2011年 5月 のアーカイブ
談話研究室にようこそ 第3回 書きことばでアイロニーを伝える方法
2011年 5月 19日 木曜日 筆者: 山口 治彦第3回 書きことばでアイロニーを伝える方法
最初の2回(第1回・第2回)で述べたことは,モグラがその生息環境に適した形態をしているように,私たちがコミュニケーションで使用することば(テクスト)の形式も往々にしてその状況(コンテクスト)にふさわしい形式をとるということでした。
とすれば,同種のコミュニケーション行為であっても,それを行うコンテクストが異なるなら,表現方法や解釈プロセスに違いが出るかもしれません。今回と次回では,アイロニー(反語,皮肉)を伝えるという行為が,書きことばを用いるときと口頭で対面的に行うときでは,異なる部分があることを示したいと思います。
次の例は,1998年に私が米国に留学していたときに日本の勤務先に送ったファックスの冒頭部分です。当時はまだ,ファイルのやりとりをメールで行うことが一般的ではありませんでした。
(3) 先日は,講義題目の原稿等,たくさん,たくさんファックスで送っていただきまして,ありがとうございました。午前4時過ぎでした。まだ暗い静かな室内にファックスが無機的な受信音を響きわたらせ,それはそれは,すばらしい芸術空間を創造してくれたものです。次回の公演予定はいつ頃でしょうか? 家族ともども楽しみにお待ちしております。
(3)を読んで,どのような印象を持ったでしょうか。文章の表面は感謝と期待の意を伝えています。ですが,真意はこれと逆で,受けた迷惑をなじる気持ちが行間にふつふつとわいてくるかと思います。(実際,当時の(特に米国製の)ファックスの受信音は今のように静かなものではありませんでした。しかも都合の悪いことに,配線の関係でファックスを寝室に設置せねばならなかったのです。やれやれ。)
では,なぜこのような芸当が可能になったのでしょうか。(3)の文章を前にして,誰しもがアイロニーを感じたとすれば,表面上の意味合いを反転させる仕組みがこのテクストには備わっているはずです。それは何でしょう。
(3)のテクストで目に付くのは,「たくさん,たくさん」と「それはそれは」という,一見したところ不要な繰り返しです。ふつうはこんなに繰り返しません。わざわざやったからには意味があるだろうと考えるのが,コミュニケーションにおける私たちの常套です。
「たくさん」は繰り返されると,しばしば度を越した強調となります。そして,強調が過ぎると,発言内容はうそくさくなります。「たくさんファックスで送って」もらったのなら「ありがたい」ですが,「たくさん,たくさん送ってもらった」のならありがた迷惑かもしれません。すでにこの時点で,意味が反転する兆しが見られます。
次に来るのが「午前4時過ぎでした」という短い説明です。午前4時にファックスを送るのは,緊急の用でないかぎり,非常識です。ありがとうという感謝のことばは,午前4時にファックスを送るのは失礼だ,という常識的知識と明らかに対立します。
アイロニーが発動するのに必要なのはこの種の対立です。不安定なうそくさいことばと動かしがたい事実――この場合は常識的知識――との対立です。私たちはこのような場合,うそくさいことばの意味合いを通常とは違えてとらえることによって,首尾一貫した解釈を保持するわけです。
となると,迷惑を被った作者が白々しくもねちねちと述べる「声」が行間に聞こえてくるはずです。
ひとたびアイロニーの解釈が発動すると,あとはその方向で解釈が進められます。「すばらしい芸術空間」は安眠を妨げるうるさい室内を想起させ,「家族ともども」のくだりは,作者当人のみならず家族全員が迷惑したことを伝えます。「それはそれは」という繰り返しは,皮肉な口調を再確認させるでしょう。
要するに,(3)のテクストがアイロニーを引き起こしたのは,表面的な文意と常識的知識が対立し,しかも,一見不必要な繰り返しがその対立を際立たせているからです。
さて,(3)は書きことばによってアイロニーを伝えた例と言えますが,次にこれと対話の場におけるアイロニーとを比べてみましょう。どこか異なる点はあるでしょうか。あるとすれば,それは書きことばを用いることと対面的に口頭で伝えることとの違い――コンテクストの違い――によってもたらされたはずです。
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【筆者プロフィール】
神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。
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【編集部から】
雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。
人名用漢字の新字旧字:「𠮷」と「吉」
2011年 5月 19日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第86回 「𠮷」と「吉」
旧字の「吉」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。新字の「𠮷」(土のしたに口)は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。「吉」と「𠮷」は、実は単なる字体の差に過ぎないのですが、ここではあえて、「吉」を旧字、「𠮷」を新字と呼ぶことにしましょう。
昭和21年11月16日に告示された当用漢字表には、旧字の「吉」が収録されていました。この告示は、内閣総理大臣の名において官報に掲載されたのですが、官報に印刷された内閣総理大臣の名は「𠮷田茂」でした。当用漢字表には旧字の「吉」を収録しておきながら、内閣総理大臣自身は新字の「𠮷」を使っていたのです。ただし、告示された当用漢字表のまえがきには「字体と音訓との整理については、調査中である」と書かれていました。当用漢字表の字体は、まだ変更される可能性があったのです。
字体の整理をおこなうべく、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。この整理案では、新字の「𠮷」ではなく、旧字の「吉」を活字字体として使うべきだ、と報告されていました。また、昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「吉」が収録されていたので、「吉」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。新字の「𠮷」は、子供の名づけに使えなくなりました。
昭和23年6月1日、国語審議会は当用漢字字体表を答申しました。活字字体整理案を受けて、当用漢字字体表にも、旧字の「吉」が収録されていました。昭和24年4月28日、当用漢字字体表が内閣告示されるにあたり、内閣総理大臣は一つの決断をしました。官報に掲載する名を「吉田茂」と改めたのです。前日の4月27日までは、新字の「𠮷」で「𠮷田茂」としていたところ、この日以降の官報は、全て旧字の「吉」で「吉田茂」を印刷することにしたのです。
半世紀の後、平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、常用漢字や人名用漢字の異体字であっても、「常用平易」な漢字であれば人名用漢字として追加する、という方針を打ち出しました。この方針にしたがって人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、平成12年3月に文化庁が書籍385誌に対しておこなった漢字出現頻度数調査、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。でも新字の「𠮷」は、出現頻度回数調査の結果が114回だったものの、JIS X 0213に収録されていなかったため、人名用漢字の追加候補になりませんでした。
この結果、現在に至っても、旧字の「吉」は常用漢字なので出生届に書いてOKですが、新字の「𠮷」はダメなのです。
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【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)、『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。
漢字の現在:甲府で見た懐かしい略字
2011年 5月 17日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第99回 甲府で見た懐かしい略字
ゴールデンウィーク、1日くらいは家族で外泊したい。去年は、当て字辞典の編纂が始まっていて、たった半日しか時間が作れず、キャッチボールやノックなど子供と公園で遊ぶことしかできなかった。近頃は祝日にも講義が入ることが増え、1週間前にやっと予定が固まって予約に動き出す。こういう非常の時期とはいえ、近場で癒やしてくれる温泉は埋まっているようで、メールであっさりと断られる。
ぎりぎりに1つだけ、たまたま甲府市内で予約が取れた。中央線で行ける。勝沼や石和など、子供の頃に祖父母に連れられ、学生になると祖母の見舞いに、そして近年は家族で、足を伸ばすことがある。中央道を高速バスで突き抜けるのも、懐かしい音楽が聞こえてきそうでロマンチックだが、新宿まで出るのも面倒に感じられる。
高尾や相模湖の先、横揺れが気になる路線だが、それには線路だか車体だか何かに理由があると聞き、納得した覚えがある。着けば昇仙峡も近い。子供の頃に目と心に焼き付いた藤城清治の影絵の美術館もあるとのこと、子供も喜んでくれそうだ。あずさ号、かいじ号も予約が叶う。
「万葉集」(虫麻呂の歌)にも登場する「甲斐」という国名は、もちろん当て字であるが、「かい(ひ)」は何を指したものだろう。山の間を意味する「峡(かひ)」つまり「交(か)ひ」では「ひ」がいわゆる上代特殊仮名遣いの甲類であり、「斐」で表された乙類とは合わない、とされてしまった。「斐」は「文」が意符で、美しい彩りがあるさまを表す。「揖斐」(いび)「斐伊」(ひい)など、古くに地名などの表記に好まれた字だ。そこから武田氏の「甲府」が生まれた。地元のパンフレットには、「来甲し」と自然に使っている。さすがに歴史を感じさせる地だ。
