2011年 5月 のアーカイブ
漢字の現在:ベトナムの「魚の心」
2011年 5月 31日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第103回 ベトナムの「魚の心」
また、ベトナムの話に戻ろう。講義で話したエビの話については、とにかく、いろいろなものを研究資料とする、と驚いていた。そこでは言わなかったが、日本では、さらに近年、「蝦」と「海老」とを書き分ける意識までが広がりを見せ始めている。こうした字面レベルでのニュアンスの区別を日本人は好む。「海老」では畏れ多いと、ザコエビ(天鰕)の「鰕」(蝦)に代えて用いたと述べる市川家の歌舞伎役者「市川鰕蔵」がすでに江戸時代に存在しており、それについても実は甲府で大きな収穫があった。
ベトナム語は、基本的に単音節語であり、それを表記するためには形声文字がよく適合したため、会意文字は少ない。中国などで鮮卑、壮(チワン 旧称は僮など)など異民族らによる「俗字」に、会意が多いのは、識字量のほかに言語の性質の差異にもよるのだろう。
ベトナム語では、エビをtôm(トム)と呼ぶ。チュノムでは、「
」と書かれた。これは、発音に基づく形声と目されるが、ベトナムでは、旁の「心」はエビの姿形をかたどっている、その点々はヒゲだ、エビが好きというベトナム人の心を表している、という解釈も聞かせてくれた。どうも俗解だとは思われるが、旁に意味を見いだそうとする日本人的な発想と共通する。これには「
」などの異体字もあった。やはり類似する発音をもつ字を旁にもってきた形声文字だ。また、エビの種類によって別の語もあり、それにもまたチュノムが作られていた。
チュノムは、概して漢字をより複雑化している。表音文字の仮名やハングルとは逆に、構成要素を付すことで、より煩雑なものを生み出していった。部首が意味の範疇ではなく、意味そのものを示す方法もとる。記された漢字やチュノムを音読みさせたいのか訓読みさせたいのか、文字の用法は表意なのか表音なのか、にわかに判然としないものがたくさんある。そしてそうしたものが混用、併用されることが常であり、該当字がいずれであるのか専門家でも判断できないこともあるなど、解読が一定しない状況があるそうだ。
個人の作った文字が、特定の地域で使用されて広まったり、特定の社会や場面に限って現れたりするなど、位相を生む。そして様々な条件を経て、全国共通の文字へと変わっていくものが現れる。そういう演変は、日本ばかりでなく、この地にもあるのではなかろうか。私も、この歴史が深く、長くて広いベトナムでの文字の動態を知りたい。しかし、日本のことだけでも手一杯なので、きっとベトナムの人たち自身の手で、観察、考察に内省を加味してそれを解明してくれるよう、心より希望している。こつこつと調べあげた事象を蓄積していけば、日本との文字の交流の歴史も、今後さらに明らかになることだろう。共通点と相違点を知り合い、互いにもっと理解し合った上で、本当の意味で国同士、人同士が仲良くなれるのでは、と考えている。
質問の時間になった。女優のようにオシャレな女子学生が、「なぜエビだったのか」、また、「ほかの語・字でも同様のことがあるのか?」と至極もっともなことを尋ねてくれた。日本の文字・表記は、ほかの語でも、たいていはドラマチックな変遷を辿ってきたことが、調べていくと浮き彫りになってくる。エビは、元々「蛯」という国字があったので、その用例を採集していた。女子大に勤めたばかりの時に、北海道の室蘭に、学生の引率で初めて行ったときにレストランで見かけ、「おや? なぜ?」と思って撮った写真のころから、気にかかっていた文字だった。
それは他の多くの字とともに眠りについていたのだが、エビちゃんのメディアでの華麗な登場と大活躍をきっかけとし、旧式のカードなどに集めていた情報を、1日あまりで一気にまとめて整理し、そこに文献やアンケートなどで不足を補充したり、表記レベルまで広げては問題点を明確化したりしていったものだった。確かに種々の起伏や交代に富み、それらの原因も各種そろっていて、また現代を示唆する面もある、日本の文字を象徴する1字であった。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「富士八湖での当て字」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(50)(最終回)
2011年 5月 31日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(50) 清少納言のその後(最終回)
皇后定子崩御という出来事が、一条天皇や中関白家一族だけでなく、当時の貴族たちに大きな衝撃を与えたことを見てきました。それは、『枕草子』に書き留められた明るく誇り高い定子が、作者が創造した虚構の姿ではなく、定子自身が人々の気持ちを引きつけるだけの人格を備えた后であったことを証明しています。
そんな主人を心から敬愛し、最期まで傍にいたであろう清少納言は、定子崩御後、どうしたのでしょうか。定子がいなくなった後の『枕草子』日記的章段の記事がないことからも、作者は宮仕えを引退したというのが、これまで最も支持されてきた考え方でした。それから再婚してしばらく地方に暮らした後、都に戻り、定子の葬られた鳥辺野陵の近くで定子の菩提を弔いつつ一生を終えたというのです。それは理想的な主従のあり方として誰もが納得しやすい筋書きですが、読者の想像に依拠した確証のない推測でもあります。
もっと現実的な様々な可能性を考えてみると、勤め先を失った女房が新たな職を探して移るということがあります。たとえば、彰子中宮の後宮に清少納言が仕えたという説もあるのですが、それは紫式部との関係から否定しておきましょう。清少納言と紫式部が同僚女房であったら、紫式部は日記に清少納言批判を書く必要はなかったからです。
勤務先としては、定子の長女の修子内親王家が一番妥当なのではないかと考えます。定子の3人の遺児のうち、敦康親王は皇位継承に絡んで一時、彰子の養子にされたり、隆家が自邸に連れていったり、道長方との間で常に緊張関係を強いられていました。また、定子の命と引き替えに誕生した媄子内親王は、わずか9歳で亡くなっています。中関白家の中では修子内親王が一番長寿で、60代まで生きており、『枕草子』に登場している宰相の君も一時期出仕していたようです。修子内親王家であれば清少納言も比較的穏やかに出仕生活を続けられたのではないかと推察します。
清少納言の出仕継続に私がこだわるのは、『枕草子』が定子崩御後、しばらくしてからまとめられ、公表されたのではないかと考えているからです。『枕草子』という作品は、中関白家の栄華から没落に至る歴史的動向を、事件当時から少し離れた時点でとらえ直した作者が、確かなビジョンの下でまとめ上げた作品だと考えます。作者が定子とあまりにも近い位置にいたからこそ、時間的に離れた位置に立つことが必要だったと思うのです。
経済的なバックアップなしに文学作品を書き上げ、それを流布することが極めて難しい時代、作者が『枕草子』を発表するためには上流貴族社会に身を置いていることが必要になります。つまり、定子崩御後もどこかで出仕生活を続けながら、作品発表の機会を窺っていたと考えます。作者が『枕草子』に託した思いは何だったのでしょう。定子が最後まで心を残した敦康親王の皇位継承を、定子後宮の優秀さという面から後押しするためだったと考えることもできます。しかし、政治的状況はそれほど甘いものではありませんでした。定子の遺志に報いたのは、第一皇子立太子を断念せざるを得なかった一条天皇の無念の思いだけでした。
しかし、『枕草子』を書き上げた時、作者の心には女房としての役目を超えた別の思いも生まれていたのではないでしょうか。自らの価値観を信じて誇りを持って生き抜き、その死が人々の心を揺り動かした中宮定子という一人の女性の姿を記し留めること。その女性に仕えることを生涯の誇りとした自分の生き方を語ること。摂関政治体制下の社会にあって精一杯生きる道を探ってきた、立場の違う二人の女性の生の軌跡として、この作品は書き残されたのではないかと私は感じています。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきました。
An Unofficial Guide for Japanese Characters 62
2011年 5月 29日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 61
The four kinds of character “status” (Part II)
In the previous column, I said that we can “for the most part” divide the status of characters into four broad categories by the language that they use, and we looked at the “highest of high,” and then “superiors” and “inferiors.” Here I will provide more explanation on “superiors” and “inferiors.”
“Superiors” and “inferiors” are mutually dependent. A “superior” exists precisely due to the existence of “inferiors,” and vice versa.
When famous scholars argue, whether at a pub or in their publications, it is not that their ideas are in conflict. They are saying:
“I am the ‘superior.’ You are the ‘inferior.’”
“What are you talking about? I am the ‘superior!’ You are the ‘inferior!’”
