漢字の現在

第85回 中京圏の漢字

筆者:
2011年3月1日

愛知県で、「「はざま」と言って思いつく表記は?」と問うと、その地の小地名に見られる「廻間」は、さすがに出にくいようだった。しかし、やはり名古屋市内の桶狭間の「狭間」は多く出た。桶狭間の戦いも、地元で起こった出来事なのである。奈良や京都とは違った意味で、歴史のある地であることを感じさせられる。前回の「長湫」も、秀吉や家康が地図などで目にしていたことであろう。

ただ、遥かな過去だけが歴史ではない。今現在と思っているこの瞬間も、あっという間に歴史の中に移ろい、過去へと収まっていき、たいていは少なくとも表舞台から消える。現在は、歴史の最前線にあり続けるだけの切片だ、とさえ思える。

「寒い」という表記を「さむい」と読むべきか「さぶい」と読むべきか、迷うとも言う。眠りにいざなう一方通行はやめ、気付きを喚起する講義形態を試みると、こちらも学ぶことが一気に多くなる。「さぶい」は各地で用いられる語形だが、私の周辺ではあまり聞かない。「さびしい」「さみしい」は共通語でも揺れているようだが、「さぶい」という読みには地域性が感じられる。地名や姓のような目立ち方をせず、辞書にもあえて詳細は掲載されにくい情報ではあるが、一回ごとの読字行為の中では確かに存在し、目を開き、耳を傾けてみれば、実は多く見聞される地域訓といえよう。

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「金鯱」は、「きんしゃち」とも「きんこ」とも読まれたものだ。国字である「鯱」を後者のように音読みするものは、名古屋城のお膝元ならではの「地域音」であった。この2字の熟語は、名古屋金鯱軍というプロ野球チームも戦前にあり、遊覧船の金鯱号も以前、名古屋港で運航していたし、今でも土産物の名などでは健在である【写真】。すでに記憶には残りにくくなっているようで、若年層からは忘れられかけているようだ。しかし、「鯱」を「しゃち(ほこ)」と読める人は、当地ではやはり多い。なお、人名では、さすが名古屋というか、金偏を付した命名も以前は盛んだったそうで、なおも人名用漢字の要望にも見受けられたほどの土地柄である。

姓には当地の歴史を思わせるものがあったほか、姓に含まれている「藤」は西日本に優勢な「ふじ」と、東日本に優勢な「トウ」がほどよく混在している。同じく「谷」という字は、「たに」と読む学生ばかりで新鮮だが、一般では姓や地名ではみごとに交ざって存在しているそうだ。東日本的な「なかじま」と、西日本的な「なかしま」も、その辺りでは「同居」していて迷うことが多いという。さすが中京地方だ。「高橋」さんは関東に多いが、こちらでも「橋」は姓によく見られる。右上の「夭」を「天」のように書く異体字を、「天橋(てんばし)」というとのこと、これは全国でよくある呼称だろうか。

のどを使った後のビールは、とにかくおいしい。郷に入っては郷に従え、地元ならではのものも食べたい。「ひつまぶし」も頂いた。「ひつまぶし」は地元のたいていの学生たちは「ひまつぶし」には見えない、ということだった。新幹線では、浜松あたりからよく駅の貼り紙で目にするように思われるが、その辺りからの現象だろうか。さすがに、小さいころからこの語形を耳で覚え、目でもこのひらがな表記を見慣れたことによる馴染みが、東京人などの誤読の轍を踏ませなくなっているのであろう。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。