こうして、何らかの和語の発音、字音のうち、頭のk音だけが「甲府」に残されている。「生き甲斐」「やり甲斐」などの「甲斐」は、元の意味は「代(か)ひ」であり、この「甲斐」を当てるのは、甲類・乙類の差が不明確となり、さらに二次的に行われた当て字だ。
のどかさを漂わせる身延線で、里帰りしていた家族と会う。近場として偶然に選び、予約も受け付けてくれたこの宿は、太宰治の小説『美少女』の舞台なのだそうだ。すでに混浴ではないが、ゆかりの温泉で、作品を執筆した部屋も残っているとか。手元の全集にないので、ググる(Googleで検索する)と、青空文庫に全文が翻字されている。便利な世の中になった。短編だが、面白い表記もいくつも目に入る。
太宰の書き表す自意識のようなものはなかなか好きになれないが、共感する部分もある。旅情は偶然の出逢いの喜びを増幅させるものなのだろう。俄に関心が出たので、さらに検索すると研究者の論文に逢着し、その原文を写真版で読めた。さらに進めると、別のページには関係する新聞記事があったとのこと、大学のページからたぐっていくと、これも地方版なのに実物の写真まで付いていて、そのまま読むことができる。
何とも楽になった。明日、図書館まで足を運んで、そこからさらに時間を費やして書架に見に行こう、と決意する。当日には、体力を消耗させ、面倒な手続きを済ませてやっと掌中に、という煩わしさが省ける。しかし、代わりに失ったものはないだろうか。移動時間や待ち時間にあれこれ考える間(ま)は、決して無駄ばかりではなかった。少なくとも机の上の画面上で連鎖的にわかることで、紙をめくる途中でたまたま目に入った副産物や、所蔵施設からの帰途に歩きながらぼんやりとでも考え、あれこれと想像する一時、その風景をあやなす文字などは、確かになくなっている。
こういう時代がかった旅館や温泉街は、若い層には人気が落ちてきているのか、心なしかすいていた。大震災の後、ここのタクシーも客足が遠のいたそうで、うら寂しい。ただ、騒然とした宿舎は落ち着かないので、かえってこういうところの方が身も心も静まる。
館内の掲示には、一昔前の手書きできちんとデザインされた文字が目を引いた。会議室は「会
室」とある。不特定の人々によく見て読んでもらうための、しかも後々まで残る物にも、しっかりと綺麗に略字をあえて書き込む、そういう時代の書証だ。
浴衣姿でその部屋の方へちょっと行ってみたら、そこに会議室はなく、おそらくは閉鎖されていた階段を上っていくと、そこに準備されていてかつては回転していた部屋なのだろう。中1の男児に振ってみたら、「会計室?」と読んだ。ガリ版刷りの中で育った、声符をこうしたカタカナに置き換えた略字は、近頃日常ではだいぶ見なくなった。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「ベトナムの♡マーク」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
An Unofficial Guide for Japanese Characters 60
2011年 5月 15日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 59
Character “class” and “status”
In talking about the restrictions on direct quotation, the ideas of “class” (part 57) and “status” (part 58 & 59) appeared in quick succession. Neither of these is easy to strictly define, but I believe that distinguishing the two is of great importance in thinking about Japanese character language, so here I will specifically explain the differences between the two.
“Status” is a comprehensive projection of experience, power and station. For every person of high rank, there is someone of higher rank above them. Enshrined in the highest of the high ranks is “God.” By “God” I don’t mean the gods of mythology that were prone to falling in love and throwing tantrums. Rather, I refer to the infinitely majestic God character (see part 58 of this series).
This “God” is not vulgar. On the other hand, “refined” isn’t really the right word either. The concept of “class” is for the most part developed by the surrounding people. Class does not deviate from the cultural restrictions of the relevant society; those people within that society who are docile, modest, and self-restrained, and whose actions appear free and graceful—people who do not seem constrained—are considered to be refined, and those who are not are considered vulgar.
If someone shouts in a loud voice when surprised, others’ opinions of him/her will plummet; when surprised one should say “oya” or “ara”(1) softly with a falling intonation (see part 26)—this is a matter of class. On the other hand, even using “oya” or “ara” to express surprise would cause “God” to lose the esteem of others; nothing should surprise God in the first place—this is a matter of status. The fact that laughing loudly is considered unseemly, while tittering demurely is not, is a matter of class, while the question of whether or not it would be appropriate for God to laugh at all is a matter of status.
In other words how one performs actions, such as how one expresses surprise or laughs, is a matter of class, while the actions themselves, the acts of being surprised and laughing, are a matter of status. Sentence-ending particles are related to both these matters. The sentence-ending particle “yo”(2) is the bane of dignified characters, such as God, Golgo 13(3), and the announcers who seriously read out the news. Should any of them add “yo” to the end of a sentence, it ruins their character —this is a matter of status. The fact that “yo” is not considered bad while “ze”(4) is considered to be in bad taste, is a matter of class.
“Children” are generally thought of as having low status, but they come in various classes, ranging from the “well-bred young lady” to the “little madam” (see parts 24 & 25 of this series).
People whose class and status are middling, that is, those who do not break with their culture’s restrictions, but who do not seem to be totally spontaneous and free, i.e. who are not very refined and do not have much status, are probably “good person” characters.
* * *
(1) Both “oya” and “ara” are interjections used to express mild surprise.
(2) Used at the end of sentences, “yo” adds emphasis, somewhat like an exclamation mark.
(3) Introduced in part 34 of this series.