That is, in most cases, they are actually fighting over the title of “superior” character and trying to force the other to become the “inferior” character. A conference attended by two famous scholars may never end; after Professor A makes the closing remarks, Professor B will make further closing remarks. Not be outdone, Professor A makes some more closing remarks, followed by Professor B adding a few more closing remarks. They are both fighting for the title of “superior” character――“Only I have the authority to end this conference!” (Oh dear. I didn’t mean to write that down. But it felt good to get it off my chest.) Someone who is normally an “anego” character, but decides to go with a cute “imouto” character when confronted with a more seasoned, stronger “anego” character (see part 8 of this series), could be said to have a flexible bearing, or could even be called pragmatic.
Conversely, “inferiors” will sometimes argue over who has to sit at the head of the table, each trying to force the “superior” character on the other. The “superior” character is not always popular you see. If there is a problem, the “superior” must take responsibility, and even if there is no problem, people tend to say that “superior” characters are “arrogant” and “pompous” behind their back; the docile humble “inferior” character suffers less stress and tends to attract more popularity.
So, “superiors” and “inferiors” are in a mutually dependent relationship, but linguistically, the two are not so easily contrasted. This is because “superior” characters have a distinctive characteristic: they can “select their style.”
Just because they are “superior” does not mean they always speak brusquely. They can speak brusquely, but they can also speak politely.
For example, when given a polite request by an “inferior,” a “male superior” might grunt and say “Oo, wakatta” (yeah, ok [brusque]). A “female superior” might not want to use “Oo,”(1) so she might say “Un, wakatta” (yeah, ok [brusque]) instead. So gender is not an issue. However, that’s not all. Whether “male” or “female,” a “superior” could answer their “inferior” politely――“Hai, wakarimashita” (yes, I understand [neutral/polite]).
To be clear, the words spoken in the polite style by the “superior” are not the same as those said by the “inferior.” There are subtle differences. No matter how polite their style, a “superior” couldn’t respond by saying “Ha, wakarimashita” (Yes, sir/ma’am! [deferential/polite]). This is the language of an “inferior;” it is not polite “superior” language.
In contrast to the “superiors,” who can choose their style, an “inferior” character can only speak in a polite style, and cannot speak brusquely.
This is not to say that in the real world people in low positions always speak politely to those in high positions. The speaker’s character and social position are two different things. In the real world it is not uncommon to hear people of low positions speaking to those in high positions in a brusque style ――that is, they act sassy or casual―― but at these times, they are not speaking as “inferior” characters.
So, is the lower person speaking as a “superior” looking down on the higher person? Good heavens, no! Is the lower person speaking as a “mid-ranked” character? There’s no such thing.
We’re in no hurry ――let’s talk some more about this.
* * *
(1) The sounds “oo” (pronounced “oh”) and “un” in Japanese are used like “yeah” in English. “Oo” is apparently less ladylike than “un.”
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 62
2011年 5月 29日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)角色的“格”之4大类(中)
在上一回写道,姑且可以把话语角色的“格”分为4大类。并介绍了“特上(Tokujoo,最上等)”,接着又简单地叙述了“目上(Me-ue,上级、前辈、上司)”和“目下(Me-shita,下级、晚辈、部下)”,页面就满了。在本节将对“目上(Me-ue)”和“目下(Me-shita)”加以说明。
角色“目上(Me-ue)”和“目下(Me-shita)”唇齿相依。有“目下(Me-shita)”才有“目上(Me-ue)”的存在,同样,有“目上(Me-ue)”才有“目下(Me-shita)” 的存在。
无论是在酒场上还是在论文上,知名专家学者之间常会有争论发生。像这种事情,与其说他们是在观点上有对立,倒不如说是在争夺“目上(Me-ue)”角色,将对方推下“目下(Me-shita)”角色吧。就像是在说,“我是‘目上(Me-ue)’,你当‘目下(Me-shita)’!”“你在说什么!‘目上(Me-ue)’的人是我,你才是‘目下(Me-shita)’!”之类的话。举个具体的例子吧。比如在有两位知名专家出席的会议上,在会议接近尾声的时候,在A专家作了总括性的总结后,B专家会接着总括,但是不服输的A专家会接着再总括,然后B专家也不罢休还是会进一步地总括,就这样会议迟迟不能结束。这一现象正是他们是在争夺“目上(Me-ue)”角色,就像是在说“总结这场会议的人是我,而不是你”。(啊,说出去了。不过,心里舒坦多了。)比起这些专家,女孩们会临机应变,举止理智多了。在第8节举过这样的例子,虽然自己平常是“大姐”角色,但是当遇到比自己更厉害、难以对付的“大姐”角色的时候,自己便会变成可爱的“小妹”角色去抬高对方。
相反,在宴会上互相谦让上座的则是在争夺“目下(Me-shita)”角色,将对方硬推向“目上(Me-ue)”角色的行为。“目上(Me-ue)”并不总是有人气的。因为“目上(Me-ue)”角色一有事就得负责任,即使没什么也会被说成是“傲慢”“自大”等等。而老实乖巧的“目下(Me-shita)”角色就轻松多了。所以比起“目上(Me-ue)”,“目下(Me-shita)”角色的人气更旺。
虽说“目上(Me-ue)”和“目下(Me-shita)”的关系是互求的,但是在语言上,两者并非一一对应。因为,“目上”角色具有“可以选择语体”的一大特征。
虽然是“目上(Me-ue)”角色,但其语体不总是用普通体(简体)讲话。“目上(Me-ue)”角色既可以用普通体也可以用礼貌体(敬体)来说话。
比如,当“目下(Me-shita)”的人说道,“能否拜托您呢?”的时候,“男”的“目上(Me-ue)”角色可以用普通体回答道,“おお、わかった(Oo,wakatta,噢,知道了)”。如果是“女”的“目上(Me-ue)”角色的话,说“おお(Oo,噢)”“ああ(Aa,啊)”不太好,不过要是说成“うん、わかった(Un,wakatta,嗯,知道了)”的话,则男女皆可使用。但是不光如此,不管是男的还是女的,“目上(Me-ue)”角色还可以使用礼貌体回答“目下(Me-shita)”角色,说成“はい、わかりました(Hai,wakari-mashita,是的,知道了”。
为明确起见这里要申明一点,“目上(Me-ue)”角色的礼貌体语言与“目下(Me-shita)”角色的并不完全相同,有着微妙的区别。例如,不管有多礼貌,“目上(Me-ue)”角色绝不能说“はっ、わかりました(Ha,wakari-mashita,遵命!(知道了))”。因为,“はっ(Ha)”是“目下(Me-shita)”角色专用的语言,而不是“目上(Me-ue)”角色能使用的礼貌体语言。
由上所述,“目上(Me-ue)”角色可以自由选择语体,而“目下(Me-shita)”角色不可以使用普通体,只能使用礼貌体(敬体)说话。
但是,也不是说,现实社会当中的下级者总是用敬语跟上级说话。说话者的角色与社会性地位要另当别论。在现实世界当中,对上级不用敬语用、而用傲慢的普通体说话的下级并不罕见。但是,这个时候的下级不是作为“目下(Me-shita)”角色在讲话。
那么,这个时候的下级是在小瞧上级以“目上(Me-ue)”的角色在说话吗? 怎么会有那回事。那,难道是“中级”角色? 不不,没有那样的角色。
且听我下回慢慢讲下去吧。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
社会言語学者の雑記帳7-1 忘却とは
2011年 5月 28日 土曜日 筆者: 松田 謙次郎忘却とは
言語学を少しでもかじったことがあるみなさん、「音素」って覚えてますね(´∀`) たぶん「言語学概論」なら5月くらいには習う術語なので、現在進行形で入門の授業を取っている人は、習ったばかりかも知れません。ある言語における音の機能的な単位であり、最小対や相補分布といった方法で発見される、といったことが分かっていれば、あとは練習問題が解ければ無問題でしょう。
それではここで問題です。この音素の概念を最初に提唱した人は誰でしょう? ちょっと考えてしまいますね。ボードゥアン・ド・クルトネというポーランド人言語学者が正解です。ただし、phonemeという英語の術語を最初に使った人はダニエル・ジョーンズであり、また音素概念をめぐってはエドワード・サピア、ニコライ・トゥルベツコイ、レナード・ブルームフィールドらがさまざまな説を唱えており、日本でも論争がありました。
言語学者でもボードゥアン・ド・クルトネの名前が出る人はあまり多くないかも知れません。「音素」という概念そのものは言語学者なら誰しもが知っている、かなり基礎的にして重要な概念でありながら、その提唱者の影はかなり薄い。当コラムをお読みの方で上の問題にすぐに答えられた人は、おそらくどこかで入門以上の言語学(ないし音韻論)の授業を受けたことがあるか、かなりな言語学オタク(!)なのでしょう( ̄― ̄)ニヤリ
しかしなぜこのような重要な概念であるにもかかわらず、その提唱者はあまり知られていないのでしょう?(*゚Д゚)アレ? たしかにド・クルトネの業績一般があまり知られていないのも事実です。また、「言語学を理解するのに必ずしも言語学史を知る必要はない」という考えにも一理あります。が、教科書の執筆者がみなこうした考えを持っているから提唱者の名前が知られていないというわけでもないでしょう。提唱者の名前を出すだけの紙幅がない、というのも疑問です。たった一行足らずで済むことですから。
結局その理由は、アメリカの科学社会学者ロバート・マートンが提唱した「取り込みによる忘却 (Obliteration by Incorporation, OBI)」 によるものと考えられます。OBIとは、……(次回につづく)
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【筆者プロフィール】
松田謙次郎(まつだ・けんじろう)
神戸松蔭女子学院大学文学部英語英米文学科、大学院英語学専攻教授。Ph.D.
