「百学連環」を読む

第9回 ギリシア語の揺らぎ

筆者:
2011年6月3日

「百學連環」講義は、まさにそのタイトルに冠された言葉である「百學連環」の由来とその意味を説くことから始まりました。それは、同書の表記に従えば、Ενκυκλιος παιδειαという古典ギリシア語に由来するEncyclopediaという英語を、漢語に訳した言葉だったわけです。今回は、この言葉の意味について、もう少し詳しく検討しておくことにしましょう。なにしろ、講義の総タイトルでもありますから疎かにできません。

予め申しあげると、今回はギリシア文字が頻出します。この文字に馴染みのない方も、文字の姿形を眺めるつもりでお読みいただければ幸いです。かつて西先生たちが、初めてギリシア文字に接したとき、どのような思いが心中に去来したかを空想しつつ。

まず、改めて「百學連環」の語源となっている古典ギリシア語に注目してみましょう。それはこんな言葉でした。

Ενκυκλιος παιδεια

これを仮に「エンキュクリオス・パイデイア」と音読することにしましょう。

さて、語の冒頭にご注目ください。「Ενκυκλιος」となっています。これは英語風のローマ字に写せば「Enkuklios」となるところでしょうか。先ほど、カタカナとして「エンキュクリオス」と音写してみたことと合わせると、合点がいくかもしれません。

しかし、古典ギリシア語として見た場合、「おや?」と思う点があります。「Ενκυκλιος」という言葉は、いくつかの辞書で見てみると「Εγκυκλιος」と出ています。比較しやすいように二つを並べてみます。

Ενκυκλιος(「百學連環」甲本)
Εγκυκλιος(辞書の表記)

この二つの言葉をよく見比べてみましょう。すると、冒頭から二つ目の文字が違っていることが分かります。「百學連環」では「ν(ニュー)」ですが、辞書では「γ(ガンマ)」になっています。この「γ」という文字は、ローマ字表記では「g」に写される文字ですので、先ほどのようにこれをもしそのままローマ字に転写すると「Egkuklios」となって、それこそ変な気がするかもしれません。

実は、古典ギリシア語ではκの前のγは「ン」と読むという規則があります。ですから、実際には「Εγκυκλιος」と書いて、「エンキュクリオス」と読むわけです。「Ενκυκλιος」という書き方は、いわば「エンキュクリオス」という音を、そのまま素直に文字に写した表記と言えるでしょう。

この表記を、「百學連環」の二つのヴァージョン「甲本」と「乙本」で比べてみると、さらに面白いことが分かります。ここでは基本的に「甲本」を見ているのですが、その甲本に手を入れたと推測される「乙本」では、このエンキュクリオスという語の綴りが次のように変化しているのです。

Εγκυλοςπαιδεια

いかがでしょうか。どこに違いがあったでしょう。再び比較のために並べてみます。じっくり見比べてみましょう。

Ενκυκλιος παιδεια(甲本)
Εγκυλοςπαιδεια(乙本)

そう、「甲本」では「Εν」と始まっている語頭が、「乙本」では「Εγ」に改められています。さらに、語頭から五文字目も違う綴りです。「甲本」が「エンキュクリオス」だとすれば、「乙本」は「エンキュロス」となっています。

また、「甲本」では、「Ενκυκλιος」と「παιδεια」という二つの語が並べられていて、間にスペースが置かれています。でも、「乙本」では、この二つの語はつなげて書かれています。ついでながら、さらにややこしいことを申せば、上記は活字に起こされたものです。永見裕が「乙本」の筆写した文書を見ると、「Εγκυλος」で改行して次の行頭に「παιδεια」が続いています。

もし「乙本」(活字版)のように、二つの語を続けて書くのであれば、「Εγκυλοσπαιδεια」と綴りたくなるところでもあります。というのも、「乙本」の前半は「Εγκυλος」と綴られていますが、ここに見える「ς(シグマ)」という文字は、「σ(シグマ)」という文字が語末に置かれる場合の形です。後ろにすぐ「παιδεια」と別の文字が続くのであれば、「σ」と記したくなります。

さらに混乱に拍車をかける材料があります。実は「全集」第4巻に収められた西周自身の手による「百學連環覚書」という手帖(全集では手書きそのままに掲載してあります)を見ると、西先生はこう書いているのです。

Εγκυκλοςπαιδεια

これまた、「甲本」とも「乙本」とも微妙に違う形です。

Ενκυκλιος παιδεια(甲本)
Εγκυλοςπαιδεια(乙本)
Εγκυκλοςπαιδεια(覚書)

「覚書」の綴りは、語頭が「Εγ」と始まる点で「乙本」と同じです。しかし「κυ」の後ろに来る文字は、「甲本」とも「乙本」とも違います。その異同については、詳しく述べないでおきますので、ぜひじっくりと見比べてみてください。

頭がこんがらがってきました。なんだか重箱の隅をつつくような話でもあります。しかし、どの綴りが正しくて、どれが間違えているといった話をしたいわけではありません(それはそれとして大事なことではありますが)。この表記の揺らぎから、140年前に行われた講義の痕跡のようなものが垣間見えるような気がして興味深いのです。ライヴ感とでも言いましょうか。どういうことか、次回お話しすることにしましょう。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。