(4) As a sentence-ending particle “ze” is used similarly to “yo,” but is considered more rough and rude.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 60
2011年 5月 15日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)角色的“品”和“格”
在提及到直接引用制约问题时,角色的“品”(第57节)和“格”(第58节,第59节)陆续登场。虽然很难对两者进行严格的定义,但是在思考日语中角色与语言的关系时,这两者的区别极其重要。因此,在这里将尽可能具体地对两者之间的区别加以说明。
“格”是从经验,权力,地位等因素中综合形成的。“格上”角色之上还存在着“格上” 。在那个“格上”的“格上”的“格上”,再从那里高高在上的“格上”是“神”。此处所指的“神”不是那种为了鸡毛蒜皮的小事闹得沸沸扬扬的神话故事中的神仙,而是指无论何时何地都庄严肃穆的“神”角色。这一点前面(第58节)已有说明。
这样的“神”毫无疑问品格不粗俗,但是用品格优雅来定位也不太相称。因为“品”(品格)的概念是用来描述街头巷尾人间社会的各种角色。不违背所在社会的文化性制约,处事谨小慎微,并且行为优雅自如,不做作的是属于品位优雅,反之则是品位粗俗。
优雅的人在惊讶时应该用下降语调小声地说“おや(Oya,哦)”“あら(Ara,哎呦)”(第26节),大吼一声“哇”则落入了俗流。像这些是属于“品”的问题。而“神”既不可大喊“哇”也不可发出“おや(Oya,哦)”“あら(Ara,哎呦)”之类的惊呼声,因为惊讶这种行为不符合“神”的角色。像这类是属于“格”的问题。同样,不能“嘿嘿嘿”地笑,要“呵呵呵”地笑,这是关于“品”的问题。而威严耸立的“神”能不能笑则是“格”的问题。
也就是说,“品”涉及到惊讶或微笑等行为动作的做法,而“格”涉及到能否惊讶或微笑等行为本身。另外,日语句末的“终助词(语气助词)”与这两者皆有关系。“神”,或者像漫画中骷髅13那样稳重的角色,又或者像一板一眼地播读新闻稿的播音员,如果他们在句末接了“よ(Yo,语气助词的一种)”的话,就会瞬间毁了他们应有的角色,可谓是致命伤。这些是“格”的问题。而议论一个人用“よ(Yo,语气助词的一种)”还马马虎虎,用“ぜ(Ze,语气助词的一种)”就显得太粗鲁轻浮,则是 “品”的问题。
一提到“孩子”首先想到的是级别低,这是在讨论“格”的问题。而想到“孩子”当中既有“大家闺秀”,也有“小贵夫人”(第24节,第25节)等等,多种类型,则是“品”的问题。
有些人虽没打破社会文化性制约,但他们的行为不是从容自如,“品”并不太高,“格”也不太高。像这样的“品”和“格”都置于中流的人或许就是所谓的“好人”角色吧。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
地域語の経済と社会 第150回 フィールドワークの好適地・十日町市(新潟県)
2011年 5月 14日 土曜日 筆者: 大橋 敦夫地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第150回「フィールドワークの好適地・十日町市(新潟県)」
「地域語の経済と社会」の調査対象となる、さまざまな実例が採集できる街・十日町市(新潟県)をご紹介します。(今回の範囲は、JR線・ほくほく線十日町駅から徒歩15分以内です。)
まずは十日町市博物館へ
新潟県下唯一の国宝・火焔型土器を目当てに十日町市博物館へ向かい、ミュージアムショップのコーナーをのぞいてみると――。
そこには、十日町市博物館友の会「方言を楽しむグループ」の皆さんが作成された方言手ぬぐいが3点【写真1~3】、さらに、同会・方言研究グループ発行の方言研究書『はちゃ 中魚・十日町の暮らしと方言①』も並べられています。
いずれも、郷土と郷土の言葉を愛する気持ちが伝わってくる力作です。
商店街を歩く
十日町駅に戻りがてら、地元の物産を販売する「キナーレ」(第85回で紹介)にちょっと寄り道。
駅を背にして、商店街を歩き始めます。有線放送からは十日町弁で、地元の話題が語られています。
随所に貼られた十日町市観光協会のポスターには、
「いいとこだぜの、とおかまち」[=いいところですよ]
「だんだん どうも」[=いつも どうも]
の標語があしらわれています。お店の看板も十日町弁で呼びかけています【写真4】。
歩き疲れたので、喫茶店をさがすと、「ほんやら洞」[=かまくら]というお店がありました。
さらなる方言グッズを求めて、和菓子の木村屋を訪ねると、そこは方言和菓子の宝庫。
「なじょだの」[=いかがですか]
「つぼんこ」[=雪玉]
「おこめし花」[=しょうじょうばかま]
「あちこたね」[=心配ない]
「だんだん どうも」[=いつも どうも]
などのネーミングで、和菓子がずらりと並んでいます。
十日町弁を愛する小林博さん
地元紙・十日町新聞には、次のような広告が載っています。
ようやっと貝類に肉がついてきた。白みの魚も、
いかの赤ん坊もうまくなってきたぜの。
食欲の秋、うめぇもんをちっとなじだの。一ヶでもいいやんだぜの。加賀町の 松乃寿司
広告の主は、小林博さん。実は最初に紹介した方言手ぬぐいや方言研究書は、小林さんが中心になって作成されたもの。十日町弁の広告も、50年以上続けているそうです。
街歩きをたっぷり楽しんで、仕上げに小林さんのお店で十日町弁に浸る。実りの多い一日となることでしょう。
帰路には、駅でもうひと稼ぎできます【写真5】。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
大橋敦夫(おおはし・あつお)
上田女子短期大学総合文化学科教授。上智大学国文学科、同大学院国文学博士課程単位取得退学。
専攻は国語史。近代日本語の歴史に興味を持ち、「外から見た日本語」の特質をテーマに、日本語教育に取り組む。共著に『新版文章構成法』(東海大学出版会)、監修したものに『3日でわかる古典文学』(ダイヤモンド社)、『今さら聞けない! 正しい日本語の使い方【総まとめ編】』(永岡書店)がある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
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漢字の現在:ベトナムの♡マーク
2011年 5月 13日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第98回 ベトナムの♡マーク
漢字を離れて、記号のたぐいにも話を及ばせてみる。
テストで正解のときには、どういうマークが付きますか?