専攻は社会言語学・変異理論。「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」と称して、自然談話データによる日本語諸方言の言語変化・変異現象研究や、国会会議録をコーパスとして使った研究などを専門とする。
『日本のフィールド言語学――新たな学の創造にむけた富山からの提言』(共著、桂書房、2006)、『応用社会言語学を学ぶ人のために』(共著、世界思想社、2001)、『生きたことばをつかまえる――言語変異の観察と分析』(共訳、松柏社、2000)、『国会会議録を使った日本語研究』(編、ひつじ書房、2008)などの業績がある。
URL:http://sils.shoin.ac.jp/%7Ekenjiro/
【編集部から】
「社会言語学者の雑記帳」は、「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」者・松田謙次郎先生から キワキワな話をたくさん盛り込んで、身のまわりの言語現象やそれをめぐるあんなことやこんなことを展開していただいております。
地域語の経済と社会 第152回「台湾方言(閩南語)の書き方2種」Two ways of writing Taiwanese dialect
2011年 5月 28日 土曜日 筆者: 井上 史雄地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第152回「台湾方言(閩南語)の書き方2種」
Two ways of writing Taiwanese dialect
台湾の言語事情は複雑です。電車(台北捷運MRT)の車内アナウンスの4言語が象徴的です。①「国語」としての中国語(北京語)のほかに、②閩南(ミンナン、ビンナン)語(福建語・ホーロー語とも)、③客家(ハッカ)語、④英語が使われているのです。録音を聞いてください。善導寺(Shandao temple)駅です。
北京語は戦後国民党政権がもたらしました。閩南語が一番多く使われ、「台湾語」とも呼ばれます。客家語は中国南部から移住した人々のことばです。北京語が標準語・共通語だとすると、閩南語は、台湾の代表的方言と言えます。北京語と発音が違っていて、漢字で表わせないことばもあります。
そこで書き方に工夫をこらしているのですが、その一つがアルファベットの活用です。【写真1】のように、中華料理店のメニューや八百屋の値札には「A菜」と書いてあります。食べたらすなおな味でした。漢字で書けば“萵仔菜”で、台湾の方言では「エ・ア・ツァイ」のように発音するのですが、北京語で発音した「Aツァイ」のほうが日常生活でよく使われているそうです。
また屋台の看板に「Q」「QQ」などと書いてあります。日本語の「しこしこ」「きゅっきゅっ」(弾力のある食感)にあたる擬態語です。また台北駅付近には「K書中心」という施設があります。クーラー付きの自習室です。「K書」は勉強、がり勉という意味で、啃書(ken shu)または看書(kan shu)からきているそうです。
次に、台湾語を表すのに、注音字母を使うこともあります。カタカナに見かけが似た文字で、子音と母音と声調を示します。【写真2】のメニュー末尾の注音字母は「バブ」と読んで、アイスクリームを売るときのラッパの音を表したものだそうです。台湾風アイスクリームの意味です。これはまだ食べていません。
このように、民衆の話しことば、台湾語(方言)は文字に記され、街角でも見られるようになりました。近年は台湾独立運動の波に乗って、台湾語をローマ字で表わす動きもあります。これからの変化が楽しみです。
なお台湾の方言については第89回「海外の方言事情(台湾語の看板)」でも取り上げられています。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

井上史雄(いのうえ・ふみお)
明海大学外国語学部教授。博士(文学)。専門は、社会言語学・方言学。研究テーマは、現代の「新方言」、方言イメージ、言語の市場価値など。
履歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/inouef/
英語論文 http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/affil/person/inoue_fumio/
「新方言」の唱導とその一連の研究に対して、第13回金田一京助博士記念賞を受賞。著書に『日本語ウォッチング』(岩波新書)、『変わる方言 動く標準語』(ちくま新書)、『日本語の値段』(大修館)、『言語楽さんぽ』『計量的方言区画』『社会方言学論考―新方言の基盤』(以上、明治書院)、『辞典〈新しい日本語〉』(共著、東洋書林)などがある。
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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
漢字の現在:富士八湖での当て字
2011年 5月 27日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第102回 富士八湖での当て字
観光地では、しばしば昭和を感じる語に行き着く。景勝地の広い眺望を表現する「パノラマ」も、個人差はあろうが私にとってはその一つで、子供のころ、洋風でありながらも、どこか日常から離れきれておらず、すでに古びた語感を帯びていた。そこにいっそう磨きがかかってきた。「東洋一の…」なども、程よい誇りと謙虚さを感じさせたものだ。
身延線の金手駅は、「かなで」ではなく「かねんて」だった。知らなければ当てずっぽうでも無理そうだ。「蛾ヶ岳」は、「ががたけ」と読んでしまう者があったが、「ひるがたけ」という振り仮名が看板やパンフレットに付されることがある。なぜ「ガ」の字を「ひる」と読ませるのだろうか。ちょっとだけ調べると、信玄公が登場したり、中国の「峨(蛾・娥)眉山」が出てきたり、「昼」という表記や蛭(ヒル)の方言など、やはり伝承や推測はすでにいろいろとなされているが、自然地名だけに、由来ははっきりとしないらしい。
登山者が結構いるそうで、この読みは関心を呼んでいた。近くには「蛭(ヒル)」をそのまま用いた地名がある一方、山家(やまが)地区もかつて「山蛾」と記されたとのこと、関係を解き明かすには複雑そうだ。
調査を兼ねた旅行は、じっくりと腰を据えすぎたり、あまりしつこくはならないようにしたい。何かを探し回るようにはしたくないが、かといってせっかく訪ねたのに上辺だけしか見ないのもまたよくない。韓国には「水朴(スーバク)コッタルキ」(수박 겉 핥기、西瓜の皮舐め)という諺もある。両方というか中間というか、そういう姿勢が自然にとれるように心掛けてはいるが、うまくいっているのかどうかは、自分でも少し心許ない。
「薬袋」で「みない」と読ませる姓がある。これにも信玄公が登場する由緒話があり、さすが山梨だ。以前、研究室に取材にいらした方は「中込」さんだった。なんという読みが浮かぶだろうか。山梨の出身で「なかごみ」さんなのだが、東京では「なかごめ」と読まれてしょうがない、とのこと。なるほど、同県出身でプロ野球選手だった中込伸も「なかごみ」だ。甲府でも、この中込姓は歯科、医院の看板で目に飛び込んできた。
東京の人がつい「なかごめ」と読むのは、「申し込み」のような例もあるが、「馬込」「駒込」といった地名をよく見聞きする影響であろう。タクシーの運転士さんの一人は「土橋」で、「つちはし」もいるが自分は「どばし」。出身の上九一色では親戚でないが一帯の皆がそうだったとのこと。上九一色村は、ガリバー王国などで名を広め、合併で消えた村名だ。
標高800メートル以上という山も、富士山や南アルプスは見上げないといけない。山道の途中にも、小学校の分校が建っている。標識には、「鹿の飛び出し注意」とある、都内区部では見つけがたい文字列だ。「鹿」は昨年になって常用漢字表に追加された字だが、こうした地では、その前から振り仮名なしで使っていたのではなかろうか。
タクシー運転士は、客が「南アルプス市」なんて言うから、行き先が分からなくなったよ、と嘆く。「お客さんも「一回言ってみたかった」なんて言っていただけ」だそうだが、「旧名で言ってもらわないと分からない」。「「甲斐市」になって「敷島」という立派な地名も(行政地名としては)消えた」と語る。この辺りでは、タクシーを運転する人たちは、皆50代、60代のようで、平成の大合併などによる地名の変化の激しさに困惑している様子だった。
目当ての湖があった。そこは、町のHPには、「四尾連湖は、「志比礼湖」とも「神秘麗湖」とも書かれていました。「四尾連湖」といわれるようになったには、四尾連湖の神が「尾崎龍王」という龍神であり、四つの尾を連ねた竜が住んでいる湖ということで「四尾連湖」といわれるようになったといわれています。」(http://www.town.ichikawamisato.yamanashi.jp/50sightsee/50guide/shibireko.html)と由緒などが記されている。ベトナムならずとも、水と竜は関連づけられる。それにしても2つめの「神秘麗湖」という洒落た表記は、意図的な装飾のようだが、新たな語源解釈を生み出しそうだ。あるいは俗解による漢字選びだろうか。ともかく手塚治虫の『ザ・クレーター』に描かれた御殿場の湖水を思い出す。いつごろの当て字だろう、気になり出す。
「四尾連」というそれまで読めなかった地名が、読めた途端に「痺れのことか」と急に思い付き、さらに連鎖が始まってくる。確かに、「蹇」「志比礼」とも書かれ、湖水の冷たさに入れた足が痺れるところから、と座光寺南屏碑文にある、と地名の辞書は言う。江戸時代には富士五湖ならぬ富士八湖の一つに入れられていて、雨乞い、富士講などの信仰も盛んだったようだ。
湖は、実物が小さくてがっかりするのでは、とのことだったが、湖畔では手作りの味噌田楽(こんにゃく)で小腹を満たし、お決まりのスワンボートに乗り込む。あともう1か所、訪ねたいところがあるが、今日のうちに寄れるだろうか。
近くの鰍沢は、身延線の駅名にも見える。この「かじか」も、また気にかかっている。川魚で、中国には同種のものがいないのだろうか。この「鰍」という字は、日本ではいろいろな魚に当てられ、カジカも国訓の一つであり、かつては地域の別なくよく使われていた。中国では、「鰌」(どじょう)の異体字だった。小石のある川を好むカジカには、それらしく「鮖」という会意文字も、新潟の地名などに見られる。都区部で育った私にはピンと来ない。秋の季語で、秋においしいのかと思うが、カジカは実際に少なくとも上九一色村にはいたとのことで、年中獲れ、春にタマゴを産んだそうだ。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「娥」から「ヶ」へ」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
「百学連環」を読む:「百學連環」とはなにか?
