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漢字の現在:位相表記の地域差

2011年 3月 15日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第87回 位相表記の地域差

 旅の者として愛知県で過ごした数日間は、休暇ではなかったが、身辺の窮屈な雑事を忘れられる束の間の日々だった。

 名古屋出身の女性が、以前、ある研究室に配置されていた「デラべっぴん」とかいう名の雑誌を見て、この「デラ」は名古屋弁からでは、と喜んで語ってくれたことも思い出した。都内の人間には、思いも寄らぬ新しい解釈だった。

 なお、第84回に触れた「杁」という字は、杁ヶ池の地にもあったが貯水池に設けられた「いり」(用水路・水門)のほか、農具の「えぶり」と読まれることもある。その字を用いた山がある新潟の方からもその情報を寄せて頂いた。これは、漢字の「朳」が本来の字であるが、形が似ているため古くから混同されてきた。ことにJIS漢字の第2水準に、「杁」しか採用されなかったために、これで代用されることが増えたものであった。

 愛知県内の大学で回収した用紙に「覚わる」と書いてきた学生がいた。最初、何かの書き損じかと思って尋ねてみたら、「覚えることができる」という意味だという。この語は、地元の方たちによると、さすがに論文などでは用いないそうだが、皆、方言だとは認識していないのだそうだ。生徒たちは作文の添削でも直されることなく、よく用いているとのことだった。発音が私には、フランス語のような響きさえ感じられ、何だか新鮮だ。

 こうした、派手さはないが「気付かない方言」が漢字交じりの表記で現れてくることがある。WEBで検索をかけてみると、やはりその辺りの地域から、方言だと気付いたといった書き込みが多く見られる。また、これは漢字変換がなかなかうまくいかなかったことと思われるが、ブログやツイッターなどで使用している例も確認できる。

 女子は中学生のころ、名前の後ろに付ける敬称の接尾語である「ちゃん」には「ⓒ」、「さん」には「ⓢ」、「くん」には「ⓚ」、ついでに先生には「T」や「t」という表記を、手紙などに記して使っていたという。筆記経済に、かわいさや、かっこよさが加わり、使用者間の結束を強めるとなれば、もうその場面では必須のものとなる。一方、男子生徒の中には、「女子は名前の後にⓒと一々書いて、何で人の名前に著作権を主張しているのだろう」などと勘違いする向きもあり、使用と受容、そこから生じる意識には性差も認められる。

 それらの若年女性の間で行われる位相表記は、どうやら全国共通のようだ。「それならば、「先輩」を「sp」と書くこともあるでしょ?」と念押ししてみた。しかし意外そうな笑いが起きた。先輩は「先輩」や「先パイ」などと書いていた、という。「sp」の類はほとんどが見たことがなく、スペシャルとしか読めない、とまでいう。位相表記に地域差があるようだ。そして個人差、個人でも場面差があり、この全国の状況は共時的にはとらえにくいのかもしれない。私よりも上の世代では、先輩と読ませる「sp」をやはり知らないという。そうしたもの全体の流行に、時代ごとに変化が起きるのは当然のことである。

 もしかしたら、東京でも、今では「sp」は中高生の間で古くなったのだろうか。いや、筆記経済の観点からは、煩瑣でよく使うものは簡易化され、一度略されればほぼそのまま定着し、しかもそれがお洒落でかわいい、かっこいいものとして共有されれば、愛用されていく傾向があるものだ。時代差も関わるのか、気になってきた。

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 今回の大地震により、東日本、とくに東北地方の日本海側を中心に激甚な被害が生じている。私もちょうど福島県内にうかがう予定だったが、交通も通信も寸断され、叶わなくなってしまった。状況は極めて痛ましい。一日も早く、穏やかな日々が戻ってくることを心よりお祈り申し上げます。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「方言と漢字」でした。

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2011年 3月 15日