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社会言語学者の雑記帳7-2 忘却とは(つづき)

2011年 6月 8日 水曜日 筆者: 松田 謙次郎

忘却とは(つづき)

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 結局その理由は、アメリカの科学社会学者ロバート・マートンが提唱した「取り込みによる忘却 (Obliteration by Incorporation, OBI)」 によるものと考えられます。OBIとは、おおよそ次のような考え方です。ある学問領域で、学者Xが術語Yを考え出したとする。Xにとって幸福なことに、Yはその領域の論文や学会で好評を持って受け入れられ、「Y(X 2011)」として次第に引用され始める。そのうちに術語Yは研究者コミュニティでさらに一般化し、やがてその学問領域の教科書にも登場するに至る。すると、その術語Yも提案者の名前なしに使われるようになる。ここに至り、術語Yはいわばその学問領域の共通財産となり常識となる。しかし常識となると同時に、皮肉なことにその学問界の人々は最初の提案者であるXのことは次第に忘れ去ってしまい、しまいにはそもそも誰が術語Yを提唱したのかを正確に記憶しているのは一部の学説史研究家のみになってしまう。

 学問に情熱を感じる者であれば誰であっても、自分の提唱した術語がその領域の共通財産になることは最高の喜びでしょう。私にしても「松田の法則」だのMatsuda’s Generalizationだのといったフレーズが学会誌の紙面に飛び交うようになったら、行きつけの居酒屋を借り切って三日三晩大宴会を催し、華々しく破産するくらいのことはしかねません(;´∀`) しかし、その術語が本当に言語学界の常識となった暁には、おそらく私の名前はOBIによってそこから消えているはずです。悲しい話ですが、学者である以上、こうした事実に直面しても満足するようでなければならないのでしょう(´・ω・`)

 さて、最近の言語学を考えるにつけ、OBIを経て常識となった術語が少ないことに気がつきます。私が不勉強なせいでしょうが、1. 過去20年間に新たに提唱された言語学的概念で、2. 言語学者なら誰もが知っていて教科書にも掲載されるような「常識」となった概念を5つ挙げよ、と言われたら考え込んでしまいます(´ε`;) 社会言語学であればジェンダー、ポライトネス、言語景観、実践共同体、法言語学といった具合にいくらでも挙げることができます。しかしジェンダーやポライトネスはともあれ、その後の3語を社会言語学以外の領域の人がどれほどご存じかと問われると、はなはだ自信がありません。言語景観に至っては、「なんじゃそれ?(゚Д゚)ハァ?」と言われそうで、まさに((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル(*)。他の分野も同様で、併合だのスキーマだのと言われても、どれほどの言語学者が理解しているのでしょう。もちろん、私はこうした概念やその枠組み、またその言語学的な有効性や貢献を否定しているのではありません。また、先の社会言語学の例と同様、これらも生成文法や認知言語学の分野では「常識」となりつつあるのかも知れません。しかしいかんせん、それらは「音素」ほどの常識にはなり得ていないわけです。

 ここに至って気付くこと。それは、言語学のある下位分野の常識が別の下位分野の常識ではないことがあるとすれば、それは学問の進歩に伴う細分化によるものだということです。学問が前進するにつれ各分野は専門家の度合いを強め、新たな分野が独立し、さらに専門化が進行する。その過程で新たな「常識」が誕生するが、ちょっと前までは一緒であった分野であっても、今となっては独立してしまった別々の分野同士では、もはや共有財産である「常識」は存在しなくなっている。隣の言語学者は何する人ぞ。え、その術語はどういう意味? なに、これを知らないの? 術語「音素」の常識化が提唱者名「ボードゥアン・ド・クルトネ」の忘却と表裏一体だったように、専門化の進行は常識の減少と表裏一体だったわけです。

 ちなみに筆者の隣の研究室(そしてその隣)は生成文法学者ですが、おおよそどんなことをやっているのかは互いに知っています(たぶん)。そして彼らはおそらく「音素」の提唱者も知っていることでしょう。たぶん。

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(*) 【編集部注】実はココのサイトには「言語景観」のコラムがいっぱいありまして。標識や看板などのアレです。どんなものかとお思いになった方、ぜひぜひ↓とか↑とか→とかご覧くださいまし。

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【筆者プロフィール】

松田謙次郎(まつだ・けんじろう)
神戸松蔭女子学院大学文学部英語英米文学科、大学院英語学専攻教授。Ph.D.
専攻は社会言語学・変異理論。「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」と称して、自然談話データによる日本語諸方言の言語変化・変異現象研究や、国会会議録をコーパスとして使った研究などを専門とする。
『日本のフィールド言語学――新たな学の創造にむけた富山からの提言』(共著、桂書房、2006)、『応用社会言語学を学ぶ人のために』(共著、世界思想社、2001)、『生きたことばをつかまえる――言語変異の観察と分析』(共訳、松柏社、2000)、『国会会議録を使った日本語研究』(編、ひつじ書房、2008)などの業績がある。
URL:http://sils.shoin.ac.jp/%7Ekenjiro/

【編集部から】
「社会言語学者の雑記帳」は、「人がやらない隙間を探すニッチ言語学」者・松田謙次郎先生から キワキワな話をたくさん盛り込んで、身のまわりの言語現象やそれをめぐるあんなことやこんなことを展開していただいております。

2011年 6月 8日