2011年 5月 27日 金曜日 筆者: 山本 貴光第8回 「百學連環」とはなにか?
今回から、いよいよ「百学連環」の本文を見てゆきます。
実を言うと、本稿で底本としている「西周全集」第4巻には、「総論」に該当する文書が二つ掲載されています。両者を区別するために編者の大久保利謙氏に倣って「甲本」「乙本」と呼ぶことにしましょう。編者も指摘しているのですが、両者を比べると、乙本は甲本に修訂を加えたもののようで、内容はほとんど同じなのですが、細部で言葉遣いや表現が違っています。ここでは、基本的に甲本を基にしながら、必要に応じて乙本がどうなっているかを見てゆくことにしたいと思います。
また、「百学連環」は、もともと筆で記された文書ですが、全集に収録されたものは活字にしてあります。そこでは、いわゆる「正字体」が用いられています。この連載では、以後「百学連環」から引用する場合、できるだけ活字に合わせたいと思います。ただし、場合によってはフォントの関係などで「新字体」を使う場合もありますことを、ご了承ください(本来、正字体で印字されているところを新字体で引用している箇所は、念のため文字に色をつけておくことにします)。
では、「百学連環」の本文に入ってゆきます。表紙を繰ると、最初のページには、このようなタイトルが現れます。
百學連環 Encyclopedia
第一 總論 Introduction
「百學連環」にEncyclopediaという英語が併置されていることに注意しましょう。これからすぐに見るように、実は「百學連環」とは、Encyclopediaに対応する訳語として、西先生が編み出した語なのです。そのことがタイトルにも示されています。
また、「總論」がIntroductionに対応しています。introductionは現在でも「概論」「序説」といった訳語が当てられる語ですが、「總論」と言えば全体を俯瞰するという気分が少し前に出るでしょうか。
本文はこのように始まります。
英國の Encyclopedia なる語の源は、希臘のΕνκυκλιος παιδειαなる語より來りて、即其辭義は童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり。故に今之を譯して百學連環と額す。
(「百學連環」第1段落第1-2文)
冒頭から、Encyclopediaという英語とその語源を説き、その意味を述べています。単刀直入で話がはやいとはこのことですね。この文章、現代の日本語の感覚でもそのまま読めると思いますが、念のために当世風に書き直してみましょう。
英語の Encyclopedia という語は、古典ギリシア語のΕνκυκλιος παιδεια〔エンキュクリオス・パイデイア〕に由来しており、それは「子どもを輪の中に入れて教育する」という意味である。そこで、これを「百学連環」と訳して掲げることにしよう。
なんだかとても面白いことが書かれていますね。「子どもを輪の中に入れて」とは、どういうことなのか気になります。しかし、意味内容の検討に入る前に、まずは大きなことから見ておきましょう。西先生は、この第一文で、しょっぱなから早くも
Ενκυκλιος παιδεια=Encyclopedia=百學連環
というふうに、英語を媒介として、古典ギリシア語と現代(当時)日本語――しかも元来は中国の文字である漢語――が、言葉のうえでつながっていることを示しているのです。
少しイメージを広げて、2000年以上の時間の流れと、これらの言語が使われる地域の地図上での距離とを思い浮かべてみましょう。そこには愕然とするほどの大きな隔たりがありはしないでしょうか。翻訳という営みの驚くべきところは、そうした時間と空間、そして文化や社会の違い、一言で言うなら文脈の違いを超えて、言葉同士をつなげてみせてくれるところです。
しかも、西先生が置かれていた状況は、私たちの状況とはかなり違っています。私たちには、既に先人がこしらえた各言語と日本語の対応を記した辞書がありますが、西先生は、そうした既存のものに頼りきるわけにはいきませんでした(皆無だったわけではないにしろ)。例えばここでそうしているように、Encyclopediaという言葉一つとってみても、自分で訳語を考え出す必要があったのです。
ついでのことではありますが、こうした翻訳語を読むとき、ちょっとそのつもりになると、言葉遣いのトレーニングをすることができます。「もしこの言葉を自分が日本語に訳すとしたら、どうするだろうか」と考えてみるのです。もちろん現在の辞書を引けば、encyclopediaの項目には、「百科事典」や「専門辞典」といった訳語が出ています。しかし、誰かが工夫してくれた訳語を借りるのではなく、自分の知識の範囲でこれを訳すとしたらどうするか、と考えてみるわけです。
そうしてみると、「百學連環」という訳語の凄味のようなものが、じわじわと感じられてきます。西先生は、こともなげに「故に今之を譯して百學連環と額す」と述べていますが、ここには深い洞察と言語操作能力が総動員されています。ですから、その含意について、もう少し立ち止まって考えてみたいと思います。
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即=卽(U+537D)
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
同意表現2―『英語談話表現辞典』覚え書き(47)―
2011年 5月 26日 木曜日 筆者: 内田 聖二前回は of course や certainly を中心に同意表現をみてきましたが、今回も同じように相手のことばに強く同意する表現を考えてみます。certainly とほぼ同義で用いられる語に absolutely があります。本辞典から引用します。
1 〈相手の発言に同意して〉まったくその通りです:“It was an excellent film.” “Absolutely!” 「とてもいい映画だったね」「まったく」 “How lovely it is today!” “Absolutely.” 「何といい天気なんでしょう!」「本当にね」.
2 〈意見を求められて〉そうですとも, もちろんです:“That’s a good idea, isn’t it?” “(Oh yes,) absolutely!” 「それはいい考えじゃありませんか?」「そうですとも」 “Do you like this music?” “Absolutely not!” 「この曲好きですか?」「とんでもない, 全然好きではありません」.
さらに、下囲いに類似表現の情報が書かれています。
(1) 類似表現として certainly や((英形式)) quite (so) などがあるが absolutely の方が強意的:“He’s a nice fellow.” “Certainly not [Quite so].” 「彼はいいやつだね」「とんでもない[いかにも]」 “Have you forgotten our anniversary?” “Certainly not!” 「結婚記念日のこと, 忘れてた?」「そんなことあるわけないだろ」.
(2) definitely は absolutely とほぼ同様に用いられる:“Are you coming?” “Definitely!” 「来ます?」「ええ, 絶対に行きます」 “Is there any chance of a discount?” “Definitely not!” 「まけてもらえない?」「無理でございます」.