チェック(チェク)と言って指で書いている(第37回参照)。いろいろあるようだが、やはりメインは中国式であり、「○」は車のタイヤのようで、使わないとのこと。日本や韓国とは違う。なお、ベトナムでは試験の前には卵は食べない風習があり、それは「0」に似ているから、と機内誌で読んだが、これは西洋の文字に対する一種の文字霊思想といえよう。
外国の文化を色々と取り入れて混ぜ合わせる文化は、日本の文化や沖縄のチャンプルー文化を思わせるが、文字はベトナムでは結局、極度の単一化を選んだ。しかし、そのローマ字による文中に、ある程度、マークは取り込んでいるそうだ。
「好き♡」というように、文末に添える「♡」を、ベトナムでも使うという。日中韓と同じだが、ここではなんと男子までよく使うそうだ。ただし、ケータイでは、日本のように何百も絵文字が入ってはおらず、そんなに多くは使わないとのこと。また、父母からのメールには絵文字の類は使われていないといい、長幼の序を重んじる儒教の影響か、ここでも位相差が生じているのだ。
31歳の男性研究者によると、自身は、ケータイメールでは「(^^)」、パソコンメールでは「:-)」のたぐいを使うとのことで、メディアによって日本系の顔文字と欧米系の顔文字という位相差が生じているらしい。角度の違いのみならず、笑いを表すポイントが目と口とで大きく異なっている。こうしたものは男子も使うが、もちろん個人差もあるのだろう。
日本人が好む、相手を傷つけずに、本心を察してもらうための曖昧で微妙な表情、たとえば「(^^;)」という焦り笑いは、さすがにベトナムの人々にはニュアンスが分からないそうで、通じなかった。困った時の冷や汗と説明すると、やっと笑いが起こった。落書きや看板には、ローマ字に対して表情や「*」状の絵文字のような付加や装飾化が散見され、生真面目なベトナム人の愛嬌が垣間見られた。
大学では、2日目に、何年か前に熱に浮かされたように一気に調べた「エビ」の「蝦・海老・蛯」などの漢字表記の話をしてみた。ベトナムでもエビは食されており、「入家随俗」(ニャップジャートゥイトゥック 郷に入れば郷に従え)、私もその時までに、大小30匹は頂いていたかもしれない。ベトナムでは、普段も食べるが、お祝いの時にも食べるとのこと。中国と同じで、つまりは美味しいから食べる、ということだそうだ。一方、日本では、古くは赤い色のためだけでなく、ヒゲのような触覚が生えていて、背中が曲がっている老人(おきな)だと見なし「海のおきな」と呼んで、長生きできますようにと願い、また長寿のお祝いの意を込めて食べることがあった。道理で、正月のお節によく入っている。こうした風習は、「海老」という表記の木簡での使用例から見て、奈良以前にさかのぼれそうだ。
エビの漢字表記の変遷すなわち時代差と、その表記の選ばれ方に見られる地域差、そして集団による認知度の差という位相差をまとめた話だが、多岐にわたってややこしくなるので、目でも分かってもらえるように、ふだんは使わなくなったパワーポイントも復活させてみた。翻訳と通訳に当たって下さったベトナム人の先生は、エビの歴史について、たった1つだけど、研究方法の参考になるのでは、と微意を読み取ってくださっていた。
「海老」と「蝦」とから国字「螧」が生じたのだが、その虫偏の隣の「耆」が何だかはっきりとは分からないような層が、「虫偏に耆」という国字を受容する中で、旁の「日」を脱落させて「老」に変わっていった、と推測を説明すると、うんうんと聡明そうな女子学生がうなづいてくれる。
日本では、東北に偏っていた「蛯」という国字の理解層がマスメディアのために拡大し、位相文字化したことについて、その立役者であるエビちゃんこと蛯原友里の貼り込んでおいた3枚の画像を見ては、やはりうんうんうなずき、きれいだと納得していた。その後、エビちゃん自身は結婚をされ、本名は変わってしまったのだろうが、この字の理解度アップへの影響は、きっといつまでかは残るであろう。ベトナムでも、エビちゃんばりのキリッとしたような円らな目をした人をときどき見かけた。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「外国との比較を通した漢字や記号の日本らしさ」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
「百学連環」を読む:総論の構成 その4「真理」(前半)
2011年 5月 13日 金曜日 筆者: 山本 貴光第6回 総論の構成 その4――「真理」(前半)
「百学連環」の「総論」の目次、最後の項目は「真理」です。これはまた大きなテーマですが、学術においては欠かせない要素の一つでもあります。とはいえ、そもそも真理とはなんだろうという話もあります。そのことも含めて、目次を眺めながら思い浮かぶ疑問をメモしてゆきましょう(皆さんも、思い浮かぶことがあれば、ぜひ)。「はやく本文に取りかかりたい」というはやる気持ちを抑えつつ……
さて、「真理」の項目には次のような七つの小見出しがあります。
Positive Knowledge, Negative Knowledge
利用 適用
コントの三段階説
才学識
規模 System 方法 Method
普通学 殊別学
心理上学 Intellectual Science 物理上学 Physical Science
前に見た「学術技芸」の項目もそうでしたが、どうやら西先生は、物事を二つ、対にして並べる傾向があるようです。一方に甲あり、他方に乙あり、という感じでしょうか。ここでも「コントの三段階説」と「才学識」以外はすべてが対になっています。これはどういうことなのか、なにか底意地があるかもしれませんので、気に留めておくことにしましょう。
さて、最初に現れるのは、Knowledge(知識)です。しかも、PositiveとNegativeという二種類が並んでいます。日本語の日常会話で「ポジティヴ」「ネガティヴ」という場合、人の性格が「前向き(積極的)」か「後ろ向きか(消極的)」か、といった意味で使われることが多いでしょうか。PositiveとNegativeには、他にもいろいろな意味がありますが、両者が対になって使われる場合としては、陽性/陰性といった用法もありますね。ここでの問題が「真理」であることを考えると、積極的な真理/消極的な真理といったことが論じられているのかもしれません。これは一つ疑問として念頭に置いておきましょう。
次は「利用」と「適用」です。これまた日常的に使う言葉ですが、これだけでは含意は分かりません。真理、あるいは前項の知識を利用/適用するという議論でしょうか。「利用」といえば、自分の目的のために用いること、「適用」といえば、なにかにあてはめてみること、といった印象がありますが、皆さんの場合はいかがですか。
さて、第三は「コントの三段階説」です。ここでコントというのは、オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798-1857)のこと。19世紀前半に活動したフランスの人です。彼はもともと数学の研究から出発して、やがて哲学研究へと進んでいきました。哲学というと、現在では専門化した学術領域の一つという印象があるかもしれませんが、コントの時代には、従来の広い意味を保っていたようです。
コントが書いたものは、今日ではあまり読まれていないようですが、社会学の創始者として耳にすることがあるかもしれません。その「三段階説」とは、学術の進展する段階を説いたものでした。やがてこの連載でも詳しく検討することになるはずですが、「百学連環」、つまり諸学術の連環を考えようという西先生にとって、コントの説は見逃すわけにいかないものだったのでしょう。コントが唱えた「実証主義哲学」は”Philosophie positive”といいますが、このpositiveは、先ほどのPositive Knowledgeと関係があるのかないのか、そんな連想も働きます。
その次に置かれた「才学識」と記した項目、実はよく見ると「才 学 識」とそれぞれの字の間に空白が置かれています。「才」と「学」と「識」の区別が論じられるのでしょうか。連想されるのは、「才識」と「学識」という言葉です。才識とは才知と識見、学識は学知と見識などと辞書に見えます。「才知」「識見」「学知」「見識」も、それぞれさらに分解できそうです。いずれにしても、「才」「学」「識」は、セットにされることの少なくない言葉ですが、真理をテーマとする場合、いったいどういう意味を担うことになるのでしょうか。どうやらこの辺りは、学術や真理に携わる人間側の話をしているようにも思えます。学術への向き不向きだなんて話だったら、ちょっとこわいような感じもしますね。
今回で目次の検討を終えようと思っていたのですが、長くなってしまったので、いったんここで区切ります。なんだか焦らしているみたいでスミマセン。
*
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
同意表現―『英語談話表現辞典』覚え書き(46)―
