土偏の「圦」と違って、この木偏の「杁」は、公園名、マンション名、病院名など看板で、たくさん使われていた。もっと写したいものがあったであろうに、酷使によく耐えてきたボロボロのカメラで、時間の許すかぎり、いくつも記録に収めた(例:【写真2】)。なお、地下鉄の「いりなか」駅は、ひらがなとされているが、数年前に地上を歩いたところ、「杁中」という表記がやはり普通に使われていた。おそらく「二ツ杁」駅界隈も同様なのであろう。

 この字を、「そま」と読ませる姓もあるとのこと。全く別の来歴と意味を持つ国字の「杣」(そま)が、使用頻度が高かった「杁」の影響を受けた結果とも考えられる。

 その近くには、日本史で有名な古戦場跡もあり、町名は長久手町となっているが、「長湫」という表記も小地名として残っており、看板などに見られる。湿地を表す方言「くて」に、それに近い字義を持つ漢字を当てた国訓であり、地域限定という観点から見ると地域訓でもあり、当然のように地元の皆は読める。

 これらを人々は生活の中で自然に覚えるようで、日本で当地に使用分布が集中していることは、あまり意識されていないようだ。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「漢字の音義の一人歩き」でした。

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2011年 2月 22日