それぞれの例にもありますが、3語とも‘Absolutely/Certainly/Definitely not.’のように not を伴っても使われます。このようなことから、absolutely と certainly、definitely の3語は同じように使われるようにみえますが、それは相手の意見や主張などに対して積極的に同意する表現として単独で用いられるときに限られます。また、頻度的には certainly の頻度が高く、あるコンピュータコーパスで語そのものの出現頻度を検索しますと、他の2語に比べおよそ60倍という数値が出てきます。
単独用法以外では、absolutely は certainly と definitely と異なる使われ方をします。すなわち、certainly と definitely は次のように同じ構文をとりますが、それらの代わりに absolutely は使うことは普通できません。
(a) He’ll certainly/definitely come.
また、-ly を取り除いた形容詞の形でも certain と definite は同様の振る舞いをしますが、absolute は同じ構文では生起しません。
(b) It is certain/definite that he will win.
(c) She is certain/definite that he will win.
certain は確信度、definite は確定度を表し、程度の差がうかがえますが、absolute は、absolute temperature(絶対温度)のように使われることからもわかりますように、もともと絶対的な値を表すのが基本であることがこのような差となっていると思われます。
副詞 absolutely は前文を受けて、‘Absolutely [not].’のように単独で使われると、相手の意見、主張に賛意ないし反対を強く表す程度副詞として働きます。それは「完全」を表す perfect も副詞 perfectly では程度副詞として用いられるのと同様です。ちなみに、absolutely は‘absolutely certain/definite’のように、 certain/definite を修飾できますが、逆に certainly ないし definitely は absolute を修飾できません。
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【筆者プロフィール】
内田聖二(うちだ・せいじ)
奈良女子大学教授
専門は英語学、言語学(語用論)
主な業績:『英語基本動詞辞典』(1980年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基礎語彙の文法』(1993年)英宝社(衣笠忠司、赤野一郎と共編著)
『関連性理論-伝達と認知-』(初版1993年、第2版1999年)研究社(共訳)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(第2版1994年)小学館(小西友七・安井稔・國廣哲弥・堀内克明編、分担執筆)
Relevance Theory: Applications and Implications, 1998, John Benjamins.(Robyn Carstonと共編著)
『英語基本名詞辞典』(2001年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『ユースプログレッシブ英和辞典』(2004年)小学館(八木克正編集主幹、編集委員)
『新英語学概論』(2006年)英宝社(八木克正編、共著)
『思考と発話』(2007年)研究社(共訳)
『子どもとことばの出会い』(2008年)研究社(監訳)
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【編集部から】
語用論的な情報をふんだんに盛り込んだ、日本発の本格的な発信型会話・談話表現辞典、『英語談話表現辞典』について、編者の内田聖二先生にご紹介いただきます。
書籍購入者は、http://dce.dual-d.netにて本辞典の全データを収録したウェブ版辞典を無料でお使いいただけます。
深谷圭助先生の辞書引き学習体験会(6月19日)
2011年 5月 26日 木曜日 筆者: ogm以下のイベントは終了いたしました。イベントのもようはこちらをご覧ください。
⇒報告:深谷先生の辞書引き学習体験会(6月19日)
「辞書引き学習」基本のステップは五つ! 今すぐ始めたい方はこちらをご覧ください。
⇒「辞書引き学習」とは(監修:深谷圭助)
「やってみよう!」 「辞書引き学習」への取り組み―先生方・保護者の方へ―
ご家庭での取り組みの参考にと、深谷先生にインタビューをさせていただきました。以下をご覧ください。
⇒インタビュー「辞書引き学習」の深谷圭助先生《前編》
⇒インタビュー「辞書引き学習」の深谷圭助先生《後編》
最新のイベント情報は右にあります「おすすめ記事」からご覧ください。今後のイベント情報、また、これまでの報告など関連情報は以下からもご覧いただけます。
⇒「辞書引き学習」についての情報
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三省堂と三省堂書店は元はひとつの会社で、ともに本年4月8日に創業130周年を迎えました。
これを記念して、「辞書引き学習」の開発者として著名な深谷圭助先生(中部大学准教授)のイベントを行います。
親子で参加できる「辞書引き学習」体験会で、深谷先生がみずから指導して下さいます。

日 時: 2011年 6月 19日(日)
1回目 11:30~13:00(11:00 開場)全席完売しました
2回目 14:30~16:00(14:00 開場)全席完売しました場 所:
三省堂書店 神保町本店 8階特設会場(東京都千代田区神田神保町1-1)講 師:深谷圭助先生(中部大学准教授)
対 象:小学校1年生から3年生までの児童と保護者のペア(2名1組)
定 員:各回 20組 40名様(先着)
参 加 費:1組様 1,500円(教材費込)
*授業で使用した辞典はお持ち帰りいただけます。主 催:三省堂書店 神保町本店
参加方法:
イベント参加ご希望の先着20組 40名様(各回)に三省堂書店 神保町本店 6階レジカウンターにて参加チケットを販売しています(定員になり次第、受付を終了致します)。電話予約も承ります。お問い合わせ・電話予約:
三省堂書店 神保町本店 電話 03-3233-3312(代)*参加チケットは、親子2人1組のお値段です。
1枚のチケットでお子様2人はご参加出来ませんので、予めご了承ください。
(お子様2人ご参加の場合は、2組分の料金を頂戴しております)
一昨年に三省堂書店成城店主催で行われたイベントの模様を以下で公開しています。
⇒深谷圭助先生の「辞書引き学習体験会」のご紹介
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【編集部からのお知らせ】
■最新のイベント情報は右にあります「おすすめ記事」からご覧ください。今後のイベント情報、また、これまでの報告など関連情報は以下からもご覧いただけます。
⇒辞書引き学習についての情報
■「辞書引き学習」基本のステップは五つ! 今すぐ始めたい方はこちらをご覧ください。
⇒「辞書引き学習」とは(監修:深谷圭助)
「やってみよう!」 「辞書引き学習」への取り組み―先生方・保護者の方へ―
■このウェブサイトにて、深谷先生のインタビューを掲載しています。以下をご覧ください。
⇒インタビュー「辞書引き学習」の深谷圭助先生《前編》
⇒インタビュー「辞書引き学習」の深谷圭助先生《後編》
■編集部で立命館小へうかがいました。以下に訪問記を掲載しています。
⇒「辞書引き学習」の立命館小訪問記1
⇒「辞書引き学習」の立命館小訪問記2
★深谷先生から推薦をいただいております
例解小学国語辞典 第五版
編者:田近洵一
B6判 1,248ページ 1,995(本体1,900)円 ISBN 978-4-385-13827-5
[ワイド版] A5判 2,205(本体2,100)円 ISBN 978-4-385-13828-2
例解小学漢字辞典 第四版
監修者:林 四郎・大村はま 編者:月本雅幸・濱口富士雄
B6判 1,184ページ 1,995(本体1,900)円 ISBN 978-4-385-13958-6
[ワイド版] A5判 2,205(本体2,100)円 ISBN 978-4-385-13959-3
近刊案内(2011年6月)
2011年 5月 25日 水曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部三省堂 三省堂 英語イディオム・句動詞大辞典
安藤貞雄 編
A5判 上製クロス装 1,856ページ ¥14,175
ISBN 978-4-385-10427-0
2011年6月30日 販売会社搬入予定
三省堂創立130周年企画。
シェイクスピア以降、現代英語に至るまでの英語イディオム・句動詞・諺などを集大成。
総項目約8万5千、用例約8万は内外で最大級。
用例作成に各種コーパス活用。
文学作品からの出展、歴史文化的起源、外国由来のなぞり、原義、用法上の注意など解説も満載。
日本考古学事典 小型版
編集代表:田中 琢・佐原 真
B6変型判 992ページ ¥5,040
ISBN 978-4-385-15836-5
2011年6月7日 販売会社搬入予定
定評ある『日本考古学事典』の小型版。
旧石器時代から歴史時代まで、歴史・民族・地理・生物・建築など関連分野にも配慮して約1,600項目収録。
類書では採用されていない「飾る」「切る」「食べる」など、人間活動の復原にかかわる動詞項目も採用。
約370点のイラスト・写真や図表がつき、充実した索引も完備。
漢字の現在:「娥」から「ヶ」へ
2011年 5月 24日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第101回 「娥」から「ヶ」へ
満員の市バスに揺られながら昇仙峡に着く。水晶、翡翠に信玄餅、祖父母が生前、たまに土産として買っていたのも、きっとこの辺りだったのだろう。明らかに以前、くぐった覚えのある土産物店に挟まれた入り口を抜け、少し進むと、仙娥滝(せんがたき)が美しく激しく落ちていた。
「仙娥」とは、中国で月に昇ったとされる女性、嫦娥(こうが 第29回)を指す。もしかしたら、ここは元より「センが滝」という語構成をもつ地だったものかもしれないと想像してみたりもする。こうしたものは、概して漢字表記に惑わされてはならない。「木賊(とくさ)峠」も、山賊が隠れているように旅行者には見えてきてしまうことがあったのだが、「長潭橋」(ながとろばし)、「昇仙峡」など、古人の漢学の知識が現れているようにも見える。前者は、現地では「長潭(とろ ルビ)橋」とも書かれているが、「長とろ橋」となったものもあった。漢字は違えど、埼玉の「長瀞」と、語源は同じなのであろう。
これらは、江戸時代に、ここの山道を開拓した農民の長田(おさだ)円右衛門が神主や学者に依頼して付けてもらったという名前なのであろうか、あるいはそこに遊んだ漢学者が命名したものであろうか。その「仙娥滝」は、当地の看板やパンフレットなどでは、
仙が滝
仙が滝
仙ケ滝
仙ヶ滝
と、真ん中の1字が、ひらがなやカタカナ(実際には漢字「个」(箇:個)に由来)に置き換えられて、しばしば書かれていた。
「娥」という漢字は、「うつくしい(女性)」の意で、「みめよい」と読む。美女のいわゆる代名詞である「蛾眉」も「娥眉」と書かれることがあった。浄瑠璃の外題では「かおよ」とも読ませる。韓国からの留学生の名には、今でもしばしば見かける。
JISの第2水準に入っている字なのだが、あまり見慣れない上に、一発で変換されないソフトがあるために、このように使用が避けられているのであろうか。そのために仮名表記化し、次第に「霧ヶ峰」「八ヶ岳」「焼け野が原」などの「が」と同じ助詞だ、というように認識されていったものであろうか。