2011年 5月 12日 木曜日 筆者: 内田 聖二前回まで look や watch、mind を用いた注意喚起表現をみてきましたが、今回は相手のことばに同意する表現を考えてみます。
of course や certainly は相手からの要請を是認する用法が典型ですが、相手の質問や主張を受け、それに対して同意したことを伝える表現としてもよく用いられます。ただ、of course には「当然のこと」という含みがあるので、ときには相手がわかりきった、不必要な質問、主張をしたというニュアンスを伝えることがあることに注意しましょう。本辞典からの引用です。
4 〈相手の質問を受けて〉もちろんそうです, 当たり前だよ(◆「言うまでもないこと」という含みがある):“Do you love your husband?” “Of course, I do.” 「あなた, ご主人のこと愛してる?」「もちろんよ」 “Can I get transportation money?” “Of course.” 「交通費はいただけるのですね?」「もちろんです」 “You’ll remember to cancel the appointment?” “Of course.” 「予約を取り消すのを忘れてないでしょうね」「もちろんよ」
いずれも「当たり前である」という話し手の気持ちが伝わってきます。たとえば、第1例では「言わずもがな」ということから「どうしてそんな質問をするのか」と相手に異議を唱えるものと解される可能性があります。また、これらの例では certainly と言い換え可能ですが、その場合、of course にみられる含みはなく、単に了解したことを述べる言い方になります。たとえば、第3例の of course を certainly に換えると「忘れずにしておきます」ほどの意となります。
次は同じく主張や質問を受けて certainly が用いられている例ですが、相手の言ったことに対する積極的な賛意を表します。
5 〈主張や質問に対して〉その通り, もちろん(◆下降調で):“Dan suggested we have a surprise party for Mom and Dad’s 30th anniversary. I think it’s a good idea.” “Certainly.” 「ダンがお父さん, お母さんの30回目の結婚記念日にサプライズパーティをしては, と言っているんだけど, 私もよい考えだと思うの」「そうだね」 “Would you agree that it is still a difficult world for women to live in alone?” “Oh, certainly. I think that this is one of the major problems.” 「まだ女性が1人では生きにくい世界だと思いませんか」「本当にその通り. それはとても大きな問題だと思うわ」.
いずれも「まったく私も同感である」という気持ちが伝わってきます。
相手の発言をそのまま受けて同意する表現に Right. とか That’s right. があります。
1 〈相手の発話に同意して〉そうです, その通りです:“It’s really hot today.” “Right.” 「今日は本当に暑いね」「本当に」
1 〈同意や確認して〉そうですよ:“Is this Piccadilly Circus?” “That’s right, mate.” 「ここはピカデリーサーカスですか」「おう, そうだよ」.
2 まったくその通り, そう言ってもよい:《相手は本気で言ったわけではないのに》 “What’s wrong? You look pale as if you were dead.” “That’s right. I’m a dead man. I’ve lost my wallet which contains 100,000 yen.” 「どうしたの? まるで死人のように青ざめているよ」「その通りなんだ. 死んでるよ, 僕は. 10万円入った財布を落としてしまったのだから」.
これらは相手の意見に同調する言い方ですが、積極性は特にありません。また、とりわけ Right. は、上の例のように、あいづちに近い表現となることがあります。
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【筆者プロフィール】
内田聖二(うちだ・せいじ)
奈良女子大学教授
専門は英語学、言語学(語用論)
主な業績:『英語基本動詞辞典』(1980年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基礎語彙の文法』(1993年)英宝社(衣笠忠司、赤野一郎と共編著)
『関連性理論-伝達と認知-』(初版1993年、第2版1999年)研究社(共訳)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(第2版1994年)小学館(小西友七・安井稔・國廣哲弥・堀内克明編、分担執筆)
Relevance Theory: Applications and Implications, 1998, John Benjamins.(Robyn Carstonと共編著)
『英語基本名詞辞典』(2001年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『ユースプログレッシブ英和辞典』(2004年)小学館(八木克正編集主幹、編集委員)
『新英語学概論』(2006年)英宝社(八木克正編、共著)
『思考と発話』(2007年)研究社(共訳)
『子どもとことばの出会い』(2008年)研究社(監訳)
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【編集部から】
語用論的な情報をふんだんに盛り込んだ、日本発の本格的な発信型会話・談話表現辞典、『英語談話表現辞典』について、編者の内田聖二先生にご紹介いただきます。
書籍購入者は、http://dce.dual-d.netにて本辞典の全データを収録したウェブ版辞典を無料でお使いいただけます。
漢字の現在:外国との比較を通した漢字や記号の日本らしさ
2011年 5月 10日 火曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第97回 外国との比較を通した漢字や記号の日本らしさ
ハノイの教室で、「躾」という字を書いて、
これは、どういう意味だと思いますか?
と、尋ねてみた。
この字は、実はチュノムでも、形声文字として存在していた。日本では、室町期に登場する国字で、読みは「しつけ」である。重要な概念を「仕付」より1字に凝縮したかったのであろう。チュノムでは、旁そのままの身体の意であり、彼我で字体がたまたま一致したもの(衝突)にすぎない。
学生たちは言う:美しい人の意だと思う。これは、現代の日本人と似る感覚であった。日本では、男子中学生は肉体美と当て読みし、女子大生はエステと読んだことがあった。
中国では、「しつけ」に相当する語は「教育」などになるそうだ。韓国でも「礼節教育」などになるようだが、この字を人名として使用することが大法院(最高裁)により認められており、実際にその名に韓国式の漢字音で用いていた女子留学生に会ったことがある。大法院が使用を認める前ではあるが、日本語を知らない父親が、韓国の漢字辞書(書名に限らず普通名詞でも玉篇(オクピョン)とよぶ)で見つけて、その命名がなされたという。つまり本名だとのことで、字面からの字義やイメージの解釈が、日本以外の韓国やベトナムの地でも起こることがうかがえる。漢字が漢籍や古典の素養の世界から離れて、すっかり大衆化した状況と関連しているように思われる。
日本と異なり中国では、新たに会意による造字をする際に、旁として、「美」という字を用いることは稀だった。漢字圏内で造字についてあれこれ比較をしていると、より顕著な差も見つけられる。国字では「雪」も多用され、「鱈」という和製漢字は中国にも伝わった。雪の季節に美味しくなり、また身が雪のように白いところから「ゆき」と宮中で女房たちに呼ばれるようになり、「躾」と同じく室町時代になって、公家の日記などに出現する。「鱈」のほかにも「轌」(そり)や「樰」(そり たら)など、国字の旁にはいくつも登場する。
ベトナムでも、中国とは異なり、チュノムに「雪」は声符としてだが旁に多用されており、日本と共通している。なお、ベトナムではめったに雪は降らないが、先日、中国との国境付近で珍しく雪が降ったので、ニュースとなり、若者がバイクで押しかけたとのことだ。
日本人は、上記のように会意文字が好きだ。漢字には、想像を絶する「深い」意味があるはず、という思い入れが、俗解まで生み出し、人々の心の中に染みわたっているのである。
「人」という字は、何人の人からできているように見えますか?
