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漢字の現在:山梨の地域文字「垈」

2011年 5月 20日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第100回 山梨の地域文字「垈」

 前日まで黄砂で前が見えないほどだった、という話が嘘のように甲府盆地は澄んで晴れていた。

 海に面していない内陸県で、「ほうとう」が土産物屋や観光客相手の食堂に、看板や幟を並べている。ほうとうは、子供が物珍しいものながら食べてくれる。食偏の2字漢語「餺飥」(ハクタク)が変化したもので、ほうとうの包装などには異体字化しつつもかろうじて見られ、地域文字のようになっている。

 ただ、看板やパッケージなどの大きく目に触れる字では、ひらがな表記ばかりであった。60歳くらいの地元の人は、子供のころ、白いご飯がなくて、ご飯があっても麦ばかり。うどんやほうとうをよく食べていたそうだ。カボチャが手に入れば、それにカボチャだけを入れて、小麦粉のほうとうを食べる。トウモロコシを粉にしたお焼きもそうだが、今はほとんど食べないとのこと。今のほうとうには肉などもたくさん入り、美味しくもなったらしい。山頂では、粗野な感じに味噌の塗られた団子も、子供たちはよく食べる。

 近隣には、大門碑林公園がある。西安の碑林の複製とパンフレットで読み、時間の関係でタクシーで通り過ぎてしまった。印章資料館も少し気になる。六郷の印章は、100年の歴史を誇り、山梨県における生産量の70%、全国生産の50%を占める、とパンフレットにある。シャチハタは数字に含まれているのかどうか、など気にはなるが、そうすると、ハンコの文字には、ある種の地域文字性が存する可能性が出てくる。将棋の駒の天童も同様だ。さらに、文房四宝では、筆の広島、和紙の福井、墨の奈良、硯の宮城などは、間接的に字形の生産などに、微妙な関わりを考えることができそうだ。

 サントリーのワイナリーが、「大垈」という地にあるらしい、とあるタクシー運転手。「おおぬた」と読む。2字目が山梨県特有の地域文字だ。さらに聞いてみると、初めは「ムを書いて、」と「牟田」と記憶が混ざっているようだったが、字をこちらから言うと、それと同じ土地で、「普通の地名」だという。県内の三珠町にも「垈」があり、歌舞伎文化資料館に向かう途中、上に少し登ればあったとのこと。車で引き返せば10分はかかるそうで残念だが、資料館の閉館時刻が早いために時間がなく仕方なく諦めた。


大垈公民館で。

 別のタクシー運転手も、そのワイナリーは双葉にあると言うのだが、ケータイからウェブで「おおぬた山梨」とうまく変換されないまま打つことで、何とか確認できていたので、寄ってもらうことにした。今度は、「あの地名は普通は読めない」とのこと。「ヌタ」とは何かまではご存じでなく、方言としてもすでに使われていないそうだ。調査は毎回が新鮮だ。全く同じことは繰り返されない。何かが変わってくる。状況は常に動いている。

 道路脇の電柱の緑の地に白い字で「大垈」と表示されているのをちらっと見かけた。ワインの試飲でほろ酔いの目となってから、別の電柱の例を車内から写真に納めた。その地名が大きく書いてある、という公民館まで寄ってもらい、「大垈」の写真をさらに何枚か納めた。

 この「垈」は「岱」とも書く。都内では東村山市で、町名としては「恩多」に変えられたが、「大岱(おんた)小学校」として残っている。後者は古くからある中国の漢字で泰山の別称であり、「ぬた」の意はない。仮借のように転用したものだろうか。下部が土の「垈」という文字は、山梨県内では市川三郷町など、あちこちで小字となっていて、30か所くらいに点在している。「ぬた」の「た」を「代」で示そうとした形声風の造字なのだろうか。「沼田」と同じもので、「怒田」などは当て字、四国にも造字があるが、そこでは「汢」と分かりやすい会意文字となっている。日本では食品の「ぬた」に「饅」という漢字を当てるが、この語(第21回)とも同源なのであろう。なお、「垈」は、中国、韓国、ベトナムにも、それぞれ別の意味によって使用された書証が見つかり、一つの字体に幾重にも衝突が起こりかねない、やや珍しい字だ。

 一瞬目に入ったバス停にも「大垈」があったかもしれないが、もう走り去って帰途についた。ワイン工場でもらったパンフレットにも、その所在地として、そこだけがルビ付きで印刷されていた。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「甲府で見た懐かしい略字」でした。

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2011年 5月 20日