パンフレットでは、「甌穴」の「區」の部分が「区」と略字、いわゆる拡張新字体となってゴシック体で印刷されている。さすがは地元だ。甲州では、「州」が書きにくい割に頻用されるため、筆記経済が働き、「卅」と楷書で書くこともしばしばあるのは、九州や信州などと軌を一にする。古来の筆法が残っていると見ることができる。
景勝地では、岩手にある猊鼻渓(げいびけい 厳美渓とは別)も、漢籍の素養が背景にありそうだ。同じく達谷窟(たっこくのいわや)は、その地の姓では「たがや」と読むが、いずれの読みが古いのだろう。
観光地の名勝には、由来にこうした雰囲気を持ちながら、実は当て字であるものが散見される。香川県は小豆(しょうど)島にある渓谷の寒霞渓(かんかけい)も訪れたことがあるが、鉤掛山や神懸山が元であり、明治時代の初期に儒学者の藤沢南岳が当てた漢字が定着したものだそうだ。神奈川の金沢八景の「八景」も、もっともらしいが、関東で崩壊地形を表す方言「はけ」に基づくとの説が有力である。
昇仙峡に戻ると、「トーフ岩」もあるとのこと、今回は途中で引き返したので見ることは叶わなかったが、いかにも豆腐らしい形をしているそうだ。なぜ、漢字でなかったのだろう。帰りの電車から、たまたま「豆富小僧」という看板が駅に見えた。「トーフコゾーだ」、漢字がまだ数文字しか読めない小学1年生が指差していた。この映画が「豆腐小僧」としなかったのは、原作と差を出すためだろうか(きっと「人間・失格」のケースとは事情が異なるのだろう)。
なお、昇仙峡辺りではロープウェイにも乗ったが、「ロープウウェイ」と「ウ」を一つ余分に発音する人がある(私もそうだ)。「プ+ウェ」という音の連続と、子供のころに耳で覚えた単語であることと関連するのだろう。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「山梨の地域文字「垈」」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
An Unofficial Guide for Japanese Characters 61
2011年 5月 22日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 60
The four kinds of character “status” (Part I)
Previously, we looked at some specific examples of differences between “class” and “status” (part 60), but I have a few more things to say about “status.” We can, for the most part, neatly divide the status of character into four broad categories by the language that they use. (Here we will look at the first three.) First, let’s look at status from the perspective of “interjections” and “sentence-ending particles,” which we discussed in previous articles, and moreover, from the point of view of “interjectory particles” and “language style.”
We’ll begin with the “highest of high.” As a rule, characters with an extremely high status, such as the majestic “God” character, speak in a brusque rather than polite style. An example of this principle is that, we would feel grateful if God majestically pronounced “sore de yoi” (that is good [brusque]) but a “God” who said “sore de ii desu”(1) (that is good [neutral/polite]) would not be “God” at all. However, even for “God,” a principle is just a principle; a “Goddess” character could say “Anata wa sore de ii no desu yo” (that is well for you [neutral/polite]). But would it surprise the reader if I said that “Goddess” characters are not as majestic and have a lower status than their “God” (male) counterparts? A little later we will look at the problem of character “gender,” so I don’t want to discuss it in detail here, but I would just like to point out that the use by “Goddess” characters of the ending particle “yo,” which male “Gods” don’t use, indicates they have a whiff of humanity about them.
Let’s lower our sites considerably to the realm of “humans.” Humans are distinct from “Gods” in that they can freely use interjectory particles, for example “na” and “ne”(2) in expressions like “sore de da na, watashi ga da na” (well then, I…. [emphatic]) and a wide range of sentence-ending particles —“itta yo” (s/he left!) and “iya da wa”(3) (that’s not good [feminine]). (Between “God” and “human” characters, there are “superhuman” characters, such as Golgo 13, who do not express emotions, and do not use many sentence-ending particles, interjections, or interjectory particles. This is why I previously said we can “for the most part” divide the status of characters into four broad categories by the language that they use.)
Among “humans,” those of high status are “superiors,” while those of low status are “inferiors.” However, these “superiors” are not included in the “highest of high.” “God” is not a “superior.”
When talking to your customer, you might behave like that person’s “inferior” in their presence. You bow your head and say: “I really appreciate your help with this.” However, when talking to your subordinates, you might behave like their “superior.” You might slap one on the shoulder and say: “Please get on it.” These sorts of “superior” and “inferior” interactions are covered under changes in “style” (see part 4 of this series). However, this is not always how “superiors” and “inferiors” work. If you fawn over and excessively flatter someone, rubbing your hands together and behaving like their “inferior,” even if circumstances change later, that person will never recognize you as a “superior” (parts 49 & 50). Moreover, if you behave as someone’s “superior,” even if circumstances change, you cannot descend to become that person’s “inferior” (parts 51 & 52). Of course, by “inferior” and “superior,” I refer to “inferior” and “superior” characters, and these are precisely what we’ve been talking about here.
* * *
(1) Here two inflections of the adjective yoi/ii (good) are used to illustrate the point. Many adjectives in Japanese do not require verbs to make them grammatically correct. Hence the sentence “sore de ii/yoi” contains no verb. However, it sounds a bit brusque. For increased politeness, one adds the neutral/polite verb “desu,” as in “sore de ii desu.” Hereafter, the tone or mood of Japanese phrases will be indicated in brackets next to the English translation when necessary (e.g. [brusque], [neutral/polite] etc.).
(2) “Na” and “ne” are Sentence-ending particles used to add emphasis to sentences or clauses, or to prompt the listener.