中国の人たちと同様に一人(một モット)という。日本では、「二人の人が支え合っていると解されている」と話して図に描くと、笑いが起きた。日本では教育方法として編み出された「いいお話」が、校長先生やテレビの金八先生などで短縮された話となり、それらを通して多くの日本人が好み、さらに信じるところとなったものだ。中国でも、これを耳にすることがあるとのことだが、どちらが先なのであろう。
続けて、「優」を書くと、ベトナム漢字音で「ウー」と、日本漢字音の「ユウ」に対応する声があちこちから聞こえる。これは、「人が憂える」と日本ではよく説かれる、というと、「ア~」と学生たち。単音節でチュノムを多く形声の方法で作った人たちの末裔だが、会意も解する点は共通する。チュノムにも少数だが会意は作られた。中国でも、古くから旁に発音だけでなく意味も備わっているとする右文説や文字を分解する占いなどに、こうした字解が登場するが、日常ではあまり一般化してはいない。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「日本製漢字の感じ方」でした。
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An Unofficial Guide for Japanese Characters 59
2011年 5月 8日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 58
Eye-catching news
We learned on the 22nd of this month that on the night of the 21st, officer X, a senior male officer of Osaka Prefectural Police Precinct XXX (age undisclosed), got very drunk and exposed his lower extremities on a train, leading to his arrest on public indecency charges. (…) According to municipal subway authorities, when the 10-car train arrived at XXX Station on the XXX Line, passengers debarking from the 6th car told station staff that there was a man “exposing himself” (Dashitoru no ga oru(1)) on the train. The staff removed the officer, unclothed as he was, from the car… (Nikkan Sports, August 23 (Sun.), 2009, p. 29).
This kind of news catches my eye. This was not the first time. The following is a story from the news that I made note of 20 years ago.
In December of last year, in Moriyama Ward, Nagoya, the proprietress of an antiques shop was robbed during the day of about 23,000 yen by a man with a knife. As a result of an investigation by the Moriyama branch of the Aichi Prefectural Police, Mr. X (age undisclosed), who was living nearby at the time, was arrested on suspicion of robbery. The crime occurred directly before X was to go on his honeymoon to Australia. He was in a state of panic as he didn’t have enough money to pay his travel agent.
Allegedly, Mr. X broke into the antiques shop owned by Mr. Y (age undisclosed) at about 13:05 on December 19, and threatened Mrs. Y (age undisclosed) with a fruit knife. He made strange threats, saying: “Please give me some money. If I don’t get some money I’ll have to kill myself” (Okane o choodai. Boku, okane nai to jisatsu shina ikande(2)), before taking 23,000 yen in cash and fleeing. (Mainichi Shimbun (Kansai Edition) February 2, 1989 (Thu.) Morning Edition, p. 23)
Why does this kind of news catch my eye? Obviously the strangeness of the crimes is compelling, but what gets my attention is the way these stories use direct quotations of regional dialects.
This news was undoubtedly covered on television as well as in the newspapers.
What kind of facial expression did the TV news announcers wear while reading “Dashitoru no ga oru”? Or “Okane o choodai. Boku, okane nai to jisatsu shina ikande”?
No, I think the television announcers probably copped out by using indirect quotations, such as “there was a report from a passenger…” and “the man asked for money, threatening to commit suicide.” So, why did the newspapers use direct quotes? We cannot posit that the newspapers used direct quotes because they add realism to the coverage and convey the strangeness of the crimes. If that were the case, the television news would probably have used direct quotes in their scripts too for exactly the same reasons. The announcer would have no choice but to read them out. It makes me curious as to how the announcers would have reacted as they read these lines.
*
John Coltrane, or someone, once said something to the effect that: “All people pray to God in their own language. God understands them all.” I am sure this is true. But, our “God” must only speak in the common language.
God could say, in a majestic voice, “Iku ga yoi” (you may go), but if God used Osaka dialect, “Ittara ee” (you may go, in Osaka dialect) we would begin to doubt whether or not this really was “God” speaking to us. Or, if God hurriedly added the English word “Go!” to the command for the benefit of any expats returning from overseas, it really wouldn’t sound like “God” at all. Characters of high “status” can use only standard Japanese.
Unlike the writer of the newspaper article, whom we cannot see, we can easily imagine the personal representation, i.e. the character, of the announcer whose voice and body are presented to us. So, while the announcer character, who tells us things we don’t know in a calm, dispassionate voice, is hardly on a par with “God,” this character’s status is fairly high.
* * *
(1) This seems to be a dialectal version of the phrase Dashite iru hito ga iru.
(2) Again, shina ikande appears to be regional dialect of the expression shinakereba naranai(have to do).
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
角色大世界――日本 59
2011年 5月 8日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)我在意的新闻报道
22日获悉,于21号晚上烂醉如泥的大阪府警×××的男性警官(××)因在电车里裸露下体,以公然猥亵的嫌疑被当场逮捕。(中略)据市营地铁方面的消息说,电车(10节车厢编制)在到达×××线×××站后,从第六节车厢里下来一位乘客向车站工作人员说到,“出しとるのがおる(Dashi-toru-no-ga oru,有个人露着(下体)呢)”。工作人员接到通报后,便马上控制住了裸露着下体睡在电车里的该警官 ……
【《日刊スポーツ(Nikkan supootsu,日刊体育)》2009年8月23日(星期日)29版】
我一直都很在意这类新闻报道。下一个例子是我在20多年前记下来的一篇报道。
去年12月某日的白天,在名古屋市守山区的古美术商的家里,主妇被一名持刀男子抢走了约2万3000日元的现金。爱知县警搜查一课和守山署就该事件进行调查后,于2月1日以抢劫的嫌疑逮捕了住在案发现场附近的×××(××)。×××在去澳大利亚度蜜月之前,因没有足够的钱向旅行社支付而万分焦急之下,做出了此等傻事。
据调查,嫌犯×××于12月19日下午1点5分左右闯入×××古美术商×××的家中,将水果刀对准了正在客厅里看电视的主妇×××,然后以奇妙的语言威胁道:“お金をちょうだい。僕、お金ないと自殺しないかんで(O-kane-o choodai. Boku,o-kane nai-to zisatsu shina-ikande, 请给俺钱! 俺,没钱就自杀。)”,然后便抢走现金2万3000日元,逃跑了。
【《每日新闻》(关西版)1989年2月2日(星期四)早报23版】
我究竟是如何在意这类新闻呢? 犯罪内容的奇妙处当然很吸引人,不过引起了我的注意的主要还是“直接引用方言”的报道方式。
这些新闻不仅在报纸上被报道,电视上一定也报道了。当时的播音员在用大阪方言说“出しとるのがおる(Dashi-toru-no-ga oru)”,或用名古屋的方言说 “お金をちょうだい。僕、お金ないと自殺しないかんで(O-kane-o choodai. Boku,o-kane nai-to zisatsu shina-ikande)”时,究竟他们的表情是怎样的呢?
