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漢字の現在:「阮」さんと「佐藤」さん

2011年 6月 21日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第109回 「阮」さんと「佐藤」さん

 日本人は、中国人や韓国人よりも、ベトナム人に似た性格をもっていると思えることがある。気質自体は生真面目さが強い点で近いが、おおらかさでは日本人は概して引けをとるかなとも感じられる。ただし、「♡」にとどまらない多彩なマークや丸文字、ヘタウマ文字など、美化語ならぬ美化字、正確には美化書風、美化表記、より厳密には「可愛化書風」、「可愛化表記」は、やはり日本人、とりわけ若年層の女性たちが「かわいさ」に与えた価値の高さが生み出してきたものであろう。

 これらは、語を飾り、物事を飾り、紙面を飾り、イメージを膨らませ、ついには書き手をもかわいく見せようとするものであり、それが受け手に好印象とともに影響を与え、そこからまた他者、とくにグループ内の仲間にも良い印象を、と循環する。その連鎖でかわいい書体や表記の意義がいっそう強化され、ついには社会的な暗黙の目標やルールのようになっていくものも現れる。


新しく書写されたチュノムの実例
(クリックで周辺も含めて拡大)

 ベトナムでは、漢字が読める人がどのくらいいるのだろう。識字率というものは厳格に割り出すことが難しいものだが、清朝末期の徽州のある村々では、男性が7%、女性は1%というショッキングな数値を見たことがある。現在のベトナムではクオックグウについてであろうが、94%に達するという数字もある。漢字については、読める人は10%くらいですか、とベトナム人研究者に聞くと、そんなものですかね、とのこと。

 ただ、漢字に関心を持っている人が増えてきたとも言う。知り合いの女性研究者は、おじいさんが漢字を知っていて、家で『三千字』という昔ながらの教科書を使って教えてくれた、その頃はおじいさんたちは皆漢字を知っていたと語ってくださった。開高健の残した記録にも、ベトナム戦争時に僧侶と漢字で筆談した話が出てくる。今の若いベトナム人研究者の一人は、大学に入って初めて漢字を学んだという。

 ベトナムでは会う方々の姓の種類が限られていた。なんと言っても多いのがグエン姓だ。漢字では、「阮」、中国にも阮籍、阮元などたくさん見られる姓ではあるが、ベトナム最後の皇帝の姓であることが人口を最大に増やしたのだろう。概して伝説的な人物や王朝を立てた王の姓と大姓が一致する。中国よりも韓国、韓国よりもベトナムの方が大姓への集約度が高い。韓国・北朝鮮の「金」さん(総人口の22% 約300種中)、中国の「王」さん(同じく7% 約4000種中)よりも、その占める比率は高そうだ。

 ほかにも「陳」「黎」など王の姓は人口が多い。また、「梁」「范」「呂」「黄」姓など漢字ではどこの国の人か見紛うようだ。朝鮮半島では、統一新羅の頃までは固有語の姓名が用いられていたことが『日本書紀』などの記録から知られているが、中国風の音読みで1字(稀に復姓も)という大原則が徹底された。地名も唐に倣うことが原則のようになったが、日本では訓読みの方法も大規模に維持された点が特異であった。中国では少数民族も音訳などの方法により、姓名に漢字表記をもっている。

 日本だけが、姓には訓読みが多く、2字が平均という独特な世界を構築し、読みの変更や異体字の使用も加わり、数十万種にのぼるとされるほど、世界でも有数の多様性を呈している。「佐藤」さんか「鈴木」さんが最多であっても、それぞれ2%足らずといわれるが、ベトナム同様に悉皆調査がなく、今なおその全容は不明のままである。姓を文化としてとらえる風土が根付いていない証左であり、こればかりは民間人の努力ばかりでは、いかんともしがたい面がある。

 ベトナムでは人の名にも、「南」(ナム)「雄」(フン)など漢越語が根強い。日本人の姓に対してもたとえば「河野」さんが漢越語で「ハーザー」と覚えられているようなケースが今でもあった。中国みたいな方法だ。日本の子供の名前も、漢語として理解してくれる。行政地名では、「郡・県」「市・町・村」の順などは、どうやら日本とは違いがあるようだ。都市部と農村とではその仕組みも異なるようで、韓国はもちろん、現在の中国とも違うかもしれないので、いずれ整理してみたく思う。

 10年以上前、熱帯のホーチミン市での会議で、たまたま横に座っていらしたベトナム言語学会会長の先生も、グエン姓でいらした。今回、その時のことを覚えていてくださったのか、先生からチュノムに関する御高著をサインとともに頂く僥倖にも恵まれた。小著も引用してくださっていた。もしお疲れでなければ、お越し下さったとのこと、学恩に深く感謝するばかりであった。

 ベトナム語では「ありがとう」を「感恩」(カムオン)という。大乗仏教の香りがしようか。ISOの統合漢字へ採用させるためのチュノムの候補リストの中にあった「(女+中に点)」が目に止まり、先生にその字の意味を中国語でうかがったら「売淫」(淫売)と、かつて北京留学で身につけたという流暢な中国語の発音で教えてくださったことが印象深い。日本の漢字についても関心を抱いておいでで、なるほどということをたくさんお話し下さった。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「ベトナムの筆跡」でした。

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2011年 6月 21日