(3) The feminizing particle “wa” is explained in the footnotes of part 1 of this series.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 61
2011年 5月 22日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)角色的“格”之4大类(上)
在第60节通过具体例子展示了角色的“品”和“格”的区别。在本节将对“格”进一步作补充说明。我们姑且可以把话语角色的“格”分为4大类。(本节先介绍其中的3类。)这一节就从上节讨论的“感叹词”和“终助词(助词的一种,句尾语气词)”,以及“间投助词(助词的一种,插入语)”和“语言的语体”的观点来进行说明。
首先来看“特上(Toku-joo,最上等)”。“格”调非常高的角色在原则上不能使用礼貌体的说话方式,只能用普通体的说话方式。例如,“神”郑重地嘱咐我们“それでよい(So-re-de yoi,那样就好)”的话我们会很感激,但是听到“それでいいです(So-re-de ii-desu,那样是很好的)”的话,我们就会怀疑那到底是不是“神”的声音了。“神”归“神”,换成是“女神”的话,就可以说“あなたはそれでいいのですよ(Anata-wa so-re-de ii-no-desu-yo,你就那样是最好的)”。因此原则终究只不过是个“原则”。话虽如此,不过“女神”比起“神”(男神)来,没那么庄重,“格”调要低一些,因此就不怎么像“神”。我的这番话也许会让读者们感到惊讶吧。这点是以后要阐述的角色的“性”的问题,在此就不做详细的说明解释了。但是,在现阶段还是想指明一下,这个“女神”使用了“(男)神”绝对不会说的终助词“よ(yo)”,光这一点她的位置就与人间很接近了。
“格”调远低于“神”的是“人间”的领域。他们既可以在句节末使用“间投助词”的“な(na)”“ね(ne)”等,如“それでだな,私がだな(Sore-de-da-na,watashi-ga-da-na,然后呀,我呀)”,也可以自由地在句尾使用各种各样的“终助词”,如“行ったよ(Itta-yo,去了呀)”“イヤだわ(Iya-da-wa,讨厌了啦)”。这些都是“神”没有的“人间”独有的特性。(另外还可以观察到像骷髅13这样的位于“神”和“人间”之间的“超人”角色。这类角色虽然“格”调没有“神”那么高,但也不怎么使用终助词、感叹词等,还不表露感情。在上面写到把话语角色的“格”,“姑且”分为4大类的原因就在于此。)
在“人间”当中,“格”调高的是“目上(Me-ue,长辈、上司)”,其下是“目下(Me-shita,晚辈、部下)”。这里的“目上(Me-ue,长辈、上司)”里不包含“特上”。因此,“神”的角色不属于“目上(Me-ue,长辈、上司)”。
对方是客户,所以我要作为“目下(Me-shita)”的方式来应对他。于是便点头哈腰地说道“例の件、どうかよろしくお願いいたします(Rei-no-ken,dooka yoroshiku onegai-itashi-masu,这件事就都拜托您了,请多多关照)”。然而,这边这个人是我部下,所以我要以“目上(Me-ue)”的方式对待他。于是可以拍拍他的肩膀说道“例の件、君もよろしくな(Rei-no-ken,kimi-mo yoroshiku-na,这件事也拜托你了)”。像这类的“目上(Me-ue)”和“目下(Me-shita)”都可以容纳到“语体”转换当中(第4节)。不过,“目上(Me-ue)”和“目下(Me-shita)”并非总是如此可以自由转换。例如一旦向对方搓着双手拍着马屁以“目下(Me-shita)”的方式阿谀逢迎的话,即使状况颠倒了对方也不会轻易地认同你为“目上(Me-ue)”(第49节,第50节)。相反,一旦以“目上(Me-ue)”的方式来与对方接触了的话,即使状况改变之后也不能降低到“目下(Me-shita)”的身份(第51节,第52节)。在这里所说的“目上(Me-ue)”“目下(Me-shita)”都是角色当中的“目上(Me-ue)”“目下(Me-shita)”。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
地域語の経済と社会 第151回 東日本大震災の被害
2011年 5月 21日 土曜日 筆者: 田中 宣廣地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第151回「東日本大震災の被害」
3月11日の東日本大震災により,たいへん悲しいことながら,これまで紹介してきた,方言の有効活用例や関連企業などに大きな被害が出ました。今回は,その報告をします。
第131回の「とびゃっこメモ帳」を発行していた岩手県陸前高田市のタクミ印刷は,本社を失いました【写真1】。
津波の後の陸前高田市中心部の壊滅状況をテレビ等でご覧になった人も多いと思います。同社の本社はその中央部にありました。社員の皆さまは全員無事であったことが,インターネット情報やテレビ報道で伝えられました。
第101回「『市』を挙げての方言メッセージ~『おおきに』と『おでんせ』」の岩手県宮古市役所前庭の「おおきにとおでんせ」のポールは,無惨になぎ倒されました【写真2】。
方言メッセージの書かれた面は,ほんのわずか残りました【写真3】。
市役所本館は,津波が直撃して大きく損傷しました【写真4】。宮古市役所は,第121回「かだる」で紹介した「宮古゛さ かだれんせ」の山車を出したところでもあります。
第46回「『かきくけこ』―5文字で完結する観光の方言メッセージ―」の岩手県山田町は,津波で町の中心部が壊滅したあと,火災も発生し,まさに焼け野原となってしまいました。牡蠣祭りの開催場所である魚市場は,海に面しているため大破しました。歓迎の方言メッセージを掲げていたJR山田線「陸中山田」駅は焼失し,方言メッセージも灰燼に帰しました【写真5】【写真6】。


左:【写真5 陸中山田駅の惨状(筆者撮影;①印が第46回の【写真4】の看板のあった位置)】
(クリックで周辺の様子も拡大表示します)
右:【写真6 陸中山田駅駅舎(筆者撮影;②印が第46回の【写真5】の横断幕のあった位置)】
これまでの紹介にはないものですが,陸中山田駅近くの飲食店のネーミング袖看板「おでんせ」【写真7】も火災で焼失しました。残念ながら,この写真が貴重な記録となってしまいました。
ところで,震災からこの地方の復興が成し得たと言えるのはどの時点なのでしょうか? 私は,とびゃっこメモ帳の続きが発行されたり,失われた方言メッセージが戻ったときが一つの節目かと思います。
例えば,駅の歓迎メッセージなら,町を再建する位置が決まって,町が出来,それに合わせて駅や線路を新たに造り,それが完成してから掲げられるからです。
つまり,方言の有効活用例の復活のは,震災からの復興に大きな意味を持つのです。その実現を確信して再建の原動力としたいと思います。全国の皆さんもぜひ応援してください。
なお,第146回で紹介した復興の方言メッセージは,その後さらに増えています。それらは第156回で報告する予定です。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
田中宣廣(たなか・のぶひろ)
岩手県立大学 宮古短期大学部 准教授。博士(文学)。日本語の,アクセント構造の研究を中心に,地域の自然言語の実態を捉え,その構造や使用者の意識,また,形成過程について考察している。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東北大学大学院文学研究科博士課程修了。著書『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』(おうふう),『近代日本方言資料[郡誌編]』全8巻(共編著,港の人)など。2006年,『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』により,第34回金田一京助博士記念賞受賞。『Marquis Who’s Who in the World』(マークイズ世界著名人名鑑)掲載。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
漢字の現在:山梨の地域文字「垈」
2011年 5月 20日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第100回 山梨の地域文字「垈」
前日まで黄砂で前が見えないほどだった、という話が嘘のように甲府盆地は澄んで晴れていた。
海に面していない内陸県で、「ほうとう」が土産物屋や観光客相手の食堂に、看板や幟を並べている。ほうとうは、子供が物珍しいものながら食べてくれる。食偏の2字漢語「餺飥」(ハクタク)が変化したもので、ほうとうの包装などには異体字化しつつもかろうじて見られ、地域文字のようになっている。
ただ、看板やパッケージなどの大きく目に触れる字では、ひらがな表記ばかりであった。60歳くらいの地元の人は、子供のころ、白いご飯がなくて、ご飯があっても麦ばかり。うどんやほうとうをよく食べていたそうだ。カボチャが手に入れば、それにカボチャだけを入れて、小麦粉のほうとうを食べる。トウモロコシを粉にしたお焼きもそうだが、今はほとんど食べないとのこと。今のほうとうには肉などもたくさん入り、美味しくもなったらしい。山頂では、粗野な感じに味噌の塗られた団子も、子供たちはよく食べる。
近隣には、大門碑林公園がある。西安の碑林の複製とパンフレットで読み、時間の関係でタクシーで通り過ぎてしまった。印章資料館も少し気になる。六郷の印章は、100年の歴史を誇り、山梨県における生産量の70%、全国生産の50%を占める、とパンフレットにある。シャチハタは数字に含まれているのかどうか、など気にはなるが、そうすると、ハンコの文字には、ある種の地域文字性が存する可能性が出てくる。将棋の駒の天童も同様だ。さらに、文房四宝では、筆の広島、和紙の福井、墨の奈良、硯の宮城などは、間接的に字形の生産などに、微妙な関わりを考えることができそうだ。
サントリーのワイナリーが、「大垈」という地にあるらしい、とあるタクシー運転手。「おおぬた」と読む。2字目が山梨県特有の地域文字だ。さらに聞いてみると、初めは「ムを書いて、」と「牟田」と記憶が混ざっているようだったが、字をこちらから言うと、それと同じ土地で、「普通の地名」だという。県内の三珠町にも「垈」があり、歌舞伎文化資料館に向かう途中、上に少し登ればあったとのこと。車で引き返せば10分はかかるそうで残念だが、資料館の閉館時刻が早いために時間がなく仕方なく諦めた。

大垈公民館で。
別のタクシー運転手も、そのワイナリーは双葉にあると言うのだが、ケータイからウェブで「おおぬた山梨」とうまく変換されないまま打つことで、何とか確認できていたので、寄ってもらうことにした。今度は、「あの地名は普通は読めない」とのこと。「ヌタ」とは何かまではご存じでなく、方言としてもすでに使われていないそうだ。調査は毎回が新鮮だ。全く同じことは繰り返されない。何かが変わってくる。状況は常に動いている。