不,或许电视台采用间接引用的方式,报道成了“得到乘客的通报”,“以暗示自杀来索取金钱”之类的吧。若是那样的话,为什么报纸会直接引用方言呢?如果说报纸是因“使用直接引用能够更加生动有效地传播此类新闻的奇妙处”的理由去直接引用方言的话,电视台也会因同样的理由准备了直接引用的播音稿吧。这样的话,播音员只能照着播音稿里写的去读新闻。那么,播音员究竟是以怎样的口吻……,我很在意这样的情形。
记得,约翰•克特兰(John Coltrane)还是谁说过“全世界的人都用各自的语言向上帝祈祷。而上帝能理解所有的语言”。或许的确如此吧。不过,我们的“神”只能说普通话。
“神”可以从天上传来威严的声音“行くがよい (I-ku-ga yo-i,去吧)”,但是如果我们听到的是大阪方言“行ったらええ (Itta-ra ee,去吧)”的话,那是不是“神”的声音就非常可疑了。还有,在说完“行くがよい (I-ku-ga yo-i,去吧)”之后,再急忙用英语向归国子女们补上一句“go”的话,那完全就不像“神”了。可见,“格”调高的角色只能说日语普通话。
与报纸上的新闻报道的记者不同,播音员的声音和身体直接展示在我们面前,所以很容易让我们联想到人物形像,即角色吧。但播音员总是沉着冷静不露个人情感,只报道大家都不知道的事或正确的事。他们的“格” 虽比不上“神”,但也应该相当的高吧。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
地域語の経済と社会 第149回 いたわりの方言(三重県)
2011年 5月 7日 土曜日 筆者: 山下 暁美地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第149回「いたわりの方言(三重県)」
伊賀上野城を訪れたとき、ちょうど絵手紙展が開かれていました。地元の絵手紙の会が主催しているようでした。写真1と写真2はそのとき見かけた作品に書かれていたメッセージです。
「無理せんときゃ ボチボチしい~や」(無理しないでね。ゆっくりしてね。【写真1】)は、三重県やその周辺地域でも聞かれます。心温まることばです。「~や」は、文末詞といって日本語に古くからある表現とされています。よびかけや勧誘、といかけ、命令などに使われます。「~や」から「~やん」「~やい」などが分岐したと考えられています。
「ボチボチ」の典型は、「儲かりまっか(もうかりますか)」「ボチボチでんな(ゆっくり少しずつですね)」(大阪府)でしょう。
「ありがとう。すまんなあ。(すまないね)」【写真2】の「すまん」は、「済まん」と表記しますが、気持ちがこのままではすまない、申しわけないと感じているという意味です。
伊賀南部では、「えらい、すんまへんわー」、和歌山南部では、「すまんのら」、奈良吉野では「すまんだ」、滋賀湖西では「すまんこっとすなー」などがあり、ほかにも全国的にさまざまな形で用いられている表現の一つです。
「また来てだ~こ(また来てください)」【写真3】は、三重県伊賀地方の方言とされています。街中のお店のはり紙にも「どうぞ持って帰ってダーコ(持って帰ってください)」【写真4】と書かれています。「いただく」という意味では、和歌山県や三重県の一部でも使われているようです。「いただく」という依頼の意味から派生したのかもしれません。
伊賀上野では、「おいしいさかい、たくさんあがってだーこ(おいしいからたくさん召し上がってください)」、「ゆっくりしてだーこ(ゆっくりしてください)」などと言います。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

山下暁美(やました・あけみ)
明海大学外国語学部・大学院応用言語学研究科教授。博士(学術)。
専門は、日本語教育学・社会言語学。研究テーマは、移民百年を迎えた、ブラジル、アメリカ合衆国などにおける日本語の変化、外国人の日本定住化による共生時代の日本語教育政策。
著書に『書き込み式でよくわかる日本語教育文法講義ノート』(共著、アルク)、『海外の日本語の新しい言語秩序』(単著、三元社)、『スキルアップ文章表現』(共著、おうふう)、『スキルアップ日本語表現』(単著、おうふう)、『解説日本語教育史年表(Excel 年表データ付)』(単著、国書刊行会)、『ふしぎびっくり語源博物館4 歴史・芸能・遊びのことば』(共著、ほるぷ出版)などがある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
漢字の現在:日本製漢字の感じ方
2011年 5月 6日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第96回 日本製漢字の感じ方
ハノイの教室では日本で国字と呼ばれる日本製漢字についても話した。「粁」(キロメートル)の類として、「瓱」(ミリグラム)、「竡」(ヘクトリットル)と体系的に、次々に出てくる国字に、声を立てて笑う。明治に気象台によって作られ、ベトナム以外の漢字圏を席巻した字だった。
国字には、「峠」「裃」のように、中国では造字に用いられることが稀だった要素が好まれたことを説明する。中国と違って、日本では「華」より「花」が意符に用いられたと言うと、うんうんと聞いてくれる。ベトナムでは、中国と違って、2字ともにhoaと声調が等しい。「樺」も「椛」となり、「しつけ」には「
」という国字も生み出されたと話す。「花」と「華」では、どちらが好きかと尋ねてみると、「花」のほうが好きとのことで、ここは日本に似ているようだ。もしかしたら北に接する中華に対する何らかの思いがあるのだろうか(中華料理は食されているが)。
私の名字の「笹」も国字、パンダが食べるアレで、どうやら「竹葉」の2字を合わせて、「葉」の中から「世」を抜き出して作ったものらしいと話してみた。すると、「竹葉」のほうが良かった、と何人もが残念そうにいう。その方が覚えやすかったとのこと。少なくとも現代のベトナムの人々にとって漢字という文字は、頑張って記憶する対象と、まずは意識されているようだ。
日本製漢字は、7世紀頃から作られはじめ、近代までに少なくとも数千種類は作りだされ、使われてきた。チュノムは、それよりも後から作られはじめたが、その数は、日本と違って仮名が派生しなかっただけに、やはり数千種類に達し、個々人のものや異体字まできちんと採集すれば、1万種を遥かに超えるはずだ。
その造字法としては、六書の何を選ぶか、それ以外にどのような工夫をしたかなど、差も見受けられる。そういう話をする中で、「日本人は外国のものの改良が何でも得意」として「HONDA」を例に出したら、案の定、笑いが起き、よく分かるとのこと。ベトナムでは、日本のどこかの本田・本多さんとしてではなく、ホンダといえばバイク全般の異称となっているほどなのだ。
国字の中には、旁の部分によって訓を表すものがある。チュノムにも、似たものはあるが、日本では、それが熟字レベルでも見られ、さらに合字化が起こり、定着を見せたものまであるのだ。武士の正装である「かみしも」が、江戸時代の間に、
上下 > 𧘕𧘔 > 裃
と表記法を発展させたことが知られているのだが、ベトナムにはここまでの例はなさそうだ。このパターンは、実は今でも再現されている。慶應義塾大学は、ベトナムでもよく知られた大学のようだ。


と書くことがあるというと、意外そうにおかしがる。これは位相文字といえるのだが、近年、さらに狭い集団内ながら省略が進められて、

となってきた(だいぶ前から使っていたという証言も得ている)。このことも話すと、日本同様、大きめの笑いが起こった。ローマ字ばかりを使うベトナムでは、さすがにここまで体系を異にする文字を混合させた「文字」は、生じなかったようだ。
「腺」は、ベトナムでも使うかと聞いてみると、「ティエン」という語として使っているとのこと。これは和製の漢字(国字)で、元は日本からだと話すと、意外そうに微笑んでいる。江戸時代に、蘭学者の宇田川榛斎(父の玄随がドラマの「JIN―仁―」に登場した由)が自ら示した「泉」による発音ではなく、中国や韓国と同様に「線」という字の読み(及び声調)となっている。日本では「泉」も「線」も同音だが、他の国々では異なる発音となっている。これは、字音の類推の仕方の差のほかに、腺組織をどのように捉えたかにもよるのだろう。そこからみても、また他の漢越語の実勢を眺めても、おそらく中国語を経由して「腺」は移入されたものと考えられる。他国を介して間接的ではあっても、とにかく日越でのつながりが確かに感じられた。
日本でこの字は、個人文字から位相文字となり、200年かけてやっと昨年になって常用漢字表に採用されたものだ。中国と同様に「リンパ腺」などと使ってはいるものの、ベトナムでは語を残して漢字は消えている。なお、韓国でも国語醇化運動や医学用語を分かりやすくするための見直しによって、この字はもちろん、「ソン」という字音語も消されつつあり、固有語「セム」に言い換えられるようになってきた。ただし、この新しい表現は、泉の意であるところから、偶然かもしれないが、榛斎の発想自体は彼の地にも残ったと見ることができるのかもしれない。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「ベトナムから見た日本・中国・韓国の漢字」でした。
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「百学連環」を読む:総論の構成 その3「新致知学」
2011年 5月 6日 金曜日 筆者: 山本 貴光第5回 総論の構成 その3――「新致知学」
「百学連環」の「総論」、その目次を眺めているところでした。目次といえども、じっくり見てみると、いろいろなことを考えさせられます。いきなり本文にとりかかるのもよいけれど、ここでは先にこれから歩き回る土地の地図をざっと眺めておこうという目論見で、この目次を見ているのでした。
さて、今回は残る二つの項目「新致知学」「真理」のうち、前者を見ることにしましょう。
まず「新致知学」とは、この言葉自体、いまでは見慣れないものです。「新」とついていることから、なにか新しいものだということは推察されます。「新しい致知学」ということでしょうか。「致知学」は「学」の字から、私たちにもお馴染みの「~学」という学術領域の一種であることが窺えますね。では、いったいこれはどんな学術なのか。
「致知」という字を訓読みすれば、「知に致る」となるでしょうか。「知に致りつくための新しい学」とはこれいかに。なんだか期待が湧いてくる名称です。では、その下に置かれている小見出しはどうか。こうなっています。
Jhon Stuart Mill
帰納法 Induction 演繹法 Deduction
この二つだけです。前者は、19世紀イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の名前です。西周(1829-1897)は、ちょうどJ.S.ミル(お父さんがジェームズ・ミルという名前なので、紛れないようにこう記します)の20年後に生まれ、没していますので、同時代人と言ってもよいでしょう。
J.S.ミルも幅広い領域でものを考えた人でしたが、その主な著作を見ると、先ほどの「新致知学」の正体が見えてきそうです。そのOn Liberty(1859)が『自由之理』として日本に初めて訳出紹介(訳者は中村正道)されたのは、1872年のこと。ちょうど「百学連環」講義が行われた時期でもあります。そのJ.S.ミルの著作は大きく分けると、論理学、政治学、経済学を扱ったものです(その知的経歴を描いた『自伝』も忘れがたい書物でした)。
しかも、二つ目の小見出しには「帰納法」と「演繹法」という、いまでも私たちがお世話になっている言葉が見えています。これは、現在ではもっぱら数学や自然科学の分野で教えられる論理の方法です。
つまり、「新致知学」とは論理学のことなのでした。ですから、おそらくこの訳語の元となった語は、Logicだと思われます。しかし、なぜ西先生はこれを「新致知学」と訳したのか。ここで論理学の歴史が念頭に浮かぶ人は、あるいはピンとくるものがあるかもしれません。なぜ「新」なのか。そして、なぜそれは「知に致る学」なのか。西先生は、なぜInductionとDeductionを「帰納」「演繹」と訳したのか。というか、この二つの漢語は、そもそもどういう含意があるのか。
本文を見ていないので、疑問が疑問を呼びますが、このように読書を開始するにあたって、いくつかの疑問を思い浮かべるということもまた、読書を豊かにするための食前酒のようなものなのです。物語の冒頭で謎が提示される探偵小説を連想してもよいでしょう。「犯人は誰だろう?」「どうしてこうなったんだろう?」という疑問に惹かれて、ページを繰るのを止められず、気づいたら朝まで読んでいたということがあります(筆者は先日も、新訳が出たジョン・ディクスン・カーの『帽子収集狂事件』〔三角和代訳、創元推理文庫〕をそんなふうにして読んでしまいました)。
それはなにも探偵小説やミステリだけに限りません。こうした文書を読む場合にも、文書に肉薄するための大切な動機付けを与えてくれると思います。というわけで、次回は「真理」の項目を眺めてみることにしましょう。
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。






















![『新明解国語辞典 第七版[机上版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の机上版。判型は並判より大きいA5判で、さらに文字が大きく見やすい。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[机上版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kijo.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[小型版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の小型版。並判より一回り小さいA6変型判で、携帯にも便利。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[小型版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kogata.jpg)
![『新明解国語辞典 第七版[革装版]』7年ぶりに改訂『新明解国語辞典』の革装版。丈夫で使うほどに手になじむ。判型は並版・特装版と同じB6判。2色刷。紙面内容は並版と同一。 『新明解国語辞典 第七版[革装版]』](http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp-images/smk_kawaso.jpg)
















































































































































2007年