道路脇の電柱の緑の地に白い字で「大垈」と表示されているのをちらっと見かけた。ワインの試飲でほろ酔いの目となってから、別の電柱の例を車内から写真に納めた。その地名が大きく書いてある、という公民館まで寄ってもらい、「大垈」の写真をさらに何枚か納めた。
この「垈」は「岱」とも書く。都内では東村山市で、町名としては「恩多」に変えられたが、「大岱(おんた)小学校」として残っている。後者は古くからある中国の漢字で泰山の別称であり、「ぬた」の意はない。仮借のように転用したものだろうか。下部が土の「垈」という文字は、山梨県内では市川三郷町など、あちこちで小字となっていて、30か所くらいに点在している。「ぬた」の「た」を「代」で示そうとした形声風の造字なのだろうか。「沼田」と同じもので、「怒田」などは当て字、四国にも造字があるが、そこでは「汢」と分かりやすい会意文字となっている。日本では食品の「ぬた」に「饅」という漢字を当てるが、この語(第21回)とも同源なのであろう。なお、「垈」は、中国、韓国、ベトナムにも、それぞれ別の意味によって使用された書証が見つかり、一つの字体に幾重にも衝突が起こりかねない、やや珍しい字だ。
一瞬目に入ったバス停にも「大垈」があったかもしれないが、もう走り去って帰途についた。ワイン工場でもらったパンフレットにも、その所在地として、そこだけがルビ付きで印刷されていた。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「甲府で見た懐かしい略字」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
「百学連環」を読む:総論の構成 その5「真理」(後半)
2011年 5月 20日 金曜日 筆者: 山本 貴光第7回 総論の構成 その5――「真理」(後半)
「百学連環」の「総論」について、その目次を見ているところでした。目下は、大きな項目としては最後に置かれている「真理」を検討中。前回、その前半を眺めたところです。念のため、もう一度「真理」の下にある見出しを並べておきましょう。
Positive Knowledge, Negative Knowledge
利用 適用
コントの三段階説
才学識
規模 System 方法 Method
普通学 殊別学
心理上学 Intellectual Science 物理上学 Physical Science
前回「才学識」まで検討しましたので、今回は残る三つを見てゆきます。
まずは「規模 System」と「方法 Method」です。ここですぐに気になるのは、「規模」と「System」という言葉の組み合わせ。皆さんは、「規模」というとどんな意味内容を思い浮かべるでしょうか。「大規模」「小規模」といった使い方を連想すれば、「規模」とは、なにか物事の大きさ、サイズの話ですね。辞書を覗くと、「規模」には、他にも「手本・模範」「要」「眼目」「名誉」「面目」「甲斐」「ききめ」「成果」「報い」「代償」「根拠」「証拠」といった意味もあるようです。
他方で、Systemとはなにか。現在では、「システム」とカタカナで音写して済ませることも少なくない言葉ですね。コンピュータのオペレーティング・システムとか、システム手帖、システムキッチンだなんて言葉もあります。では、システムとはなんだと言えば、これはなかなか厄介な言葉です。私は、言葉の意味を考えるとき、その言葉が持っている多様な意味の母体となるような祖型のようなものを考えてみるようにしています。システムの場合は、複数の「要素」(ものでも言葉でもプログラムでも)が、お互いになんらかの関係をもっているその全体のこと、という感じです。
自然科学ではsystemを「系」と訳す場合があります。例えば、Solar systemを「太陽系」という具合。「システム」という語を上記のように考えるとき、私の念頭にあるのは「太陽系」の図です。哲学の領域では、「体系」と訳されたりもします。「理論を体系化」するという場合、これは「理論をシステムとして組み立てる」と言い換えられるでしょうか。なんらかの部品を組み合わせて、そうした部品全体を部分として含むような全体を組み立てる、そんなイメージです。
もっともいまの段階では、本文を見ていないという前提で目次から感じることをメモしているわけですから、西先生が、どういう意図でsystemに「規模」という訳語を充てているのかは分かりません。ただ、学術における真理がテーマとなっていること、それから、いま述べてきたような意味でシステムを考えてみると、「規模」という言葉もまた、組み上げられた真理の体系といった意味合いに通じるような気もします。これは本文に進んでから、ぜひ確認してみましょう。
この「規模 System」と対のように置かれているのは「方法 Method」ですが、こちらはわたしたちの言葉遣いからすんなり理解できそうです。少し気になることがあるとすれば、第4回で見た「学術の方略 Means」との関係でしょうか。「方法」と「方略」は、どことなく似たところがあります。
もっとも「方略 Means」は、そのときにも述べたように、「器械」や「設置物」など、どちらかというと「手段」ということに重点がありました。「方法 Method」のほうは、方略や手段と似た意味で使われることもありますが、そうした手段を用いながら、物事をどう進めるかという意味もあります。詳しくは、これも本文の検討をするときに述べますが、methodの語源であるギリシア語の「道にそう」という意味にそのことは現れてもいるように思います。
さて、残る二つの項目は、いずれも「~学」という言葉です。第3回で見た「単純の学 Pure Science」「適用の学 Applied Science」という区別も思い出されるところ。
では「普通学」と「殊別学」はどうでしょうか。おそらく、今日であれば「一般学」もしくは「普遍学」と「特殊学」とするところではないかと推測されます。また、学術全体を大きく分類する言葉のように見えます。例えば、皆さんは現在のいろいろな学術を、この二つのどちらかに分けてみなさいと言われたら、なにをどちらに分類するでしょうか。なんとなくではありますが、具体的な事象や物事を扱う学術は殊別学で、抽象化された理論に近い領域が普通学のような印象を持ちます。例えば、歴史は殊別学で、数学は普通学など。これは、今日ではあまりお目にかからない学術の分類なので、なにがどうなっているのか、おおいに気になります。
さあ、これで最後です。「心理上学 Intellectual Science」と「物理上学 Physical Science」ですね。これは、『心脳問題』の著者としては、ちょっとドキッとする分類です。「心理(心のことわり)」と「物理(もののことわり)」とは、言い換えれば「精神」と「物質」のことでしょう。心理や精神に関わる学術と、物理や物質に関わる学術を分けているわけです。
ここで分類すること、分けることの意味に思い至ります。どうして学術を心理と物理に分けるのかといえば、同時に一緒にして考えることに、なんらかの困難があるからでしょう。そうでなければ分けたりせずに、一つの学術として分類すればよさそうなものです。ちなみに、この二つはきっぱり分けて考えたほうがいいぞと明確に言い出したのは、かのルネ・デカルト(Rene Descartes, 1596-1650)でした。そもそも心(精神)と体(物質)はどう関係しているのか、という問題は、西欧において古代ギリシア以来の長い歴史を持つ難問中の難問です。その難問を、デカルトは、後に「心身二元論」と呼ばれる形で整理してみせたのです。これは、現代に至るまで「解決」されていない問題の一つで、脳科学者や哲学者たちが検討を続けているところ。実を言えば、先に名前が出たコントが提唱した学術の進化論とも大いに関わる問題です。
こうしたことを思うと、「百学連環」の「総論」が心身二元論の話で終わるのは、なんだかとても示唆的です。そういえば、「百学連環」が講義された時期は、ヨーロッパで心理学が進展を見せる時期でもありました。当時の心理学の教科書を見ると、いまなら脳科学や神経科学と呼ばれる領域もそこに含まれています。こうした知の最先端に触れた西先生は、この巨大で厄介な問題に、どう取り組んだのか。ますます興味は尽きません。
さて、お待たせしました。以上の目次閲覧から浮かんできたさまざまな問いを頭の片隅に置きながら、いよいよ本文に取りかかることにしましょう。
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
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![『新明解国語辞典 第七版[机上版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の机上版。判型は並判より大きいA5判で、さらに文字が大きく見やすい。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[机上版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kijo.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[小型版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の小型版。並判より一回り小さいA6変型判で、携帯にも便利。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[小型版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kogata.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[革装版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の革装版。丈夫で使うほどに手になじむ。判型は並版・特装版と同じB6判。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[革装版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kawaso.jpg)












































































































































2007年









